春日大社を後にして、東大寺(奈良県奈良市)へ向かいます。

 

 今を遡ること1,200有余年、数多くの天災や疫病、政変などに見舞われた天平(てんぴょう)年間(729~749)、第45代聖武(しょうむ)天皇は仏教に深く帰依し、仏教を中心とした国づくりで国家を安定させようと741(天平13)年、国分寺(こくぶんじ)建立の詔(みことのり)を出し、その2年後の743(天平15)年に東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立の詔を出して、当時国内に全60余ヶ寺あった国分寺の総国分寺として国力を挙げて創建されたのがこの東大寺です。

 

 奈良公園をのんびり歩いて春日大社からここまで約15分、石畳の参道の脇には「華嚴(けごんしゅう)大本山(だいほんざん)東大寺(とうだいじ)」と記された寺号標が建っています。

 

 その先に圧倒的な大きさを誇る東大寺の正門の“南大門(なんだいもん)”があります。創建時の南大門は平安時代の台風で倒壊し、この門は鎌倉時代の1199(正治元)年に上棟、門内の金剛力士像とともに1203(建仁3)年に竣工したという国内最大級の重層門です。下を通る人びとと比べても、その巨大さがわかります。

 

 南大門内に安置されている勇壮な金剛力士像二体(阿形・吽形)は、

 

 運慶(うんけい)・快慶(かいけい)など鎌倉時代を代表する仏師たちの手により造立された高さ約8.4mもある巨像で、「東大寺のお仁王さん」として親しまれています。

 

 表参道の途中にある“二月堂”への参詣道入口。

 

 夫が立ち止まって境内案内図を見ていると、後ろから若い鹿さんが寄ってきてつんつん催促していますラブラブ。鹿せんべい、持ってないの~はてなマークって照れ。(ごめん、持ってないあせる)

 

 南大門と大仏殿のちょうど中間にあるこの“鏡池(かがみいけ)”は、池中に浮かぶ小島が手鏡のような形をしているところからそう呼ばれるそうです。正面の鳥居は小島に祀られている弁財天のものです。

 

 大仏殿前を囲む廻廊の中央に建つ“中門(ちゅうもん)”前まできました。外国人観光客でいっぱいです。

 

 中門の向かって左には四天王の持国天(じこくてん)、右には同じく多聞天(たもんてん)が祀られているそうです。中門は通れないので、左手の参拝者入口より大仏殿に向かいます。

 

 東廻廊と西廻廊に囲まれた大仏殿の前庭。南大門がどうしてあんなに大きくて立派なのか、この大仏殿を前にするとなるほど~とすんなりうなづけます。 

 

 東大寺の金堂にあたる“大仏殿”は創建以来二度の大火に見舞われ、現存する大仏殿は江戸時代に再建されたものだそうです。東大寺のホームページによると、この大仏殿の大きさは間口約57m、奥行約50.5m、高さ約48.7mで、見上げるばかりの巨大な堂なのですが、なんと創建当時の間口はさらに東西に広く、桁行11間(約88m)もあったそうです。

 

 大仏殿から延びる東廻廊。

 

 手水屋(てみずや)の大きさも大仏級です目

 

 大仏殿の下まで来ると、改めてその巨大さに驚きます。見上げていると首が痛くなるくらい・・・(笑)。南大門と同じく、出入りしているひとたちと比べてみるとより実感できます。

 

 大仏殿の正面に立つ“金銅八角灯籠(こんどうはっかくとうろう)”は高さが4.6mもあり、修復を重ねながらも火災にも耐え、創建当初の姿を今に伝えているそうです。わたしの撮った写真は燈籠が切れていたので、上の写真は東大寺のホームページよりお借りしました。囲いまできれいな八角形をしています。

 

 大仏殿入口の前に立つと、正面に「奈良の大仏さま」として親しまれている御本尊“盧舎那仏(るしゃなぶつ)”の穏やかな御尊顔があります。パンフレットによると盧舎那仏とは宇宙の真理を体得なされた釈迦如来の別名で、世界を遍(あまね)く照らす仏という意味だそうです。

 

 盧舎那仏の足元のちょうどわたしたちの目線の高さに、大仏さまの蓮華座(れんげざ)に使われている蓮弁(れんべん)のレプリカが置かれていて、蓮弁の一枚一枚に刻まれた「蓮華蔵(れんげぞう)世界」を間近で見ることができます。「蓮華蔵世界」とは、華厳経(けごんきょう)の説く悟りの世界をわかりやすく絵にしたものだそうです。

 

 大仏さまの向かって左には脇侍仏の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)坐像。困難を乗り越えるための智慧を授けてくださる仏さまです。

 

 大仏殿の上に載る“鴟尾(しび)”の実物大もあります。興福寺の中金堂にも載っていましたが、中国伝来の鴟尾は宮殿や寺院など重要な建物の大屋根の上に置かれ、防火や防水の魔除けにしたものだそうです。それにしても大きいビックリマーク

 

 大仏さまの左奥には、これも見上げるばかりに背の高い“廣目天(こうもくてん)”の立像が控えています。

 

 大仏さまを左後ろから。国宝をこんなに間近で鑑賞できる上に、写真撮影もさせていただけることがほんとうにありがたいですラブラブ

 

 大仏さまの背後に創建当時の伽藍(がらん)を50分の1に縮小した模型が展示されています。見るとこの巨大な大仏殿の左右に、なんと高さ100mを超す七重塔(東塔・西塔)まであったのだとかビックリマーク。あまりのスケールの大きさに、ほんとうに奈良時代の話かしらと半信半疑なのですが、考えてみると、国を挙げての一大事業として建てられ、これほどの大伽藍を持つ東大寺に七重塔が聳えていても決しておかしくないし、ある意味当然だったのかもしれないとも思えてきます。写真は全体が一枚に収まらず、二枚に分けて撮りました。

 

 大仏さまの光背(こうはい)を裏側から。

 

 向かって右奥には、廣目天と対を成して“多聞天(たもんてん)”の立像があります。

 

 大仏さまの向かって右の脇持仏は“如意輪観音(にょいりんかんのん)坐像”です。観音さまなので、あらゆる苦しみから衆生を救ってくださいます。

 

 堂内の柱の一本に大仏さまの鼻の穴と同じサイズの大きな穴が開けられていて、それを潜り抜けられると無病息災の御利益がいただけるという東大寺の“柱くぐり”が、コロナ禍を経てようやく再開されていました。子どもや若者たちがこぞって挑戦している姿を見るのも楽しくて、この穴は大仏殿の北東の鬼門除けでもあるので、元気な若者たちがどんどん行き来して、風通しをよくしてくれたらいいなぁと思いますニコニコ

 

 美しい朱塗りの大仏殿の東廻廊。

 

 大仏殿を出て法華堂(三月堂)へ向かう途中に、金色に輝く法輪のようなものがありました。調べると、これは平安時代に焼失した東大寺の七重塔の頂を飾っていた相輪(そうりん)のレプリカで、1970(昭和45)年の大阪万国博覧会に再現出展された高さ86mの東大寺七重塔に付けられていたものが、万博終了後東大寺に寄贈されたのだそうです。

 

 東大寺の鎮守社である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の鳥居をくぐります。東大寺の創建にあたり749(天平勝宝元)年、豊前国(現在の大分県)の宇佐(うさ)八幡宮より勧請(かんじょう)された神社だそうです。

 

 石段を上り、東大寺の“上院(じょういん)”と呼ばれる若草山の麓の小高いエリアへ向かいます。

 

 正面に“法華堂(ほっけどう)”の横顔が見えてきました。

 

 法華堂は別名“三月堂”とも呼ばれ、寺伝によると東大寺の前身と伝わる“金鐘寺(きんしょうじ)”という寺の遺構の一つだそうです。金鐘寺は聖武天皇が生まれたばかりで亡くなった皇太子、基親王(もといしんのう)の菩提を弔うために建てた寺で、創建は東大寺よりもさらに古い733(天平5)年とのこと。法華堂の内陣には御本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を中心に阿吽(あうん)の金剛力士像、四天王像、帝釈天(たいしゃくてん)に梵天(ぼんてん)像が立ち並び、そのすべてが国宝というまさに「仏さまの世界」に包み込まれます。

 
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 ところで朝から歩き続け、気づけば時分どきを過ぎています。腹が減っては寺社巡りにも支障をきたすので(笑)、法華堂を出たところに店を構える“東大寺絵馬堂茶屋”でお昼をいただきました。わたしは「デラックス」という全部載せのうどん、夫は蕎麦でひとやすみ~音譜
 

 お腹も満てて元気回復ビックリマーク。つづいて法華堂の脇から“不動堂”へ向かいます。

 

 高台に建つ“不動堂”は、東大寺のホームページによると以前興福寺の塔頭(たっちゅう)にあった建物を二度移築したもので、堂内には御本尊の五大明王像が祀られているそうです。

 

 こちらは法華堂と手向山(たむけやま)八幡宮の間に建つ“法華堂経庫”(左)と“御髪塔”(右)。校倉造(あぜくらづくり)の美しい経庫(きょうこ)は経典を収納する蔵ですが、十三重塔のような御髪塔は案内板なども何もなく、由来を知ることができませんでした。

 

 法華堂の向かいの“四月堂”。ホームページによると、かつて旧暦4月に法華三昧会が行われたことから“三昧堂(さんまいどう)”とも呼ばれるそうです。御本尊は十一面観音立像で、大きな建物の多い東大寺の中ではこぢんまりとしていて逆に落ち着きます。

 

 そして上院のハイライト、舞台づくりが美しい“二月堂”へ。

 

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 少し急な石段を上り、

 

 山門から入ります。

 

 古都奈良に春を告げる“お水取り”で有名な二月堂は、東大寺の初代別当である良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟(=弟子)の実忠和尚(じっちゅうかしょう)により752(天平勝宝4)年に建立され、毎年旧暦2月に“修二会(しゅにえ)”と呼ばれるお水取りを行うところからそう呼ばれます。壁には大きな奉納絵馬額、丸い吊り提灯にも風情があります。

 

 そして堂々たる唐破風(からはふ)屋根を持つ手水舎(てみずしゃ)は、大仏殿前のものより豪華で風格があります。天井には龍と方位盤、蛙股(かえるまた)の彫刻も素晴らしく、水盤に巻き付く龍は今にも動き出しそうな迫力です。東大寺の境内にはあちこちに手水舎がありますが、二月堂のそれは中でもピカ一キラキラではないかと思います。必見です。

 

 お水取りは国家安泰、万民幸福、五穀豊穣を願い毎年3月1日から14日まで2週間にわたって行われる宗教行事で、奈良時代より現在まで1,200年以上、一度も途絶えることなく連綿と続けられていることから“不退の行法”ともいわれるそうです。

 

 見晴らし抜群の二月堂の舞台ラブラブ

 

 二月堂の御本尊は十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)で、秘仏とされるそうです。また堂内は一般的な仏堂建築とはかなり趣を異にし、修二会(しゅにえ)のさまざまな作法を行うにふさわしい特別な造りになっているそうです。

 

 高台に建つ二月堂の舞台からは、遠く奈良市街まで見渡せます。中央奥の大屋根は大仏殿、左の大きな杉の木は“良弁杉(ろうべんすぎ)”です。

 

 右下には屋根つきの“登廊(とろう)”が見えます。

 

 南側から二月堂に入り北側に抜けると、すぐ目の前に“二月堂茶所”の札の下がる大きな建物があります。内部にはお水取りに使う松明(たいまつ)や各種資料が展示され、映像も流れているので、セルフサービスの無料給茶サービスをいただきながらお水取りについて知ることができます。テーブル席のほか一部座敷もあり、靴を脱いで寛げます。

 

 二月堂茶所を出るとさらに上へ続く石段があるので、上ってみると途中に“遠敷(おにゅう)神社”が、

 

 さらに上ると、

 

 頂上に“山手観音堂”がありました。

 

 二月堂北側の登廊を下ります。

 

 形のよい良弁杉(ろうべんすぎ)には、東大寺初代別当の良弁僧正が赤子のころ鷲にさらわれて、この杉の枝に引っかかっていたところを、後の師となる僧義淵(ぎえん)に助けられたというエピソードが残っているそうです。

 

 二月堂下にあるこの“閼伽井屋(あかいや)”は、霊水の湧く“若狭井(わかさい)”という井戸の覆屋(おおいや)だそうです。毎年3月13日の未明、この若狭井から御本尊に捧げる香水(こうずい)を汲み上げるのが有名な“お水取り”で、今や二月堂の代名詞にもなっています。この若狭井にもおもしろいエピソードがありました。あるとき若狭国の遠敷(おにゅう)明神が魚釣りに夢中で二月堂の修二会(しゅにえ)に遅刻してしまい、そのお詫びとして若狭の地から香水をお送りすることになったそうです。大和国の東大寺に若狭国からの水、二月堂の裏手に遠敷神社があったのはそういうご縁だったのですね照れ

 

 美しい形状の“鐘楼(しょうろう)”は鎌倉時代に再建されたもので、

 

 奈良時代に鋳造された梵鐘(ぼんしょう)とともに国宝に指定されています。この梵鐘は鐘音の振幅がとても長く、その音色は“奈良太郎”の愛称で親しまれ、日本三名鐘のひとつにも数えられているそうです。

 

 鐘楼のある一帯は“鐘楼ヶ丘”と呼ばれ、たくさんのお堂が立ち並びます。こちらはもと地蔵堂と呼ばれていた“念佛堂(ねんぶつどう)”で、鎌倉時代に造られた地蔵菩薩坐像が安置されているそうです。

 

 “行基堂(ぎょうきどう)”は東大寺の創建にも尽力した奈良時代の僧、行基の坐像を祀るお堂です。

 

 “俊乗堂”には鎌倉時代に大仏さまと大仏殿を再興した中興の祖、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)の坐像が安置されています。

 

 この鳥居の奥には“辛国社(からくにしゃ)”という神社があります。古くは天狗社と呼ばれ、良弁(ろうべん)僧正が悪さをする天狗を改心させ、仏法護持を誓約させて創建したとも伝わるそうですが、現在祀られている御祭神は、東大寺の造営に尽力した朝鮮からの渡来人を神格化した“韓国翁(からくにのおきな)”だそうです。同じ読みの「からくに」にふたつの漢字を当てているのが興味深いです。

 

 “猫段(ねこだん)”というかわいらしい名前の石段を下ると、

 

 大仏殿の真裏(北側)の“講堂”跡地という広場に出ます。

 

 地図を見るとその先に“正倉院(しょうそういん)”があるようなので、外観だけでも見れないかと行ってみたのですが、

 

 だだっ広い講堂跡をぐるりと迂回して延々と歩いてきたのに、見ると土日祝日は公開なしとのことショボーンあせる。下調べをしないバチはこういうところで当たるのです笑い泣き

 

 振り返って大仏殿を背後から眺めつつ境内に戻ります。ここで寛いでいる鹿さんたちは、表参道の人混みの中にいる鹿さんたちよりもっと、のんびりしています照れ

 

 正倉院にフラれてしまったので、大仏殿の西側のエリアに行ってみます。この建物は“指図堂(さしずどう)”といい、東大寺のホームページによるとここは平安時代に建てられた中門堂の跡地で、江戸時代初期、大仏殿復興事業を進めるための「指図」すなわち大仏殿の計画図面を描いた板絵を展示するお堂が建てられて、それを指図堂と呼んだそうです。今でいう設計事務所みたいなものでしょうか。現存の指図堂は1852(嘉永5)年頃に再建されたものだそうです。

 

 つづいて“東大寺戒壇院戒壇堂(かいだんどう)”を拝観します。“戒壇(かいだん)”とは、仏道に帰依(きえ)する証として、戒律を守ることを仏さまに誓い受持する儀式(受戒または授戒)が行われる神聖な場所のことです。(※受ける方を受戒、授ける方は授戒となります)

 

 堂内の須弥壇上には中央に多宝塔(たほうとう)と多宝如来、釈迦如来、四隅に仏法の守護神である四天王(増長天・広目天・多聞天・持国天)がそれぞれ安置され、その周りをぐるりと周回しながら拝観することができます。何といっても戒壇堂の四天王像はたたずまいに品格があり、憤怒を表わしながらも慈愛を秘めたその表情は今でも忘れることができません。

 

 東大寺のホームページによると、754(天平勝宝6)年、唐の高僧鑑真和上(がんじんわじょう)は5度の渡航失敗を経て6度目にようやく日本の地を踏み、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙(こうけん)天皇をはじめ440余人に戒(かい)を授け、翌年そのときの土壇をここに移して戒壇堂が建立されたそうです。戒壇堂は日本で最初に設けられた正式な授戒の場として、とても貴重なところと言えますね。

 

 戒壇堂の前庭は、静かに打ち寄せるさざ波のように美しく整えられています。

 

 塀の外からも戒壇堂の美しい屋根が見えます。屋根は二重になっていますが二階建てではなく、このように本来の屋根の他にもう一枚、庇(ひさし)のように屋根を取りつけたものを“裳階(もこし)屋根”というそうです。

 

 戒壇堂のさらに奥には“戒壇院千手堂(せんじゅどう)”がありますが、残念ながら内部非公開のためお参りだけさせていただきます。堂内の須弥壇(しゅみだん)上には厨子に入った千手観音像が安置されているそうです。

 

 東大寺の境内はとても広く、境内図を見ながら歩いたつもりでもまだまだ見落としたところがたくさんありました。それでも大仏さまの懐に抱かれながらそのお足元を巡ることができたのは望外の喜びで、一年の締めくくりにふさわしい旅の思い出になりました。

 

 御朱印は大仏殿(右)、法華堂(中)、二月堂(左)のものをいただきました。(⑦につづく)

 

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