ぽっかりとふって湧いたような平日の連休を利用して、初秋の上高地(かみこうち)を訪れました。夏の行楽シーズンが一段落し、10月から始まる紅葉のトップシーズンにはまだ少し間のある9月中旬のこの時期は、約7ヶ月間の上高地の開山期間のなかでは比較的人出が落ち着いていて、ゆっくり散策するには最適なときかもしれません。
中部山岳国立公園にも指定されている上高地(長野県松本市)は、その豊かな自然環境保全の観点からマイカーは年間を通して乗り入れが規制されているので、自家用車で上高地を訪れるには、松本市方面からなら沢渡(さわんど)駐車場(約2,000台)、岐阜県高山市方面からは平湯(ひらゆ)駐車場(約850台)に停めて、低公害のシャトルバスまたはタクシーに乗り換えて行きます。またJR松本駅やJR高山駅からの路線バス便もあるようです。
わたしたちは午前5時30分に車で埼玉の自宅を出て、中央自動車道、長野自動車道を経由して“さわんど第3駐車場”に到着したのが午前9時。上の写真は上高地行きのシャトルバスが発着する“さわんどバスターミナル”です。
さわんど駐車場の駐車料金は一日700円(2023年9月現在)、出庫時に清算します。
さわんどバスターミナル⇔上高地バスターミナルのシャトルバス往復乗車券はおとな2,400円です。またタクシーは定額運賃制なので、同行者が多く割り勘にできれば、料金はバスとあまり変わらないかもしれません。
バス乗り場へ。
上高地の玄関口らしい広く清潔なバスターミナルです。
行きの始発“さわんどバスターミナル”から乗車したのはわたしたちも含め10人ほどでしたので意外と少ないと思っていたら、次の停留所の“さわんど大橋”からたくさん乗って来られてあっという間に満席状態。定員オーバーになってしまうので、お待ちの方全員は乗れずにバスは出発することになりました。
沢渡(さわんど)を出て上高地公園線内の停留所は“太兵衛平(たへいだいら)”、“大正池(たいしょういけ)”、“帝国ホテル前”の3つで、片道約30分で終点の“上高地バスターミナル”に到着です。日帰りの場合、大正池から河童橋(かっぱばし)を目指して歩かれる方が多いようで、満席の乗客のうち90%が途中の大正池で下車されました。
こちらは大きな山小屋ふうの“上高地インフォメーションセンター”で、上高地バスセンターのすぐ横にあり、到着後観光案内や登山情報などが入手できて便利です。また向かいにはお土産屋さんやレストランを備えた“上高地観光センター”もあり、朝からとても賑わっています。
最近は各地でも浸透してきましたが上高地内の公衆トイレもチップ制なので、事前に100円玉を多めに用意しておくと安心です。トイレを済ませて出発~
。
わたしたちは河童橋のたもとのホテルを予約しているので、ひとまずそこへ向かいます。すでに下界の蒸し暑さが嘘のように涼しいのにびっくり。
上高地バスセンターから林間の道をゆっくり歩いて約5分。視界が開けると、
眼前にまるで絵はがきのように美しい穂高(ほたか)連峰と河童橋(かっぱばし)が見えてきました。
上高地のランドマークともいえる“河童橋”。美しい形状の吊り橋が、雄大な穂高連峰の景色にみごとに溶け込んでほんとうにきれい。
こちらが今回お世話になる“五千尺(ごせんじゃく)ホテル上高地”さん。チェックインの手続きをして、リュックサック以外の手荷物を預けます。
河童橋の目の前という絶好のロケーションに位置する五千尺ホテル上高地は、1918(大正7)年創業という日本における山岳リゾートの草分け的存在であり、一度は泊まってみたいと長年夢見ていたので、今回のご縁が殊のほか嬉しいです。
ところで“河童橋”の名の由来は諸説あるそうですが、有名になったのは、文豪芥川龍之介の晩年の小説『河童(かっぱ)』に登場してからと言われています。
全長36.6m、カラマツ製のこの河童橋は1997(平成9)年に架け替えられた5代目で、吊り橋としての初代は1910(明治43)年に建造されたものですが、1891(明治24)年に初めて架けられた橋は可動式の跳ね橋だったそうです。
河童橋の下を流れるのは北アルプスの槍ヶ岳に源を発する梓川(あずさがわ)の清流。河童橋の上から見る穂高連峰の美しさは上高地一の絶景かもしれません。
下流の焼岳(やけだけ)方面。
五千尺ホテル上高地前から河童橋を渡り、対岸から河童橋越しにホテルを望む。
午前10時30分、まずは河童橋から大正池(たいしょういけ)までのウォーキングに出発です。
梓川沿いの遊歩道をのんびりと・・・。
“ウェストン碑”に向かうので左側の道を行きます。
ところどころ湿原になっているところには木道が整備され、平坦な道なので疲れ知らずで歩けます。
河童橋から1.1km、写真を撮りながらゆっくり歩いて25分で“ウェストン碑”に到着です。
イギリス人宣教師のウォルター・ウェストンは登山家でもあり、明治時代の日本滞在中に日本各地の名峰を制覇し、上高地にも訪れて槍ヶ岳や穂高の山々に幾度も登り、その景観に魅了されて『日本アルプスの登山と探検』という本を書き、その中で上高地の風土や日本アルプスの魅力をひろく世界に紹介したそうです。
それまでの日本では、山は杣人(そまびと)や狩猟、採鉱などの山仕事や修験道(しゅげんどう)など山岳修業の場でしかなかったものが、ウェストンにより“レジャーとしての登山”という概念が持ち込まれ、日本人に山歩きの楽しさを伝え広めた功績はとても大きく、そこから“日本近代登山の父”と呼ばれるようになったそうです。そして彼が結成に携わった日本山岳会によりここにレリーフが掲げられ、今でも毎年6月の第1日曜日にこの碑の前で“ウェストン祭”が開かれているそうです。
山の天気は変わりやすいという通り、さっきまで晴れ間の見えていた空が少し暗くなってきたな~と思うと一気に雲が下りてきます。
ウェストン碑の前からは、梓川左岸に聳える六百山(ろっぴゃくざん・左)と霞沢岳(かすみざわだけ・右)、その間にはさまれた三本槍(さんぼんやり)と八右衛門沢(はちえもんさわ)がきれいに見えます。
そして霞沢橋を渡ると、
梓川にかかる二本の橋が見えてきます。
手前の“穂高橋(ほたかばし)”。
つづいてすぐに“田代橋(たしろばし)”。ウェストン碑からここまで約500m、10分弱の距離です。
上流の穂高連峰は雲に隠れてすっかり見えなくなりました。
下流方向。澄んだ川の水がほんとうにきれい。
田代橋を渡り、
エメラルドグリーンに輝く梓川の流れに沿って歩きます。
しばらく行くと、道が右手の“梓川コース”と左手の“林間コース”の二手に分かれます。どちらを歩いても所要時間は同じで、途中田代池の手前で合流します。
行きは右手の“梓川コース”を歩いてみます。
最初は梓川沿いの遊歩道を歩くのですが、しばらくすると川から離れ、林間の道になります。
梓川コースは途中河原に下りられるところがあり、手を浸してみるととても冷たくて気持ちいいです。
ここからも河原へ出られるみたい。
上高地は標高1,500mのところにあるので、夏でも日中の平均気温が20~23度という快適さ。
歩くとそれなりに汗はかきますがサラッとしていて、少し足を止めて風にあたるとすぐに乾くので、下界のようなべたべた、じっとりという不快感がありません。
この景色も一服の清涼剤ですね~。
この辺りの渓流の底の土は赤茶色をしているのですが、何かに鉄分が含まれているのでしょうか。
しばらく歩いて、
視界が開けたところが“田代湿原”。晴れていれば正面に穂高連峰を望むビュースポットでもあります。足元の草は少しずつ紅葉しはじめているようです。
ここは国内外から集まる日帰りバスツアーのお客さんたちでごった返していたので立ち止まらず、歩いてすぐの“田代池(たしろいけ)”に向かいます。
周囲を樹々に囲まれた“田代池”。先ほど見てきた六百山(ろっぴゃくさん)や霞沢岳(かすみざわだけ)に降った雨が伏流水となり、ここに湧き出しているそうです。水際(みぎわ)に近づいてみると水深はとても浅く、池というより川の流れのような趣なのですが、それは大雨のたびに土砂が流れ込んで堆積するからで、かつては水深5mもあったものが今ではほぼ湿原化するまでになっているそうです。
一瞬水があるのかないのかわからなくなるくらい透明度が高く、水草の間にはヤマメも泳いでいます。こんなにきれいな水の中に住めるなんて幸せなお魚たちだな~と思います。
やはり池というより川のようです。“田代橋”からこの“田代池”までは梓川コース、林間コースのどちらを歩いても約1㎞、25分ほどの距離でした。
田代湿原に戻り、大正池に向かう遊歩道に出ます。
林間の道を抜けると、
そこは焼岳(やけだけ)をバックに、立ち枯れた木の佇む荒涼とした“中千丈沢(なかせんじょうさわ)の押し出し”です。
ここは霞沢岳から流れ込む中千丈沢に乗って運ばれた土砂が堆積してできた場所で、田代池と同じく大雨のたびに少しずつ面積が広がっているのだそうです。
積もり積もった枯れ木が難破船のようにも見えて、やはり自然の力を感じずにはいられません。
中千丈沢の押し出しを出るとすぐに木道が現れて、
樹々の間から大正池が見えてきます。
細長いひょうたんのような形をした大正池の右手が穂高連峰側。水面に映る山の影がまたとても美しい。
中央。広いのでわたしの腕では池全体をフレームに収めることができません
。
左手の焼岳側。
大正池は1915(大正4)年の焼岳大噴火により梓川がせき止められ、一夜にして出現した池だそうです。焼岳はたしか今も活火山です。
午前10時30分に河童橋をスタートし、休憩したり写真を撮ったりしながらゆっくり歩いて大正池まで約1時間30分。そろそろお腹も空いてきたので、ふたたび河童橋へ引き返します。
と大正池から田代池に向かう途中の道で野生のニホンザルに遭遇
。
たしかにガイドブックには運がよければ出会えることも・・・と書いてありましたが、あまりにも自然に、当たり前のようにそこにいて、毛づくろいしているのに夫もわたしもびっくり仰天。でも猿たちにしてみたら、人間のほうがよそ者ですよね
。
こちらの親子も何かの実を採ってせっせとお食事中。奥の笹の影にいるのがすばしっこい子ザル
です。
遊歩道のど真ん中に、脇をハイカーが通ってもまったく動じずもちろん威嚇(いかく)もせず、「こんにちわ~」とお互いに声をかけ合う隣人みたいな感じで座っています。誰にいじめられることもなく、大切に保護されているのですね。
名残り惜しいのですがお猿さんたちに別れを告げ、田代湿原まで戻ってきました。行きはツアー客であふれ返っていたここも、今は誰もいなくてとても静か。草紅葉のはじまった湿原をふたり占めです。
田代湿原を出てしばらく行くと梓川コースと林間コースの分かれ道に出るので、帰りは林間コース(右)にします。
原生林の中に設けられた木道はとても歩きやすく、
刻々と変わる景色が目を楽しませてくれます。
大正池から河童橋に向かうハイカーの皆さんはほとんど梓川コースを行かれるようで、このときも、そして翌日逆に大正池に向かうときにもう一度通ったときも誰ともすれ違うことなく、熊鈴を響かせながらふたりきりで歩きました。
平坦な梓川コースに比べると林間コースは少しだけ起伏があって、それがまた歩く楽しみにもなっています。両コースそれぞれに良さがあるのですが、わたしたちは森閑とした林間コースのほうが好きでした。
田代橋にぶつかったところで右折して、
そこから5分ほど歩くと、
童話に出てきそうな赤い屋根の“上高地帝国ホテル”が見えてきます。
日本初の本格的な山岳リゾートとして1933(昭和8)年に開業した上高地帝国ホテルは、スイスアルプスの山荘ふうの愛らしい外観のなかにも、押しも押されぬ日本を代表する一流ホテルの風格が漂います。
そしてそしてここまでがんばって歩いてきたのは、正面玄関脇のレストラン『アルペンローゼ』でランチをいただくため~
。
レストランの内部も山小屋ふうの素敵なインテリアでまとめられています。ランチの時間帯は登山靴や登山ウエアなどカジュアルスタイルでも気軽に立ち寄れるからか、食事中は常に満席でした。
“帝国ホテル伝統のビーフカレー”と、
“上高地帝国ホテルの野菜カレー”をいただきます。ビーフカレーは東京日比谷の“帝国ホテル東京”のものと同じ味、そして上の野菜カレーは、地元産のいろいろな野菜のオーヴン焼きがたっぷりと添えられた上高地ならではの味。薬味に野沢菜がついているのも信州らしく、至福のランチでした。
しっかり食べて元気回復。帰り道は田代橋を渡らず上高地帝国ホテルから直接梓川に出て、左岸道を河童橋に向かって歩きます。
どこを見ても、どこを歩いても爽快な道行き。
薄曇りの天気は景色の鑑賞には少し物足りないものの、陽射しがないぶん眩しくなくてとても歩きやすいです。
亡くなったわたしの両親はともに日本山岳会の会員で、山歩きを通して知り合い、昭和20年~40年代にかけて、長崎の片田舎から夜行列車を乗り継いで日本アルプス(南アルプス・中央アルプス・北アルプス)に度々登りに来るほどの山好きでした。
ふたりの新婚旅行も当時としては珍しい日本アルプス二週間の縦走(じゅうそう)の旅だったそうで、今も我が家には両親が愛用していたピッケルが2本残っています。夏山にも冬山にも登るのですが、近場の山ならともかく3,000m級の山々に子どもは連れて行けないので、両親が休暇を取ってアルプスへ行くときは、わたしはいつも大好きな叔母の家で留守番をしていました。子ども心に聞き覚えた“槍”や“穂高”の山々が目の前にあるのが何だかとても不思議で嬉しくて、元気だったころの両親を思い出して胸が熱くなりました。
そんなむかし話をしながら歩いていたらいつの間にか河童橋に到着。出発したときに比べると、穂高連峰がすっぽり雲に覆われて見えなくなっています。
いつかここに泊まってみたいと思っていたのも、両親から「河童橋のたもとに五千尺ホテルっていうとっても素敵なホテルがあってね・・・」と聞いていたから。「アルプス一万尺~、ホテルは五千尺~」と歌うように言う母の笑顔がまぶたの裏に浮かびます。
パパ、ママ、わたしもやっとここまで来たよ、とこころの中でそっと報告しました。
yantaro