ふだんから万事行き当たりばったりのわたしは旅先を決めるときもそうで、テレビや雑誌を見ていて急に思い立って出かけるというのがほとんどです。今回の京都と奈良も紅葉シーズンの映像を見て行きたくなり、往復の飛行機飛行機とホテルだけを決めて、あとは予定なしの気まま旅ラブラブなのですが、寺社仏閣が好きなわたしたちにとって、古都京都・奈良で行き先に困ることはまずありませんニコニコ

 

 “千年の都”京都の中でも、今回必ず訪れたいと思っていたのが真言宗総本山の“東寺(とうじ)”と、“蓮華王院(れんげおういん)三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)”の二つなので、旅の初めのご挨拶も兼ねて、まず東寺(京都市南区)へ向かいます。

 

 九条通りに面した築地塀(ついじべい)には色鮮やかな五色幕(ごしきまく)が巡らされ、

 

 その先に見えてくるのが堂々たる南大門(みなみだいもん)です。南大門は東寺の正門にあたり、幅約18m、高さは約13mという圧倒的な大きさを誇りますが、これは1601(慶長6)年に三十三間堂の西門として建てられた門を、1895(明治28)年に東寺の南大門として移築したものだそうです。

 

 本来なら門の左右にお仁王さまがいらっしゃるはずなのに何もないのもその移築に由来するようで、調べると、1868(明治元)年の火災で南大門とともに焼失してしまい、その後門は三十三間堂より移築されましたが、仁王像は新しく作られなかったのでご不在なのだそうです。

 

 東寺の大伽藍(だいがらん)。正面は本堂にあたる金堂(こんどう)です。

 

 右手には“八島社(やしましゃ)”、そしてその向こうに東寺のシンボルでもある“五重塔”が聳えています。八島社は東寺が建立される前からここにあったと伝わる古い神社です。

 

 国宝の金堂。1486(文明18)年に焼失し、この金堂は豊臣秀頼の発願(ほつがん)により1603(慶長8)年に再建されたものだそうです。

 

 東寺は794(延暦13)年、第50代桓武(かんむ)天皇が平城京から長岡京を経て平安京に遷都(せんと)したとき、都と国家の鎮護を祈願して建立された寺ですが、じつは平安京にはもうひとつ、“西寺(さいじ)”もあったといわれています。

 

 平安京の図を見ると、中央に“朱雀大路(すざくおおじ)”というメインストリートが通り、その南端には“羅城門(らじょうもん)”という巨大な門が建てられて、門を入ってすぐ右手の左京(朱雀大路の東側)に東寺、左手の右京(同じく西側)に西寺が置かれていたそうです。

 

 平安京に左右対称に建てられた東寺と西寺は創建当時は同等の規模だったそうですが、823(弘仁14)年、第52代嵯峨(さが)天皇により東寺を弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)に、西寺を守敏僧都(しゅびんそうず)に下賜(かし)されて以降、次第にその力関係に変化が生じたようです。

 

 翌824(弘仁15)年の大干ばつのとき、困り果てた朝廷は空海と守敏に命じて雨乞いの祈祷をさせますが、見事その対決を制した空海に朝廷は当然のことながら全幅の信頼を寄せるようになります。もちろんそれだけが原因ではないはずですが、その後東寺は空海により真言密教の根本道場(こんぽんどうじょう)として隆盛を極めてゆくのに対し、西寺は次第に衰退し、鎌倉時代の火災で焼失してから再建されることはなかったそうです。

 

 東寺も西寺も南大門から金堂、講堂、食堂(じきどう)までが一直線に並び、五重塔が聳える伽藍(がらん)配置は同じだったそうで、もしも今も西寺が遺っていれば、それはそれは壮観な眺めだっただろうなぁと思います。

 

 ここは最奥の“食堂(じきどう)”で、もとは僧侶の生活の場だったそうですが、今は十一面観音像が安置され、御朱印がいただける納経所(のうきょうじょ)や、写経(しゃきょう)の場となっています。

 

 さて、ここから先が拝観有料のエリアです。

 

 手前の“講堂”内部には、一番拝見したかった『立体曼荼羅(りったいまんだら)』21軀(く)が安置されています。曼荼羅とは密教の本尊である大日如来(だいにちにょらい)を中心に、諸仏集合の浄土世界を図示したものをいいますが、東寺のものは絵ではなく、等身大に近い大きさの仏像21軀が曼荼羅の形そのままに白亜の須弥壇(しゅみだん)上に配置されているのです。しかも後世の補作である6軀を除く15軀は平安時代前期に作られた仏像がそのまま遺されていて、その圧倒的かつ立体的なビジュアルはどんな経本を読むよりわかりやすく、これこそが密教なのかと見る者の胸に迫ってきます。

 

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 21軀すべてが国宝や重要文化財なので建物内の写真撮影はもちろん厳禁、上はパンフレットを遠目から撮らせていただいたものです。堂内に立ち、立体曼荼羅の世界に溶け込んでいると、極楽浄土があるならばきっとこのような世界に違いないという確信とともに、この世に別れを告げるそのときに、今一度この景色が見られたら本望だろうなぁと心の底から思いました。

 

 つづいて金堂内部を拝観します。金堂は東寺の本堂で、内陣にはいずれも金色に輝く御本尊の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)と両脇に日光菩薩像、月光菩薩像が安置されています。とくに薬師如来の光背(こうはい)に配置された七つの化仏(けぶつ)と、台座を支えるようにぐるりを取り囲む十二神将(じゅうにしんしょう)がすばらしいですキラキラ

 

 そして国宝五重塔。現在の塔は1644(正保元)年、3代将軍徳川家光の寄進により建てられたもので総高約55m、現存する木造の古塔の中では日本一の高さを誇るそうです。その姿形の美しさにはほれぼれしますラブラブ

 

 五重塔の足元には“瓢箪池(ひょうたんいけ)”を中心とする池泉(ちせん)回遊式庭園が広がり、今は冬枯れですが池の周囲にはいろいろな樹々が植えられています。

 

 池越しに見る五重塔もまた美しいラブラブ

 

 南大門の反対側にある北大門を出ると、

 

 右手に辯天堂(べんてんどう)、

 

 その横に“太元堂(たいげんどう)”があります。

 

 北大門前の参道は櫛笥小路(くしげこうじ)といい、その右手には東寺の塔頭(たっちゅう)寺院(※別院の中でも特に格式の高い寺院)である“観智院(かんちいん)”があり、東寺との共通拝観チケットで入ることができます。

 

 観智院は真言宗の勧学院(※僧侶の勉学の場)でもあり、密教に関する膨大な資料を所蔵し、その数・内容ともに日本一とされていて、徳川家康が黒印状(こくいんじょう=墨書押印した文書)をもって観智院を真言宗の勧学院と定めたほどだそうです。

 

 拝観入口。ここから先は庭園のみ写真撮影可とのことでした。

 

 客殿脇の小さなスペースに設けられた“四方正面の庭”は桃山時代の作庭だそうです。四方どこから見ても正面になるように工夫された華やかな庭。

 

 客殿前には“涅槃禄(ねはんろく)~長者の庭~”と名づけられた枯山水の庭園が広がります。借景には東寺の五重塔が音譜

 

 客殿は国宝に指定されていて、その上段の間には剣豪宮本武蔵が描いた“鷲の図(床の間)”と“竹林の図(襖絵)”が遺されています。いずれもかなり墨蹟が薄くなってはいますが、対峙する二羽の鷲も節目を強調した竹も、見る者を惹きつけて止まない迫力にあふれています。

 

 客殿東側には本堂があり御本尊の“五大虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)”が安置されています。蓮華座(れんげざ)の上に結跏趺坐(けっかふざ)した五躯の菩薩像がそれぞれ獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅(かるら)の上に載るという珍しいもので、広大無辺の智慧を無尽に有するといわれる虚空蔵菩薩は、まさに勧学院としての観智院にふさわしい御本尊だと思います。

 

 今一度、東寺の講堂、金堂、五重塔をまぶたに焼きつけます。

 

 東寺東門前のバス停に着くと、おや目の前に和菓子屋さんが目。ちょうど歩き疲れた体は甘味を欲していたので早速寄り道~音譜。名物東寺餅(とうじもち)はフワフワの求肥(ぎゅうひ)の中にこしあんがたっぷりと入り、つぶあんの亥の子餅の求肥にはニッキが練り込まれ胡麻が散らしてあるので、見た目からして猪そっくりのかわいらしさですラブラブ。バス停のベンチに腰かけて美味しくいただきました。

 

 東寺の御朱印は数種類あり、弘法大師の御朱印(左)と、講堂の大日如来の御朱印をいただきました。いずれも梵字(ぼんじ)が添えられており、書き置きではなく目の前で書いていただけるのがほんとうに有り難いです。

 

 東寺はとても見どころが多く時間を過ごしてしまったせいで、元離宮二条城(京都市中京区)の隅櫓が見えてきたとき、すでに時計の針は午後3時半を回っています。急げ~っビックリマーク

 

 小走りで急ぐのですが、こういうときはお城の広い敷地が恨めしくなります爆  笑あせる

 

 外堀を守る真っ白な隅櫓(すみやぐら)が夕陽を浴びてとてもきれい乙女のトキメキ

 

 最終受付午後4時に滑り込みセーフビックリマーク

 

 二条城の正門にあたる“東大手門”より城内に入ります。

 

 巨大な櫓門(やぐらもん)ですね。

 

 東大手門を内側から見上げながらそのまま進むと、

 

 二の丸御殿への入口の“唐門(からもん)”前に出ます。重厚な唐破風(からはふ)の屋根に極彩色の彫刻がとても美しい門です。

 

 広々とした“車寄せ”前の広場。

 

 車寄せの入口は牛車(ぎっしゃ)が直に乗り入れできるように作られているそうです。ここで靴を脱ぎ、二の丸御殿内を見学します。

 

 元離宮二条城は1603(慶長3)年、徳川家康が将軍上洛(じょうらく)時の宿所として築いた城で、第15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還をするまでの約260年間、徳川家の栄枯盛衰(えいこせいすい)と都の変遷を見守ってきた歴史上とても重要な城です。

 

 国宝にも指定されている二条城の二の丸御殿は、東南から西北に向かって“遠侍(とおざむらい)”という控えの間、“式台(しきだい)”という取次の間、将軍との公式謁見(えっけん)に使われる“大広間”、そして部屋というより渡り廊下のような空間の“蘇鉄(そてつ)の間”を経てその先に、大広間に次ぐ格式を誇る“黒書院”、将軍の居間と寝所である“白書院”という6つの建物が雁行型(がんこうがた)に配置される複雑なつくりで、鴬張りの廊下を順路に従って歩いていると、次第に幾曲がりしたかわからなくなってきます。

 

 パンフレットによると二の丸御殿の総部屋数は33、敷かれている畳は800畳もあり、それぞれの部屋の内部は狩野派一門による豪華絢爛な障壁画(しょうへきが)の数々で彩られているのですが、残念なことに今御殿内で見られるのはすべて模写画で、実物は敷地内の展示収蔵館にて順次一部分ずつ公開されているそうです。この日は時間切れで見学叶わず、とても口惜しい思いでした。

 

 雁行型に並ぶ二の丸御殿の外観を見ながら、

 

 “二の丸庭園”を眺めます。

 

 二の丸庭園は第3代将軍徳川家光のとき、1626(寛永3)年の後水尾(ごみずのお)天皇の行幸(ぎょうこう)に合わせて、茶人であり作庭家の小堀遠州(こぼりえんしゅう)が庭の改修にあたり、大広間と黒書院、行幸御殿の三方向から見えるようになったそうです。

 

 内堀にかかる“東橋”を渡り、本丸に向かいます。

 

 “本丸庭園”の入口。

 

 本丸御殿は内部観覧はできないので外観を拝見するのみです。

 

 芝生の敷き詰められた本丸庭園は、明治天皇の行幸の折にもとの枯山水庭園から大改修され現在のようになったそうです。

 

 本丸庭園の南西の隅にはかつて天守閣があったそうですが、1750(寛延3)年の落雷で焼失し、今は石垣だけが残っています。その天守閣跡に上ると、眼下に本丸庭園や

 

 内堀越しに京都の街並みまで見渡せます。

 

 “本丸御殿”は1788(天明8)年の大火で焼失し、その後再建された御殿も取り壊されて、今ここにあるのは1893(明治26)年に京都御所の北東にあった桂宮家の御殿の一部を移築したものだそうですが、阪神・淡路大震災の被害を受けて2007(平成19)年より公開を休止し、2017(平成29)年より保存修理工事が行われているそうです。

 

 “北中仕切門(きたなかしきりもん)”を出ると、

 

 その先には“清流園”という広い庭園があるのですが、閉門の時刻が迫っているので

 

 内堀と石垣に後ろ髪を引かれながら先を急ぎます。

 

 清流園の門柱。

 

 そして二条城の“北大手門(きたおおてもん)”。

 

 とっくに閉館した展示収蔵館を横目に見ながら東大手門へ急ぐと、大門はすでに固く閉ざされて、脇の通用口からそっと退出してきましたあせる

 

 バタバタ駆け足の二条城にちょっと疲れて京都駅まで戻ると、目の前にきれいにライトアップされた京都タワーが~ラブラブ

 

 見上げていたらやっぱり上りたくなり、展望室へGOビックリマーク

 

 エレベーターで一気に昇った一番上の展望室5は、高さ100mだそうですベル

 

 お~~ビックリマーク幻想的な雰囲気キラキラ

 

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 夜景がきれいですね~スター

 

 こんなフォトスポットも。

 

 京都タワーのマスコット“たわわちゃん”を祀る“たわわちゃん神社”までありますニコニコ

 

 キラキラのクリスマスツリークリスマスツリー

 

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 展望室4階へ下りると、

 

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 下りエレベーターの前で記念写真まで撮ってくださいましたラブラブ

 

 さて明日はどこに行こうかなはてなマークと胸躍らせながら、京都タワーを後にしました。(②につづく)

 

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