七月晦日の静岡旅のとき、ちょうど休館日にあたって見学が叶わなかった“興津(おきつ)坐漁荘(ざぎょそう)”を、日を改めて訪ねました。

 

 興津坐漁荘(静岡県静岡市)は、明治から大正、昭和にかけての政治家で、その間内閣総理大臣や文部大臣等を歴任し、最後の元老(げんろう)でもあった西園寺公望(さいおんじきんもち)公が1919(大正8)年、政治の第一線を退いたのち、老後の静養の家として風光明媚な興津(おきつ)の海岸(当時)を選び、建てた別邸だそうです。

 

 旧東海道、国道1号線に面した外観。

 

 舟板塀(ふないたべい)を巡らせた瀟洒(しょうしゃ)な表門。

 

 門を入ると手入れの行き届いた前庭。紅葉(もみじ)が色づきはじめています。

 

 入口にも掲示されていたように、邸内は改修工事中のようです。

 

 “坐漁荘”の扁額のかかった正面玄関。篆書体(てんしょたい)が個性的ですキラキラ

 

 玄関脇の真新しい杉皮がとても美しいので近づいて見ていると、

 

 ちょうど職人さんが杉皮の全面張り替えを終えて、釘隠しを兼ねた止めの細竹を打っておられるところでした。外周全ての張り替えはお金も手間も相当なものと思われます。

 

 玄関前の“坐漁荘阯(し)”と刻まれた石碑の隣には、坐漁荘の名の由来や西園寺公望亡き後の坐漁荘の変遷などを記した碑文があります。

 

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 松と竹に囲まれた風情ある正面玄関を入ります。

 

 和風邸宅らしい落ち着いた玄関。上がり框(かまち)にまで細工が施されています。

 

 五畳ほどの取次ぎ。網代(あじろ)天井に、正面の襖には杉皮を散らして漉き込んだ襖紙が使われているそうで、織部窓(おりべまど)のような灯り取りと併せて鄙(ひな)びた趣でありながら、とても手の込んだ贅沢な意匠の空間です。

 

 引き戸にも同じ襖紙が使われています。

 

 取次ぎから畳廊下をすすむと、その左手が

 

 八畳の次の間(手前)と、同じく八畳の座敷。竹がお好みなのか、欄間(らんま)や落とし掛けなどあちこちにあしらわれています。欄間の文様は桐の花。

 

 次の間と座敷の前は畳敷きの広縁で、ガラス窓や欄間から射しこむ光のおかげで明るく居心地のいい居間になっています。案内してくださったガイドさんのお話しによると、公望公はかねてより「死ぬときはここ(興津)で・・・」とおっしゃっていた通り、この座敷で1940(昭和15)年11月、90歳の天寿を全うされたそうです。

 

 座敷の前は松の木の繁る日本庭園。今ではすっかり埋め立てられていますが、坐漁荘建築当時はこの庭の先は三保松原(みほのまつばら)につながる砂浜の清見潟(きよみがた)で、波が押し寄せることもあったそうです。

 

 広縁からサンルームが見えます。

 

 畳敷きの広縁。

 

 その奥は応接間。境のドアも座敷側は和風、応接間側は洋風に仕上げられています。

 

 山荘ふうの応接間は、寄木細工の床が美しい洋間です。

 

 お邸全体が思ったより新しくきれいなのでガイドさんに尋ねると、実はこの坐漁荘は昭和40年代に老朽化のため取り壊しの危機に瀕したそうですが、その歴史的な価値を鑑(かんが)み、1970(昭和45)年、愛知県犬山市にある野外博物館“明治村”3号地へ移築されて、その後国の重要文化財に指定され、今も保存公開されているそうです。

 

 陽光あふれるサンルーム。公望公はフランス・ソルボンヌ大学に10年ほど留学経験があり海外生活に馴染んでおられたので、純和風の主屋の横に1929(昭和4)年、この応接室とサンルームを建て増しされたそうです。

 

 応接間の片隅には公望公愛用の品々や、趣味の篆刻(てんこく)の印影などが展示されています。

 

 本邸の明治村への移築後、跡地には記念碑が建ち西園寺記念公園になっていたそうですが、地元住民の坐漁荘を遺したいという熱意のもと官民一体の取り組みにより、歴史的文化財として後世へ伝えてゆくため、もとあったこの場所に、坐漁荘をできる限り忠実に復元することとなり、2004(平成16)年竣工、現在に至るそうです。なるほどマントルピースに火の入った形跡がないのもそれで納得がいきました。

 

 応接間の奥の便所と湯殿。便所の札がついていますが、便座は当時最新式の洋式なのでトイレと呼びたいです。写真が切れていますが、湯殿の前には広い洗面台を備えた三畳の脱衣所兼化粧室があります。また湯殿からの上がり口の板張りには滑り止め用の溝が無数に彫られ、化粧室の畳には撥水性の高い琉球畳(りゅうきゅうだたみ)を使うという念の入れようです。

 

 湯殿に入ってまず目を惹くのが細竹を敷き詰めたみごとな舟底天井目。ほれぼれするほど美しい照れラブラブ。床材には地元の伊豆石(いずいし)、壁には水に強い高野槇(こうやまき)を用い、障子のように見える窓はすべて摺(す)り硝子です。そして浴槽脇の壁に取り付けられているのは緊急時の呼び出しボタンだそうです。

 

 檜の浴槽は思ったより狭く一人用ですが、左側にも長方形のスペースがあり、浴槽に水を張り薪を焚いて湯を沸かした後に左上の栓を抜くと、浴槽に溜まった湯が水圧により左側に流れ込み、体を浸した浴槽の湯とは別にきれいな上がり湯を用意することができる仕組みだそうです。なんて贅沢~合格

 

 湯殿から植え込みをはさんで向こう側は台所です。

 

 二階へ上がってすぐのこの廊下は鴬(うぐいす)張りで、歩くとキュッキュと音がします。第一線を退いたとはいえ「最後の元老、興津(おきつ)で日本を動かす」(※興津坐漁荘パンフレットより引用)とまで言われた公望公の別邸なので、万一の事態に備え、至るところに防犯対策がとられているそうです。それにしても個人のお宅で鴬張りはすごいですね。これでは密談に聞き耳を立てたくても、座敷に近づくことすらできません。

 

 二階には八畳の次の間と十畳の座敷があります。一階の座敷は居間として、二階の座敷が主に来客接待用として使われていたそうです。引退後は、一年の大半を東京の神田駿河台(かんだするがだい)にあった本邸ではなくこの別邸で過ごされていた公望公にお目通りを願い、意見を求める政府要人や軍人が後を絶たず、それは「興津詣で」と称されたそうです。

 

 今やすっかり埋め立てられて公園のグラウンドになっていますが、当時はここからすぐ先が清見潟(きよみがた)で、前に三保松原、左に伊豆半島、右は久能山(くのうざん)まで遠望できて、公望公はその眺望をとても愛しておられたそうです。

 

 二階の広縁。

 

 “坐漁荘(ざぎょそう)”の名は、太公望呂尚(たいこうぼうろしょう)の「茅に坐して漁す(釣りをする)」という意味の“坐茅漁”という中国の故事に由来するそうですが、大正から昭和にかけての激動の時代にあっては、老後を釣りでもしながらのんびり過ごしたいという公望公の希望とは裏腹に、周囲は公を放っておいてはくれなかったようです。余談ですが、書いていて気づきました。“太公望”の中にお名前の‘公望’が隠れていますね。

 

 床の間つきの二階の座敷。柱の美しさが際立ちます。

 

 むかし懐かしい肘掛窓(ひじかけまど)。

 

 床の間の端に一段高い琵琶台(びわだい)があるので寄ってみると、西園寺家はもともと宮中の琵琶奏者の家系だったことに因んで設けられている、との説明書きがありました。今でもときどき当代の琵琶奏者を招き、この場所で演奏会が催されるそうです。

 

 竹筆(たけふで)に竹の蟹(かに)。公望公はほんとうに竹がお好きだったようですニコニコ。書道が趣味の夫も竹筆を持っていますが、竹をそのまま削り繊維をほぐしただけの筆はふつうの筆に比べて扱いが難しく、一晩塩水に漬けておくなどの手間もかかるので、我が家の竹筆は眺めるだけで実際の書道に使ったことはありません(笑)。でも公望公の竹筆はしっかりと使い込まれていたようですね。

 

 一階に下り、坐漁荘で公望公の身の回りの世話をしていた女中さんたちの部屋と台所を見に行きます。

 

 女中室の隅には利休好みの丸卓(まるじょく)と風炉釜(ふろがま)があるので、女中頭の通称“お綾さん”は裏千家の茶道を嗜まれていたのかもしれません。

 

 その先には和式便所と内玄関があり、

 

 その一画に立派な水屋(みずや)もありました。若い女中さんたちに花嫁修業のひとつとして茶道を教えるときなどに使われたそうです。

 

 天井には灯り取りの窓まであります。

 

 内玄関。

 

 その横が広く明るい台所。

 

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 台所の土間の上がり口は板を外せるようになっていて、その下は今でいう床下収納庫になっています。

 

 下の焚口に熱した薪を入れて使う竈(かまど)。と、ここでガイドさんからクイズです。「皆さんの家の台所には必ずあってこの家にはないもの、何かわかりますかはてなマーク」。これだけの贅を尽くしたお邸にないものなんてわたしは全く思い浮かばなかったのですが、しばらく考えていた夫が「包丁だビックリマーク」と気づきました。坐漁荘では台所に包丁を置かないので調理はできず、食事はすべて近くの仕出し屋から運ばせていたそうです。だからこんなに小さな竈でも用が足りたのですね。台所に包丁がないなんて一般人にはピンときませんが、考えてみると不穏な政情においては暗殺にも用心せねばならず、究極の防犯対策といえるのかもしれません。

 

 風情ある坪庭(つぼにわ)。

 

 最後にガイドさんが教えてくださったのが、玄関取次ぎの間の窓を覆うこの竹格子。一見何の変哲もない細竹をあしらった簡便な格子なのですが、

 

 その竹の一本一本すべてに節(ふし)を抜いて鉄筋が通されているそうで、これも外見の邪魔をせず守りを固める防犯対策なのだそうです。外に出て下からのぞき込むと、確かに鉄筋が見えました。

 

 玄関を出て外周を回ります。内玄関と台所の土間の外。

 

 湯殿の焚口。子どものころガス風呂になる前は実家の風呂もこれと同じで、いつも父が外で薪をくべていました。先ほど中から見たときは気づきませんでしたが、摺り硝子の外の格子も玄関と同じ鉄筋を通した頑丈なものです。まさに、筋金(すじがね)入りビックリマークですね。

 

 一階座敷前の日本庭園。

 

 庭の先端は高い石垣になっているのですが(敷地から下の道路を撮影しています)、ガイドさんによるとここが砂浜だった当時は地面が今より1mほど低く、下をひとが歩いても邸内が見えることはなかったので、景色を遮るフェンスは作られなかったそうです。

 

 そういえば関西私学の雄、立命館(りつめいかん)大学は、公望公が1869(明治2)年、新時代を生きる若者を育てようと創設した私塾「立命館西園寺塾」がはじまりでしたね。

 

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 庭から外観を見ても中を見学しても、一から復元された邸とは思えないほど完成度が高く、公望公がお住まいになっていた当時の姿を忠実に再現しようという地元清水の皆さんの熱意と心意気が感じられます。またボランティアガイドさんの説明も的確で、そのおかげでただ見て回るより何倍も充実したひとときを過ごさせていただきました。歴史的建造物の維持管理にはとてもお金がかかるのに、入館無料はありがたくも申し訳ないほどです。老後の住まいはやはり日本家屋にしたいなぁ~とこころから思わせてくれる坐漁荘でした。

 

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