秋田旅の三日目も前日の天気予報は雨雨だったので、ドライブは諦めて、チェックアウトぎりぎりまで稲住温泉のホテルステイを楽しんでから秋田空港へ直行しようと思っていたのですが、起きてみたら、あら、快晴晴れ

 

 あわててガイドブックをひっくり返し、今日の予定を考えますおねがい

 

 そして向かったのが湯沢市郊外の“川原毛(かわらげ)地獄”です。

 

 秋の宮温泉郷から県道310号線を走ること30分、途中に見える朝陽を浴びた紅葉の山々がほんとうに美しく、まさしく錦秋の景色です。

 

 そんな中、硫黄のにおいと突然現れる灰白色の山肌に驚いて目車を停めると、そこが“川原毛(かわらげ)地獄”です。案内板によると、青森県の下北ジオパークの恐山(おそれざん)、富山県の立山黒部ジオパークの立山と並ぶ『日本三大霊地』のひとつなのだそうです。

 

 火山活動の余勢により今でも火山性有毒ガスを含んだ蒸気を吹き出しているので草木が生えず、このような荒涼とした風景を作り出しているそうですが、霊地ということはかつては女人禁制の神聖な場所であったはずなので、大仰に騒いだりせず、こころを鎮めて静かに歩かなければなりません。

 

 左手に一部草のようなものが見えるのは、案内板によると“ヤマタヌキラン”という植物で、広く分布しているタヌキランとの繁殖時のエラーですみかを追いやられ、このような火山性ガスの噴出口付近に避難はてなマークしてきて群落をつくり、住み着いたのだそうです。そう聞くと何だか健気で愛しくなります。

 

 強烈な硫黄のにおい、そしてこの索漠とした風景はまさに地獄。標高800mに位置する川原毛地獄は冬場は雪に閉ざされるので、まもなく11月中旬ころより県道も通行止めになるそうで、今日の晴天晴れが恵んでくれた秘境の地獄との偶然の出会いに感謝です。

 

 目を転じれば青空と紅葉と白い山肌とのコントラストビックリマーク

 

 ガイドブックによると、この近くに“川原毛大湯滝(おおゆたき)”という自然の湯滝があるそうです。この地獄から湧き出す熱湯と沢の水が混じりあい、落差約20mの湯滝になるというまさに自然が生み出す奇跡の滝で、下の滝壺では夏季限定ながら水着を着て湯浴みもできるそうです。

 

 地獄のあるところに温泉あり。今回わたしたちは湯滝には行きませんでしたが、地獄を見たあとの温泉は、さながら極楽温泉なのかもしれません。

 

 さて次の目的地に向かう途中の橋の上に人だかりができているので車を降りてみると、なんと橋の名前が“三途川橋(さんずがわばし)”ビックリマーク。しかも橋の袂には怖そうな閻魔(えんま)大王まで座っているし、今地獄を出て来たばかりなのでよけいにびっくり仰天びっくり。おそるおそる渡っていると、

 

 橋の両側は深い深いV字渓谷で、底を流れているのが“三途川(さんずがわ)”。今わたしたちはまさに40m下の三途川の上を渡っている最中なのですが、ということは、この橋を通って川原毛(かわらげ)地獄へ向かうのが本来の道筋のようです。逆行してしまいましたが~あせる

 

 でもでも辺り一面、そんな恐怖はてなマークなど忘れさせてくれるような見渡す限りの絶景です。人だかりができていたのは、ここが紅葉もみじの名所だからのようです。

 

 渡り終えたところには延命地蔵もおられ、ひとまず二人そろって冥土への道を歩く予行演習ができてちょっとホッとします。ほんとうに渡るときも二人一緒ならこころ強いのですが、こればかりは人知の及ぶところではありません。

 

 この世とあの世の境目という三途の川。現世(うつしよ)の三途川は、今まさに秋を謳歌する絶景に包まれていましたラブラブ

 

 その三途川(さんずがわ)渓谷から車で約40分、ここは平安時代の女流歌人で、その優れた容姿からクレオパトラ、楊貴妃とともに世界三大美人のひとりにも数えられる小野小町(おののこまち)の生誕地と伝わる場所に建てられた“小町堂(こまちどう)”(秋田県湯沢市)です。

 

 伝説によると小野小町は13歳で京に上り、16歳で宮中に仕え帝の寵愛を受けますが、36歳で故郷に戻り、以降世を避けひとり歌を詠みながら晩年を過ごしたと言われています。ガイドブックの小町堂の写真はとてもきれいなのですが、近づいてみると最近は訪れるひともなくほとんど手入れをされていないのか、かなり荒廃した様子だったので、お参りの後、堂を守るように聳える銀杏の大木とともに遠目から写真を撮らせていただきました。

 

 そして秋田旅の最後に訪れたのは、国指定の名勝にもなっている“旧池田氏庭園”(秋田県大仙市)です。池田家は大正時代の国内有数の千町歩(せんちょうぶ)地主で、当時所有していた田畑は1,200町歩(=1,200ha)、小作人は1,250人にも上る大地主だったそうです。

 

 のどかな田園風景の中に佇む豪邸というと“旧遠山家住宅(遠山記念館)”(埼玉県比企郡)(※拙ブログ2022年5月2日付の記事『遠山記念館を訪ねて』でご紹介しています)を思い出すのですが、こちらの旧池田氏庭園も同じく敷地の回りに濠が巡らされ、初めて訪れたはずなのに強い既視感を覚えます。

 

 両袖にくぐり戸のある薬医門様式の立派な正門を入ります。

 

 「カメさんを探せビックリマーク」というパネルがあるので見上げてみると、門の屋根妻部分に波間を泳ぐ亀が彫られています。亀は万年生きるという縁起物でもあり、池田家の家紋が亀甲桔梗紋であることにも因んでいるようです。

 

 門の右手には邸内神社。

 

 正門からつづく道幅の広いアプローチを進んで行くと、

 

 復元された“中の門”に出ます。案内板によると、この中の門は敷地内を使用人の使う区域(作業小屋や家畜小屋)と邸宅区域に分ける役割があったそうです。

 

 見学者は中の門ではなく右手の通用口から入ります。その手前の足元の石には上部に丸い穴が開いていて、“馬繋石(うまつなぎいし)”と記されていました。

 

 通常は入園料おとな300円なのですが、この日は東北文化の日で無料開放してくださっていました。受付棟を過ぎると右手に大きな“米蔵”があります。床面積は約162㎡、6千俵もの米を収蔵できる蔵だそうです。

 

 内部には旧池田氏庭園を手掛けた“近代造園の祖”ともいわれる築庭家、長岡安平(ながおかやすへい)氏に関する資料や、食糧難の時代に池田家の当主が私財を投げ打ち、秋田県内で初めて学校給食を提供したときの弁当箱など、貴重な資料が多数展示されています。

 

 池田家は江戸時代初期にはじまり、のちに山形県酒田の本間家、宮城県石巻の齋藤家と並ぶ東北三大地主に数えられるようになった家柄で、その財力をもって地域の政治的・経済的発展に尽力しただけではなく、医療などの社会福祉や学校教育、小作人の福利厚生の拡充などにも努めてこられた功績はすばらしく、私腹を肥やすことにのみ熱心な現代の政治家たちにこそ見学してほしいところです。

 

 つづいて“味噌蔵”です。

 

 正面の味噌蔵内部は非公開ですが、

 

 向かって右手には高さ2mもある巨大な味噌の仕込み桶が展示されています。通気性のよい杉材で作られた六尺桶には味噌、醤油、酒用があり、この味噌桶は一度に6トンもの味噌を醸造できるそうです。

 

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 味噌蔵の向かって左手は“豆腐工場”。案内板によるとここには専任の使用人が詰めていて、山から引いてきた湧水を用いて自家用の豆腐を作っていたそうです。自前のあきたこまちに自前の味噌、そして自前の手作り豆腐まで。これを贅沢と言わずして何と言いましょうか照れ

 

 味噌蔵の脇に置かれた大型のソリは、積雪時の曳家(ひきや)や、庭園に用いる大型の石や灯籠(とうろう)などの運搬に使われていたそうです。雪国らしいですね。

 

 そのまま順路に従っていくと“奥庭(内庭)”に出ます。

 

 奥庭の小高い築山越しに借景の東山がうっすらと見えます。

 

 奥庭の前は“旧主屋の奥座敷跡”です。パンフレットによると主屋は1952(昭和27)年に焼失しその後再建されていないので、現在敷地内に残っているのはこのような礎石と日本庭園、洋館、蔵のみのようです。だから“旧池田家住宅”ではなく“旧池田氏庭園”なのですね。

 

 主屋の“調理場跡”。田植えや稲刈りなどの農繁期には日雇いも含め使用人が150人もいて、一日に炊く米はなんと二俵(約120㎏)ビックリマーク。二斗炊きのスチーム釜を3台駆使してこの調理場で炊いていたそうです。そして残ったご飯はおにぎりおにぎりにして正門前に置き、地域の子どもたちにふるまわれていたそうです(味噌蔵の案内板より引用)。もしかしたら、家中の皆がお腹いっぱい食べても余るように、それを見越してニ俵も炊いていたのかもしれないですね。

 

 三棟連なった大きな内蔵は現在修復中でした。

 

 敷地の中央あたりに佇む“穆如亭(ぼくじょてい)”は、旧主屋の場所に後年建てられたもののようです。

 

 パンフレットによると有料の貸し出し施設のようですが、「無料開放中」の札が下がっていたので中に入ってみました。

 

 先客が数人いらっしゃり内部の写真は撮れませんでしたが、建物はL字型で手前部分の一階の座敷二間に椅子とテーブルが置かれ、休憩できるようになっています。L字の奥が今上天皇陛下が皇太子殿下時代に視察にお越しになり、ご休憩をされた奥座敷だそうです。

 

 邸内には当時の写真も展示されていました。

 

 旧池田氏庭園は主屋跡を中心に、南西部に主庭園、北西部に平庭(広場)、東部に奥庭(内庭)という趣の違う庭園を3つも備えているそうです。4万2千㎡という広大な敷地があればこその配置ですね。まず穆如亭(ぼくじょてい)前から主庭園に出ます。

 

 穆如亭から見る池泉(ちせん)。主庭園は池泉回遊式の日本庭園で、飛び石を伝いながらあちこち散策するのも楽しいです。

 

 木立の間から池泉越しに洋館が見えます。

 

 石橋の上から。

 

 絵葉書みたいに美しいラブラブ

 

 飛び石を伝って上っていくと、

 

 築山の上には主庭園の“四阿跡(あずまやあと)”があります。パンフレットによると、家族でここから大曲(おおまがり)の花火大会を見物するときは、ご当主はビールを、お子さま方はシトロンを楽しまれたそうです。シトロンって、あのリボンシトロンかなキョロキョロはてなマーク

 

 主庭園の一番の鑑賞ポイントはこの大きな雪見灯籠だそうです。高さ、笠の直径ともに約4mもあり、なんと笠の面積は八畳間に匹敵するのだとかビックリマーク。確かに今まで見てきた雪見灯籠の中でもまちがいなく最大級です。池と樹々があるおかげで、和の灯籠と白亜の洋館が違和感なく共存しているのも、きっと計算されているのでしょうね。

 

 往時に置かれていたベンチもそのままに。

 

 池泉越しに穆如亭(ぼくじょてい)をのぞむ。

 

 紅葉の時期の日本庭園はほんとうに美しいですね。

 

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 近づいてみると雪見灯籠の巨大さはもちろん、足元の一枚岩の大きさにも驚きます。

 

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 安全に配慮し復元された“八つ橋”が興趣を添えます。

 

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 八つ橋の上から洋館を見ると、まるでおとぎ話の中にいるような気がしてきます音譜。池に映る洋館の姿も端正で優美ですね乙女のトキメキ

 

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 庭園もこれだけ広いと、一度歩いたところでも反対側から行くとまた景色が違って見えるものですね。季節、時間、その日のこころ持ち・・・にもよるのかな。

 

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 当時敷地内には講堂(武道館)と地域住民のための無料診療所まで開設してあったそうです。講堂では文武両道を目指し地域の青少年の育成に努め、無料診療所では診療代を払える余裕のあるひとを除き、薬代も含めてすべて費用は池田家が負担していたそうです。財を溜めこむのではなく、惜しみなく分け与えようというそのお気持ちは、きっと恩恵に与るひとびとのこころにも深く刻まれたことと思います。

 

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 当時の建物がほとんど残っていない旧池田氏庭園の中でひときわ目立つこの白亜の洋館は、1922(大正11)年に竣工した秋田県内初の鉄筋コンクリート造りの建物だそうです。

 

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 エントランスは上部に載る小さなバルコニーをイタリア製の大理石の門柱が支えていて、ここから見える限りでも個人のお宅というより、まるで迎賓館のような豪華さです乙女のトキメキ

 

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 洋館は二階建てなのですが、2017(平成29)年、国の重要文化財に指定されたこともあり、文化財保護の観点から二階部分は年に数回の特別公開時にのみ事前予約制で見学ができるそうです。その代わり一階は一部ですが内部に入り見学可能です。

 

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 玄関ホール左手の洋室は応接間かなはてなマークと思って見ると、案内板には「閲覧室」の文字が・・・。なんとこの部屋は家族の居住用や来客用ではなく、向学心を持つ地域の青少年たちにひろく開放された私設の“池田家図書館”だったのですビックリマーク

 

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 案内板には「洋館の一階と二階に閲覧室・書庫を設け、図書館として公開を行い、地域の教育振興に大きく貢献した」と記されています。当時の蔵書は昭和初期に秋田県立図書館大曲分館(現大仙市総合図書館)に移管され保存されているそうですが、政治・経済・歴史・哲学・文学・芸術・経部(儒教の経典)など分野は多岐にわたり、403冊もあるそうです。

 

 その向かいは大正時代のビリヤード台がそのまま残る洒落た“玉突き室”。庭園に面して大きな三連の上げ下げ窓があり、左側の絨毯が緑色に光っているのは、そのまま庭に出られるテラスへのドアにグリーンの型板ガラスがはめ込まれているからです。ビリヤード台の羅紗(らしゃ)にあわせてグリーンでトータルコーディネイトされた素敵なお部屋です。

 

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 玄関ホールを経て正面の洋室が“食堂兼音楽室”で、来客をもてなすための迎賓スペースという本来の役割に使われるところです。

 

 何といってもこのメイン・ダイニングに豪華さを添えるのは、内装に使われているこの“金唐革紙(きんからかわかみ)”という壁紙です。

 

 金唐革紙(きんからかわかみ)とは、当時ヨーロッパで高級壁装材として用いられていた鞣(なめ)した牛革に押し型を施した“金唐革”を、日本独自の和紙の技術で再現したもので、革製にも劣らない上質な風合いが海外で高く評価され、逆に輸出するまでになり、イギリスのバッキンガム宮殿の壁にも使われているそうです。

 

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 金唐革紙(きんからかわかみ)は日本の高い技術が生み出した「紙の芸術品」ともいわれ、今ではとても貴重なものになっているそうです。洋館修復工事のときの金唐革紙の復原は版木棒を作るところから始められ、その現物も展示されています。

 

 玉突室と同じグリーンの型板ガラスがはめ込まれたドアを出ます。

 

 洋館を出て、庭園北西部の平庭に向かう途中に竹垣と“庭門”がありました。振り返るとここは最初に見た“中の門”からまっすぐ来たところにあたり、本来客人は中の門、庭門を経て主屋へ入るように作られているようです。順番が前後してしまいましたあせる

 

 一度穆如亭(ぼくじょてい)の前に戻り、北西部の平庭(広場)へ向かいます。

 

 庭園北西部のこの場所には茶室を兼ねた草庵ふうの四阿(あずまや)があり、園遊会の場にもなったそうです。垣根越しに山々が遠望できる絶好の憩いの場です。

 

 その手前に残るこの石、何かの形に似ていますよねはてなマーク。平庭(広場)にあるものといえば・・・そう、滑り台です照れ音譜。夏の農閑期にはこの広場で“使用人大運動会”が行われることもあったそうです。

 

 大きな五重層塔や、

 

 正門脇に移設する前の邸内神社の跡地もきちんと保存されています。

 

 庭園北部の杉並木。左手は内蔵です。

 

 ようやく広い広い庭園を一周し、旧主屋の奥座敷前に戻ってきました。

 

 明治大正期の豪農、豪商のお邸は多々あれど、今なお残る遺構や跡地を見るだけで、これほどまでにあふれんばかりの慈愛を肌で感じるところは旧池田氏庭園が初めてかもしれません。ともに暮らす地域住民や子どもたち、若者たち、小作農、使用人の端に至るまで、愛情込めて見守り、陰ながら支援し育てようとするその姿勢は、混迷の時代を生きるわたしたちがいつのまにか忘れかけているものを教えてくれるような気がします。

 

 さて帰路の飛行機の時間も気になるのですが、パンフレットを見ると旧池田氏庭園の近くに“払田(ほった)分家庭園”もあるので、急ぎ向かいます。分家だからすぐそこだろうと思っていたらなんの、なんの。東北を代表する大地主の分家は、車でも本家から10分強かかるほどに離れていてびっくりです。歩いたら大変だビックリマーク

 

 正門を入ると正面に四阿(あずまや)が見えますが、周囲を見渡してもそれ以外の建物は何も残っていないようです。その代わり今まさに紅葉の見頃を迎えている庭園は、手入れが行き届きとてもきれいです。

 

 パンフレットの図を見ると、こちらの払田(ほった)分家庭園は広さこそ本家(旧池田氏庭園4万2千㎡)の半分弱の1万8千㎡ですが、坪にするとなんと約5,445坪ビックリマーク。半分とはいえ尋常な広さではありませんあせる

 

 払田分家庭園も本家と同様に、池田家の家紋“亀甲桔梗紋(きっこうききょうもん)”を意識した亀甲型(六角形)の地割りになっていて、築庭は本家庭園と同じ長岡安平(ながおかやすへい)氏なので、正門から庭門を通り主屋へ至る動線や、中央に池を配した池泉回遊式庭園であるところは本家にとてもよく似ています。

 

 端が見えないほど広い敷地の境界は土を盛り上げた堤になっているようです。

 

 主屋の跡に遺された礎石だけを見ても、相当大きな邸宅だったことが偲ばれます。

 

 パンフレットによると分家庭園は現在大仙市の管理になっていて、公園として常時無料開放されているそうです。人影がなく、紅葉狩りには最適な穴場スポットかもしれません。

 

 決まっているのは往復の飛行機飛行機とホテルビルだけ。あとは野となれ山となれ、いつもの行き当たりばったり旅ながら、初めて訪れた秋田は野趣に富んだ絶景と美酒、そして歴史と情緒に彩られたとても素敵なところでした。ぽかぽか陽気で日中は汗ばむほどの好天晴れに恵まれたのもありがたかったです。ここまでおつきあいくださいました皆さまにはこころより感謝を申し上げますとともに、秋田の魅力のほんの一端でもお伝えできたら幸いです。

 

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