京都・奈良旅の三日目は、一日奈良で過ごすことにしました。

 

 ありがたいことにこの日も雲は多いものの快晴晴れで、お寺さん巡りには絶好の日和です。

 

 近鉄奈良駅のコンコースでは、奈良公園の鹿の親子と奈良県のマスコットキャラクター“せんとくん”が迎えてくれましたニコニコ。地元のひとたちは足早に通り過ぎてゆかれますが、旅行者には「ようこそ」と言ってもらえるこういうディスプレイ、とっても嬉しいですラブラブ

 

 駅前広場には噴水があり、その頂上に立っておられるのは行基菩薩像(ぎょうきぼさつぞう)です。飛鳥~奈良時代にかけて活躍した僧行基は東大寺の造立にも関わっていたのでそのご縁かと思いますが、人びとが集う公共の広場に行基像があっても、違和感なくごく自然に溶け込んでいるのはやはり、古都奈良ならではのものですね。

 

 近鉄奈良駅前の商店街を抜け興福寺に向かっていると、左手に『古梅園製墨(こばいえんせいぼく)』の看板の掛かる店があり、書道が趣味の夫は思わぬ邂逅(かいこう)に「そうかビックリマーク古梅園は奈良だったね」と言いつつ、まるで子どもが好きなヒーローの武器を自慢するようなノリで「ここの墨、持ってる照れビックリマーク」とすごく嬉しそうですラブラブ

 

 興福寺(奈良県奈良市)の道向かいのこの猿沢池(さるさわいけ)は、興福寺の放生池(ほうじょうち=捕らえた魚を放す池)として749(天平21)年につくられたものだそうです。奈良時代、帝の寵愛(ちょうあい)が衰えたことを悲嘆した采女(うねめ)がこの池に身を投げたと伝わり、池の畔にはその采女を祀る神社もあるそうです。1,200年以上前の池が今もこうして水を湛えているのを見ても、京都(平安京)よりもうひとつ古い奈良(平城京)の歴史が感じられます。

 

 ここは興福寺(こうふくじ)の正門にあたる“南大門跡”の基壇(きだん)です。コンクリートできれいに復元され、その上の丸い盛り上がりは、重層建築だったという壮麗な南大門を支える柱の礎石の跡と思われます。

 

 左手には美しい八角円堂の“南円堂(なんえんどう)”、

 

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 右手には天平様式を今に伝える優美な“五重塔”が聳え、

 

 正面には、興福寺伽藍の中心をなす“中金堂(ちゅうこんどう)”が辺りを払うような圧倒的な存在感を見せています。興福寺は669(天智8)年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が病に罹ったとき、病気平癒を祈願して妻が京都山階(やましな)に建てた山階寺を起源とし、飛鳥を経て平城京遷都の折、710(和銅3)年にその子藤原不比等(ふひと)によってこの地に移され“興福寺”と改号されたと伝わります。「大化の改新」や「大宝律令(たいほうりつりょう)」などとともに苦労しながら日本史で覚えた名前が続々登場します。

 

 こちらは中金堂の東に位置する“東金堂(とうこんどう)”。726(神亀3)年、聖武天皇の発願により建立され、堂内には御本尊の薬師如来坐像や日光・月光菩薩像、文殊菩薩像などが安置されているそうですが、隣の五重塔の修復工事に伴い周囲が工事エリアになっていて、拝観は叶いませんでした。

 

 案内看板によると、このたび興福寺五重塔は明治以来120年ぶりとなる大規模な保存修理工事にとりかかったそうで、2023(令和5)年7月より素屋根(すやね=工事用の覆屋)の建設が始まり、2031(令和13)年の完工まで、しばらくの間五重塔の姿は見えなくなるそうです。このときはちょうど素屋根の足場が組まれているところで、身を隠す前に名残りを惜しむことができたのはほんとうに有り難いことでした。

 

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 さて、中金堂の内部拝観に行きます。中金堂は創建以来6度の焼失・再建を繰り返し、1717(享保2)年の焼失以来再建叶わなかったものが、その後の発掘調査などを経て2018(平成30)年にようやく再建落慶を迎え、このような創建当時の威風堂々たる姿を取り戻したのだそうです。

 

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 屋根に載る黄金の一対の飾りは“鴟尾(しび)”といい、飛鳥・奈良時代には宮殿や仏殿など重要な建物の上に飾られて、防火や防水などの魔除けとしていたそうです。こうして青空に映える中金堂を見ていると、何とはなしに「あをによし 奈良の都は咲く花の におうがごとく 今盛りなり」という万葉集の歌が思い浮かびます。

 

 広々とした中金堂の内部には金色に輝く御本尊の釈迦如来坐像を中心に、その四方を広目天(こうもくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・持国天(じこくてん)・多聞天(たもんてん)の四天王立像その他がお守りしています。また興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山であることから、法相宗の祖師14人のお姿が描かれた“法相柱(ほっそうちゅう)”という柱もありました。内部は写真撮影不可のため、上の写真は中金堂のパンフレットよりお借りしました。

 

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 中金堂の背後にひっそりと佇むのは“仮講堂”で、興福寺のホームページによるとこの建物は、1717(享保2)年の火災後に建てられた小規模な中金堂の“仮堂”が荒廃して使い物にならなくなった後、1975(昭和50)年、講堂跡に薬師寺から移築して建てられた“仮金堂”だったそうですが、中金堂がめでたく再建落慶を果たしたことでその役目を終えたそうです。しかし一方本来の講堂跡に建てられているので、今後講堂としての再興を予定しており、そのため名称を“仮講堂”としてあるそうです。知ってみると奥が深いですね。

 

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 仮講堂の脇の囲われている部分は境内図によると“経蔵跡(きょうぞうあと)”のようで、基壇が復元されています。

 

 中金堂への参拝を終え、境内の散策に出ます。こちらは八角円堂に唐破風(からはふ)屋根を持つ美しい“南円堂(なんえんどう)”。813(弘仁4)年、藤原冬嗣(ふゆつぐ)がその父内麻呂(うちまろ)追善(ついぜん)のために創建したもので、御本尊は不空羂索(ふくうけんじゃく)観音菩薩坐像だそうです。西国三十三ヶ所観音霊場の第9番札所にもなっていて、堂前にはおびんずるさまも鎮座しておられ、早朝から人びとの参拝が絶えないところを見ると、地元の方々にとても親しまれているお堂のようでした。

 

 南円堂のかわいらしい鐘楼(しょうろう)。

 

 南円堂と向かい合うようにして建つ“不動堂”には火焔を背負う不動明王が祀られています。立看板にもあるように、この堂内で火を焚き上げながら行う護摩法要(ごまほうよう)が催されるので、堂内と一部堂外の壁までも煤(すす)で黒くなっているのがわかります。

 

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 興福寺にはかつて三つの金堂があり、中金堂を中心に東に東金堂、西に西金堂(さいこんどう)が並んでいたそうです。西金堂は734(天平6)年、藤原不比等(ふひと)の娘の光明(こうみょう)皇后が亡母橘美千代(たちばなのみちよ)の冥福を祈るために建立しますが、1717(享保2)年の火災で焼失し、その後再建されていないので、今はこのように基壇の上に碑石が遺されているのみです。

 

 西金堂内には御本尊の釈迦如来像とその十大弟子や菩薩像などとともに、天平彫刻の傑作といわれる阿修羅像(あしゅらぞう・写真右下)を含む“八部衆(はちぶしゅう)立像”も安置されていたそうで、奇跡的に火災を免れたそれらの仏像や法具などは、現在“興福寺国宝館”で実際に見ることができます。

 

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 中金堂向かって左手の小高い丘の上に建つ“北円堂(ほくえんどう)”。南円堂と同じ瀟洒な八角円堂で、721(養老5)年、元明(げんめい)・元正(げんしょう)天皇が興福寺の創建者である藤原不比等の霊を慰めるために、長屋王(ながやおう)に命じて建てさせたものだそうです。拝観はできませんが御本尊は弥勒(みろく)如来坐像だそうです。

 

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 北円堂から西金堂跡と南円堂の裏を抜け、坂道を下る途中の右手に、それはそれは美しい“三重塔”が現れます。奈良公園のランドマークでもある五重塔ほど有名ではありませんが、繊細で優美なその姿をこんなに間近で見られるのがとてもいいですラブラブ

 

 あまりにも美しいので角度を変えてもう一枚カメラ。大伽藍の端っこだからか来るひともなく、心ゆくまでその姿を堪能しました。

 

 東金堂の前に戻り、

 

 その奥の“興福寺国宝館”を見学に行きます。

 

 館内にはそのほとんどが国宝や重要文化財に指定されている数々の仏像や厨子(ずし)、燈籠(とうろう)、古文書などが展示され、「国宝館」の名に恥じないその重量感にひたすら圧倒されて、時を忘れただ目を瞠(みは)るばかりです。興福寺の歴史がすべて詰まったような国宝館は、立ち去り難いほどに素晴らしい展示内容でした。撮影不可のため、上の写真は興福寺国宝館のパンフレットよりお借りしました。

 

 美しく甦った興福寺の五重塔に次にまた会えるのは早くて8年後・・・。明日のことは誰にもわからないのですから、次の機会を待つよりも、今このときこの瞬間を、しっかりと目と心に焼きつけておきたいですラブラブ

 

 中金堂(右)と東金堂(左)の御朱印をいただきました。

 

 興福寺を出て少し歩くと大きな鳥居が見えてきたので、次は“春日大社”(奈良県奈良市)

へ行くことにしました。こちらが国道169号線に面した一の鳥居。

 

 長いあいだ風雪に耐えてきた風格漂うこの大鳥居は、春日大社と興福寺の境内地を分ける結界(けっかい)の役目も果たしていたそうです。

 

 そこから長い参道がまっすぐ奥へと続きます。

 

 そこここに奈良公園名物の鹿さんたちがいて、鹿せんべいを持っていなくても親し気に近づいてきてくれるのがほんとにかわいいニコニコ

 

 参道脇に洋館があるので案内板を見ると“重要文化財 旧奈良県物産陳列所”とあり、現在は奈良国立博物館付属の“仏教美術資料研究センター”になっているようです。そういえば一の鳥居のすぐ近くに奈良国立博物館がありますね。とても行きたいけれど、入ってしまったら最後たぶん夕方まで出て来れないので、一日しかない旅程ではどうにもなりません。

 

 奈良公園の鹿さんたちは国の天然記念物に指定されている野生動物なので、飼い主がいて飼育されているわけではないのですが、代々ここで皆に大切に見守り育まれているので、穏やかでとてもひとに馴れています。

 

 左手の“春日大社萬葉(まんよう)植物園”は、万葉集に出てくる約300種180種類の萬葉植物を育てる植物園で、昭和天皇より御下賜金を賜り、万葉集にゆかりの深い春日野の地に、1932(昭和7)年に開園したものだそうです。

 

 境内社の“壺神(つぼがみ)神社”。

 

 さらに表参道をすすむと、

 

 “二の鳥居”が見えてきました。

 

 二の鳥居をくぐったところにある“伏鹿(ふせしか)の手水所(てみずしょ)”。春日大社の御祭神のひとりの武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、常陸国(ひたちのくに)の鹿島神宮から白鹿に乗って奈良の御蓋山(みかさやま)に降り立ったと伝わるので、奈良公園の鹿さんたちが神鹿(しんろく=神さまの使い)として大切にされているのはそれに由来するのですね。

 

 案内板に従い伏鹿の手水所で御手水を取ってから隣の“祓戸(はらえど)神社”に参拝し、心身を浄めて本殿へと向かいます。

 

 春日大社の参道の両脇には奉納された石燈籠(いしどうろう)がとても多く、その数日本一とも言われるそうです。本殿が近づくにつれて石燈籠も密集してきます。

 

 一の鳥居から歩いて20分ほどで春日大社本殿前の“南門”に着きました。

 

 南門前の囲いの中に“出現石”がありました。案内板によるとこの石は神さまが降臨するための憑代(よりしろ)とも、奈良時代の772(宝亀3)年、落雷により落下した社額でできた穴を埋めた“額塚”とも言われるそうです。

 

 春日大社の正門でもある南門は、高さ約12mもある美しく華麗な楼門(ろうもん)です。

 

 南門からつづく回廊の左側。

 

 同じく右側。入れないので南門の下から眺めます。

 

 南門をくぐると正面が幣殿(へいでん)・舞殿(ぶでん)のようなのですが、

 

 前面すべてに幕が張られ、

 

 「参拝順路右矢印」の右手が臨時の参拝所になっていて、その先へ入ることはできないようです。

 

 ここが臨時参拝所の最前列。周囲には作業服姿の職人さんが幾人もおられ、工事の道具や職人さんたちの衣類などが積み上がり、ひっきりなしに物音や話し声がしているので、申し訳ないのですが、とてもこころ静かに参拝する雰囲気ではありませんでしたショボーン。境内図によると、正面に見えているのが中門とその御廊のようです。

 

 幣殿の内部はこんな感じ。初詣には間に合うのかなぁとちょっと心配あせる

 

 境内社にもお詣りをしたいのですが、

 

 作業中の方々の邪魔になりそうでそれも叶わず、

 

 そそくさと臨時参拝所を後にしました。

 

 この日入ることができたのは☆印のところまでで、四柱の御祭神をそれぞれ祀る“四所神殿”を垣間見ることはできませんでした。申し遅れましたが、春日大社は全国に約1,000社ある春日神社の総本社で、御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと・第一殿)、経津主命(ふつぬしのみこと・第二殿)、天児屋根命(あめのこやねのみこと・第三殿)、比売神(ひめがみ・第四殿)の四柱で、総称して“春日神(かすがのかみ)”と呼ばれています。

 

 慶賀門(けいがもん)から西回廊へ出て、

 

 回廊が途切れる“清浄門(せいじょうもん)”のところから、少しでも中を覗けないかと身を乗り出してみます(笑)。

 

 同じく“内侍門(ないしもん)”から見ると左手に“多賀神社”、正面の校倉造(あぜくらづくり)の建物は“宝庫”で、鏡や太刀などの御神宝が収められているそうです。

 

 西回廊から一段下りたところにある“酒殿(さかどの)”と

 

 “竈殿(へついどの)”は、いずれも葵祭(あおいまつり)、石清水祭(いわしみずさい)とともに日本三大勅祭のひとつに数えられる春日大社の例大祭“春日祭(かすがさい)”で使われる御神酒(おみき)や神饌(しんせん)を調整するところだそうです。

 

 酒殿、竈殿の前から見上げる西回廊。

 

 特別参拝受付の窓口は開いていたので、後から思うとそちらを申し込めば御本殿への参拝や東回廊の吊灯籠なども見られたのかもしれません。そのときは思い至らず、悔やんでもあとの祭りあせる。ほんの入口だけの参拝で大変申し訳ないことでした。

 

 この“本宮神社遥拝所”からは、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が白鹿に乗って降臨なさったという御蓋山(みかさやま)の頂上に鎮座する本宮神社を遥拝することができます。

 

 こちらの“若宮(わかみや)神社”の御祭神の天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)は、春日大社の御祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)の御子神(みこがみ)でいらっしゃり、平安中期の1003(長保5)年、神秘なる蛇の姿でご出現されたと伝わるそうです。

 

 若宮は水を司る神さまなので、長承(ちょうしょう)年間(1132~1135)の大雨洪水による飢饉や疫病退散を願い、春日大社の創建から遅れること367年の1135(長承4)年、この地に若宮神社が創建されるに至ったそうです。

 

 春日大社の御朱印です。こののびやかな墨書を見ると、今でも優雅であでやかな春日大社の朱塗りの楼門が目に浮かびます。(⑥につづく)

 

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