年が明けたのに師走旅の話で恐縮ですが、再開させていただきますニコニコ

さて二日目の朝、急な思いつきで宇治を訪ね、期待以上の豊かな時間を過ごしたあと、予定どおり次の目的地の蓮華王院三十三間堂(京都市東山区)へ向かいました。

 

 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は初日の東寺(京都市南区)とならび今回の旅で必ず訪れたいと思っていたところなので、ここに来ることができただけでも胸躍り、嬉しくて逸(はや)る気持ちを抑えるのに大きくひとつ深呼吸をしなければならないほどです音譜

 

 チケット売場の“普門閣(ふもんかく)”は、まるで本堂を模したような立派な建物。

 

 拝観者入口を入ると左手に庭園がひろがり、正面が本堂です。この本堂は“三十三間堂”の名で親しまれていますが、正式名称を“蓮華王院(れんげおういん)”と称する天台宗の寺院の本堂で、1164(長寛2)年、後白河(ごしらかわ)上皇の命により、当時権勢を誇っていた平清盛が資材協力をして創建し寄進したと伝わります。

 

堂内は写真撮影禁止なので、上の写真は“蓮華王院三十三間堂”のホームページよりお借りしました。

 

 階段状になった須弥壇(しゅみだん)には“中尊千手観音坐像(ちゅうそんせんじゅかんのんざぞう)”を中心に左右に各500体、総数1,001体の等身大の“千体千手観音立像”が隙間なく立ち並び、左右両端には“風神・雷神像”、さらに千手観音に従い仏教とその信者を守護する”二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)”までもが勢揃い、しかもそのすべてが国宝という壮大な眺めに足は竦(すく)み、息をするのも忘れるほどに感動しながらも、胸の内は逆にしんと鎮まり返っているのがじぶんでも不思議です。

 

同じく写真は“蓮華王院三十三間堂”のホームページよりお借りしました。

 

 千体千手観音立像(せんたいせんじゅかんのんりゅうぞう)にはそのすべてに御尊名がつき、表情やお召しもの、それぞれ40本ある手に持っておられる持物(じぶつ)に至るまで、ひとつとして同じものはないといわれています。あまりの感動にときを忘れ、風神側から堂内へ入り反対側の雷神の前に出るまでに、時計を見るとほぼ一時間かかっていました。雷神は案内板の「おすすめの参拝方法」に従い像の前で膝を折り見上げると、たしかに天井の垂木(たるき)が稲妻に見えて、いっそう迫力を増しました。

 

 全1,032体の仏さまに包み込まれて半分夢見心地で本堂を出ると、きれいに晴れ上がった青空晴れに迎えられ、それはそれで幸せなことだと思えます。

 

 庭園入口には“法住寺殿(ほうじゅうじどの)”址碑(あとひ)がありました。案内板によると、法住寺殿は皇子二条天皇に譲位した後白河院が約30年間にわたり院政を行った政庁だそうです。そういえば日本史で摂関政治の衰えた平安時代末期から鎌倉時代に至るまでの間、譲位した上皇が権勢をふるう“院政”という政治形態があったと習ったことを思い出します。

 

 本堂前にひろがるこの美しい池泉(ちせん)回遊式庭園は、1961(昭和36)年の後白河法皇770回忌記念事業の一環として造園されたものだそうです。左奥に見えるのは朱塗りの回廊に囲まれた“東大門”です。

 

 この“夜泣泉(よなきせん)”(※案内板の泉の字には酉偏がついていますが文字変換ができませんでした)おそらく手水舎(てみずしゃ)も兼ねていると思われますが、案内板によるとここは三十三間堂創建の翌年(1165)、堂僧が夢のお告げにより発見したと伝わる霊泉で、その水の湧き出す音が赤子のすすり泣きのように聞こえたことから“夜泣き”と呼ばれるようになったそうです。ほんとうに赤ちゃんの夜泣き封じにも御利益があるそうですよにっこり

 

 三十三間堂の正面・・・なのですが、南北に長い本堂は全長約120mもあり、正面からはどうがんばっても全体をフレームに収めることはできませんあせる。内陣正面の柱間(はしらま)が33あるところから三十三間堂と呼ばれますが、あの扉の奥に、今もまぶたの裏にありありと浮かぶ1,032体の仏さまがいらっしゃると思うと、改めて胸がいっぱいになりますラブラブ

 

 朱も鮮やかな“鐘楼(しょうろう)”。

 

 南側の築地塀(ついじべい)は豊臣秀吉が築造したことから“太閤塀(たいこうべい)”と呼ばれ、瓦に太閤桐(たいこうぎり)の文様が用いられているそうです。

 

 南東方向からめいっぱいがんばって撮ってみましたが、やはり全体は入っていません。

 

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 南西の隅に鎮座する三十三間堂の鎮守社“久勢稲荷大明神(くぜいなりだいみょうじん)”。

 

 本堂裏手の西庭では今でも毎年1月15日に近い日曜日に、江戸時代の武士たちが本堂の軒下で弓の腕前を競った「通し矢」古儀に因む弓道大会が催され、成人を迎えた振袖袴姿の女性射手(いて)の皆さんによる華やかな競技大会は、冬の京都の風物詩でもあるそうです。ここがその舞台となる“通し矢射場(しゃじょう)”です。

 

 全長120mもある日本一長い木造建築の迫力が伝わるでしょうか!?

 

 北西側からもう一回チャレンジするも・・・やっぱり入ってない~あせる

 

 とても凝ったつくりの“西門”。

 

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 その外側に出てみましたが、今はこの門から境外には出られないようでした。

 

 蓮華王院三十三間堂の御朱印(左)と御神札(右)。

 

 三十三間堂前からバスを乗り継ぎ約30分で銀閣寺道のバス停に到着。ここから銀閣寺を目指して(京都市左京区)歩きます。

 

 京都大学教授で哲学者の西田幾太郎(きたろう)氏がかつて、毎朝思索にふけりつつ歩いておられたことから“哲学の道”と呼ばれる散策路の一部を通ります。

 

 参道商店街の“銀コロッケ”が揚げたてあつあつでとっても美味しかったですビックリマーク

 

 ところで“銀閣寺(ぎんかくじ)”は通称で、正式名称は“東山慈照寺(とうざんじしょうじ)”といいますが、銀閣寺はもとは寺ではなく、室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が自身の隠居後の住まいとして建てた山荘“東山殿(ひがしやまでん)”が始まりといわれています。完成までに8年を要し義政公はその途中に亡くなったので、遺言により臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)の禅寺へと改められ、義政公の院号“慈照院”に因んで命名されたそうです。

 

 石畳の参道を行くと、

 

 “総門(そうもん)”があり、ここから先は順路通りにしか進めない一方通行になっていました。

 

 総門を入るとすぐ右に曲がり、長い参道がつづきます。“銀閣寺垣(ぎんかくじがき)”と呼ばれる竹垣に囲まれた細長い空間は外界から遮断された迷路のような雰囲気で、この先に現れるであろう景色に期待感が高まりますラブラブ。わたしが撮った写真は観光客がたくさん写り込み肝心の銀閣寺垣が入っていなかったので、上の写真は銀閣寺のホームページよりお借りしました。

 

 拝観受付(左)を兼ねた“中門”。

 

 ここからすでに美しい庭園が始まります。

 

 急に陽が翳り、おかげでまるで水墨画の世界に迷い込んだように美しく静かな“観音殿(かんのんでん)”が姿を現します。下層が書院造の“心空殿(しんくうでん)”、上層が仏堂の“潮音閣(ちょうおんかく)”で、二層の楼閣は鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿(しゃりでん)“金閣”を踏襲して造られていることから、対比して“銀閣”と名づけられたそうです。

 

 右手には銀閣寺の鎮守社の“八幡社(はちまんしゃ)”。

 

 左を振り向くと、目の前に“向月台(こうげつだい)”という美しくも不思議な円錐台形の大きな砂盛りがあらわれます。まるで巨大なプリンプリンみたいですが、砂ではさすがに上に座るわけにもいかず、庭園を彩るオブジェのようなものでしょうかはてなマーク

 

 そして向月台の横にひろがる“銀沙灘(ぎんしゃだん)”という白砂を盛り上げた台地では、ちょうど職人さんが数人で化粧直しをしておられる最中でした。その丹念な仕事ぶりをじっと見つめていた夫が職人さんに尋ねると、以前は一ヶ月に一度くらいこうして手直しをしていたものがコロナ禍で回数が減り、今は大雨の後など必要時のみ行っているそうです。この日は年末だったので、新年に向けての手入れだったのかもしれません。

 

 銀沙灘(ぎんしゃだん)の前の“方丈(ほうじょう)”が銀閣寺の本堂です。

 

 正面には『東山水上行(どうざんすいじょうこう)』の扁額が掛かり、祀られている御本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)だそうです。

 

 銀沙灘に用いられているのは石英(せきえい)、雲母(うんも)を含む“白川砂”という京都特産の砂で、等間隔・ストライプ状にデザインされた意匠は見た目の美しさだけではなく、月光を反射させるための工夫という説もあるそうです。月夜にぜひ見てみたいものですラブラブ

 

 方丈前からは波のような銀沙灘の向こうに向月台、そして観音殿が遠望できるよう考えられているのでしょうね。

 

 方丈から渡り廊下でつながる“東求堂(とうぐどう)”は足利義政の持仏を祀る阿弥陀堂で、義政公の書斎として使われていた北面東側の四畳半は“同仁斎(どうじんさい)”と呼ばれ、現存する最古の書院として東山文化発祥の地ともいわれるそうです。

 

 さて、ここから建物を離れ庭園を散策します。

 

 “錦鏡池(きんきょうち)”という雅な名前の池を中心とした雄大な池泉回遊式の庭園です。

 

 橋を渡ると対岸には

 

 “洗月泉(せんげつせん)”という小さな滝があります。この水が錦鏡池に注ぐようです。

 

 池越しにかすかに望む向月台。

 

 左手の石段を上ると

 

 そこは“お茶の井庭園”で、

 

 足元には義政公が茶の湯に愛用していた“お茶の井”という湧水があり、

 

 その上段には枯山水庭園の名残りのような古い石組が遺されています。案内板には“漱蘚亭跡(そうせんていあと)”と記され、ここにはかつて西芳寺(苔寺)の竜淵水(りゅうえんすい)石組を模して作庭された“竹亭漱蘚亭”があったそうです。

 

 お茶の井庭園から右に急坂の石段をがんばって上ると、

 

 ご褒美のように、銀閣寺の境内から京都の街並みまで一望できる“展望所”に出ます。紅葉もみじの時期ならどれほど美しい絶景でしょうか・・・。

 

 展望所から順路に沿って坂道を下りてくると、

 

 そこには池越しに、来たときとは反対側から観音殿を望む絶好のフォトスポットがあり、潮音閣(上層)の火灯窓(かとうまど)と閣上の鳳凰がきれいに見えました。

 

 

 そしてここがたぶん観音殿を一番近くから撮影できるポイントです。金閣寺は煌びやかな金箔をまとっているので、それなら銀閣には銀箔がはてなマークと思わないでもないのですが、実は銀箔が貼られていたわけではなく、観音殿の上層の外壁には黒漆(くろうるし)が塗られていたといわれています。見た目から人びとを驚かせるような華やかさはなくとも、銀閣寺には庭園も含め全体に義政公の洗練された美意識が詰まっているように感じました。

 

 銀閣寺の御朱印(中央)と、左は拝観料を納めるとパンフレットとともにいただけるお札です。チケットの代わりでもありますがきちんとしたお札なので、持ち帰り一年間自宅の居間に貼っておこうと思います。右の干菓子(ひがし)は「銀沙灘(ぎんしゃだん)」の名のついた京菓子舗『俵屋吉富』謹製の押し菓子です。美しい向月台と銀沙灘を模した干菓子をお抹茶とともにいただきながら、夕暮れどきに訪れた銀閣寺を思い出しています。(④につづく)

 

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