妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)の参拝のあと、せっかく熊谷まで来ているのにそれだけで帰るのはもったいないとGoogleマップを見ていた夫が「ここ行ってみないはてなマーク」と言うのに、中身を確かめもせず「うん、行く行くビックリマーク」とふたつ返事のわたし爆  笑。揃ってショッピングや人混みが苦手なのを知っているので、こういうときの阿吽の呼吸はバッチリなんです音譜

 

 そしてやって来たのがこちらの“旧中島家住宅”です。妻沼聖天山からは車で20分の距離なのですが住所は群馬県太田市で、渡ってきた利根川が埼玉県との県境だったようです。横に門衛所を備えた堂々たる薬医門といい、

 

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 延々と続く築地塀(ついじべい)といい、敷地に入る前から相当大きなお邸の予感がします。

 

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 薬医門を入ると、

 

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 広い前庭。

 

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 右手に見えているのは外壁ではなく、敷地を仕切る内塀です。

 

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 左手には竹林と邸内社も。

 

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 重厚な車寄せを持つ主屋と思しき建物は和風建築なのですが、向かって右側の窓が上げ下げ窓になっているのがとても珍しいなぁと思います。

 

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 まるで寺社建築のようなみごとな唐破風(からはふ)屋根の下が正面玄関です。 

 

 正面玄関を入るとそこは広い玄関ホールで、受付の方に「おとな二人です」と入館料を払おうと申し出ると、なんと見学は常時無料とのこと。ありがたくも驚いて尋ねると、ここは現在太田市の管理で、一部は市の地域交流センターにもなっているのだそうです。

 

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 係の方に、こちらのお宅について何も知らずに来ましたと言うと丁寧に教えてくださいました。それによるとここは中島飛行機株式会社の創業者、中島知久平(ちくへい)氏がご両親のために建てた邸宅で、そのうちの一部を公開しているそうです。中島飛行機とは戦前の日本を代表する飛行機製造会社で、現在の株式会社SUBARU(富士重工業)の前身にあたり、SUBARUの創業百周年(2017)は、中島飛行機の創業年の1917(大正6年)から数えたものだそうです。

 

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 玄関ホールもその奥の応接間も、純和風の外観からは想像できないような豪華な意匠の洋間です。

 

 見上げると玄関ホールの天井は格式の高い格天井(ごうてんじょう)で、そこに煌びやかなシャンデリア照れ乙女のトキメキが下がっています。

 

 玄関ホールの右手は二間つづきの応接間で、手前が第二応接室、奥が第一応接室です。

 

 第一・第二ともに応接室には実際に使われていた大理石製の暖炉があり、中には昭和初期の当時としては最新式の電気ストーブが設置されています。

 

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 今改めて見るとヒーターはアンティークのとてもおしゃれなもので、刻印は「HUMPHREY RADIANTFIRE(ハンフリー・ラジアントファイア)」と読めます。上部には中島家の家紋である下がり藤があしらわれ、特注品であることがわかります。

 

 第二応接室と玄関ホールの仕切りにはこれも高価なステンドグラスキラキラ。建具に施された繊細な細工も見事です。

 

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 サンルームみたいに居心地のいい第二応接室。

 

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 当時使われていた電話機も残されています。

 

 第一応接室と第二応接室の間を仕切る扉は壁面収納式です。合理的ビックリマーク

 

 絨毯の隙間から見える床の寄木細工もとても素敵ですねラブラブ

 

 奥の第一応接室は二面が窓なので、陽の光がふり注ぎさらに明るいです。

 

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 上げ下げ窓の外は芝生の庭。

 

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 ヘリンボーン柄が美しい寄木細工の廊下は、玄関ホール、第二応接室、第一応接室の背後に通っていて、実際に歩いて見学できるのはここまでとなります。

 

 その廊下の窓辺に立つと、主屋はこの中庭を囲んでロの字型に四つの建物群が配置されているのがわかります。パンフレットを見るとわたしたちが今いるここが来客接待用の“車寄部(くるまよせぶ)”、左手が家族用の茶の間や食堂、厨房、女中部屋などのある“食堂部”、

 

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 中庭をはさんで向かい側が、仏間とご両親の居住空間のある“居間部”、

 

 右手前が後に建て増しされた来客用のトイレとシャワー室、その奥が次の間つきの広い座敷のある“客室部”になっています。

 

 わたしの現在位置がパンフレットの青い☆のところ。実際に入館できるのは全体のほんの一部(黄色部分)であることがお分かりいただけると思います。係の方のお話しによると、その他の部分も順次公開できるよう準備中だそうですが、建物の修復だけでなく、今は耐震基準などもクリアしなければお客さんを入れられないので、まだまだ先になりそうですとのことでした。

 

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 内側から見た車寄せと薬医門。

 

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 和風建築に腰高の上げ下げ窓・・・。最初に感じた違和感の謎も解けてスッキリですニコニコ

 

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 内塀に設けられた門から庭に出ます。

 

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 ・・・って、庭というよりグラウンド!?

 

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 庭の一番端っこに行ってみたのですが、全体はとてもフレームに収まりきれませんあせる。南向きの庭は平坦で広くて、これだけあれば野球もサッカーも、運動会だってできそうですベル

 

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 左の建物が“車寄部”、右が“客室部”です。

 

 右手の開口部が先ほどいたヘリンボーン柄の廊下のつき当たり。切妻(きりづま)屋根の下は第一応接室で、ちゃんとシャンデリアも見えていますおねがい

 

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 “客室部”の全景。ここから先はパンフレットのピンク色の部分で、外から室内を見学するエリアです。

 

 手前の“次の間”の天井は格天井の中でも一番格式の高い折上(おりあげ)格天井で、しかも板の色味と杢目を互い違いに組んで市松(いちまつ)模様に仕上げてあります。地袋(じぶくろ)の上には軍配の形をした火灯窓(かとうまど)を備え、襖絵は雲に千鳥という豪華さです。襖の下半分が青く変色しているのは1947(昭和22)年、関東や東北地方に大きな被害をもたらしたカスリーン台風で床上浸水したときの名残りだそうですが、それよりももっと残念なのは、第二次世界大戦後邸が米進駐軍に接収され、その住居として貸し出されていたとき、次の間の畳を取り払い、床が板張りにされてしまったことですあせる

 

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 つづく客間はさらに広く、折上格天井から下がるシャンデリアは2基、床脇には天袋と違い棚を備え、床の間の付書院(つけしょいん)の上部には細かい細工の施された格子欄間(こうしらんま)が見えます。次の間との境の襖を取り払うとあわせて49畳の大広間になるそうです。

 

 客室部は三方を広い入側縁(いりかわえん)に囲まれており、建築当時縁側の内側は畳敷き、外側は板張りになっていたそうですが、もしかしたらこれも進駐軍向けに改造されたのかもしれず、いつの日か修復されるときはどうぞ、次の間の座敷とあわせてもとの畳廊下として甦ることを願っています。

 

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 広大な庭と邸を見守るように聳える大きな大きなヒマラヤ杉。

 

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 “車寄部”と“客室部”が来客をもてなすための公的な部分とすると、その東側奥の“居間部”と北側の“食堂部”が実際にご両親や妹さんなどのご家族が暮らしておられたプライベートスペースで、旧中島家の建物群の中では唯一の二階建てです。

 

 “居間部”一階の仏間。襖紙などはかなり傷んでいますが、逆に当時のものをそのまま見られるのがありがたいです。

 

 そしてご両親のための居間。床の間、床脇、付書院を備えた正式な座敷ですが、落ち着いた聚楽壁(じゅらくかべ)に襖絵などの装飾も華美に走らず、あくまで居心地よく整えられていることがわかります。今は仏間との境の欄間と付書院が取り払われているので、こちらも修復の折に再現されることを祈ります。

 

 広い庭に面した“居間部”二階の座敷からは、庭の向こうの利根川河川敷に建設された“尾島飛行場”(群馬県新田郡尾島町:現在の群馬県太田市)の滑走路がよく見えて、テスト飛行をする飛行機の離着陸が眺望できたそうです。

 

 

 中島知久平氏は海軍大学校を卒業後、アメリカで飛行機製作及び操縦を習得し、帰国後1913(大正2)年に海軍機工場長として海軍初の飛行機を製作。海軍を退官したのち地元太田に飛行機研究所を立ち上げて本格的に飛行機製作に着手しますが、当初は失敗の連続でなかなか満足に飛ばすことができず、地元ではそれを揶揄する落首(らくしゅ)が流行ったりもしたそうです。その記念すべき第1号機のテスト飛行が行われたのがここから見える尾島飛行場だったそうです。

 

 飛行機製造の傍ら1930(昭和5)年に衆議院議員に初当選し、以降5回連続で当選を果たし政界にも進出。1941(昭和16)年には太田に新工場と太田飛行場が完成し、中島飛行機の一式(いちしき)戦闘機は大日本帝国陸軍に正式採用されることになったそうです。

 

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 航空機の技術者だった中島知久平氏は、国産飛行機の開発にあたっては官営ではなく民間の航空機メーカーが必須であると考え、海軍軍人の道を辞して自ら飛行機研究所、のちの中島飛行機株式会社を設立しますが、帝国陸軍からの軍用機受注により晴れて日本を代表する航空機メーカーとして広く認められ、自社で一貫生産できるその高い技術力をもって、当時の日本最大の航空機および航空エンジンのメーカーへと成長していったのだそうです。

 

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 旧中島家住宅の総敷地面積は1万㎡を超え、総工費は当時の金額で100万円だったそうです。貨幣価値が違うので単純比較はできませんが、ほぼ同時期の1931(昭和6)年に、市民からの寄付を募って行われた大阪城の復興天守閣の再建費用が47万円だったことと比べても、いかに莫大な資金をつぎ込んでご両親のためにこの邸を建てられたかが偲ばれます。

 

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 庭から戻ると正面に車寄せが見え、奥行きの深さが手に取るようにわかります。

 

 正面玄関の左手に家族用の内玄関があり、さらにその奥に北側の“食堂部”の裏手が見えます。いずれも立入禁止なので、行けるのは規制線のところまでです。

 

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 東洋一ともいわれる技術力を誇った中島飛行機の成功が、のちの三菱重工業、川崎航空機、立川飛行機、日立航空機などの誕生につながっていったことを思うと、今のわたしたちが日々当たり前のように快適な空の旅飛行機を楽しめるのも、中島知久平氏と中島飛行機の皆さんのおかげなのかもしれないと感謝の念が湧いてきます。この氏神さまはきっと今もここで、上空を飛び交う航空機の安全を見守ってくださっていることと思います。

 

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