静岡旅の締めくくりは、ガイドブックに載っていた庭園を見たくて龍譚寺(りょうたんじ)(静岡県浜松市)を訪ねました。

 

 予備知識も何もなく訪れましたが、来てみると龍譚寺の歴史はとても古く、寺伝によると奈良時代の733(天平5)年、僧行基(ぎょうき)が龍譚寺の前身の“地蔵寺”を開創したことに始まるそうです。またガイドブックによると、遠江(とおとうみ)の領主としてここ井伊谷(いいのや)一帯を治めていた井伊家の菩提寺でもあるそうで、とても由緒正しい大寺院のようです。

 

 駐車場に車を停めて、参道から入ります。

 

 参道の正面の“山門”です。石畳の両側の植栽もきれいに整えられ、参道と山門を見るだけでも風格漂うお寺であることがわかります。山門には“萬松山(ばんしょうさん)”の山号額が掛かっています。

 

 山門をくぐり参拝順路に従って右へ。

 

 ここで目を惹くのが両側の石垣です。高くはないのですがいかにもがっしりとしていて、歩きながら寺というより城のような雰囲気を感じます。山門をくぐると参道は左右にわかれるのですが、どちらに行っても真っすぐではなく、城の桝形(ますがた)のように折れ曲がっているのも特徴的です。

 

 浜松城と同じ野面(のづら)積みの石垣ラブラブ

 

 山門から三曲がりしてようやく真っすぐに続く道に出ます。

 

 そのつきあたりにあるのが禅寺特有の大破風を持つ美しい庫裡(くり)で、ここが拝観受付になっています。

 

 庫裡の玄関。拝観料はおとな500円です。

 

 靴を脱いで上がらせていただき、順路に従って本堂へ向かいます。

 

 思わず襟を正したくなるような本堂前の廊下は鴬(うぐいす)張りで、静かに歩いてもキュッキュと鳴って曲者の侵入を知らせてくれます。

 

 本堂へ入ってすぐ右手に鎮座する“丈六(じょうろく)の釋迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)”。説明書きによると丈六とは一丈六尺(約5m)のことで、坐像なので高さ3mほどもあり、遠州地方最大の大きさを誇る大仏なのだそうです。お体に残る無数の黒い跡は、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動乱の折についた傷跡だそうです。

 

 釋迦牟尼佛の隣が広い本堂。

 

 臨済宗妙心寺派の龍譚寺(りょうたんじ)の御本尊は虚空蔵大菩薩(こくうぞうだいぼさつ)で秘仏のため拝観は叶いませんが、知恵と福徳の御利益があるそうです。収蔵品の展示室以外は撮影OKとのことでしたので、謹んで本堂の写真も撮らせていただきました。

 

 お参りをすませ振り返ると、そこには美しい枯山水の石庭“補陀落(ふだらく)の庭”が広がっています。観世音菩薩が降臨するという補陀落山を模して作庭されているそうです。

 

 左手のひときわ大きな木は沙羅双樹(さらそうじゅ)です。お釈迦さまが旅の途中、入滅のときを迎えるにあたり横たわられた場所が沙羅双樹の木の下といわれています。

 

 正面奥の瓦屋根がまだ見ていない“仁王門”で左手が“東門”、石庭の美しい白砂は浜名湖を表わしているそうです。

 

 日蔭まで計算されているような美しさ乙女のトキメキ

 

 本堂前の鴬廊下をすすみます。

 

 本堂脇の小部屋は仏間でしょうか、松に鶴の襖絵や金の釘隠しなどとても凝った意匠です。

 

 回り込んでみると、

 

 十一面観音菩薩像とともに祀られているのは第96代天皇、後醍醐(ごだいご)天皇の第四皇子“宗良(むねなが)親王”の御位牌です。説明書きによると龍譚寺は宗良親王の菩提寺でもあるそうで、御位牌は大老井伊直弼(いいなおすけ)が寄進したものだそうです。

 

 本堂の角からは名工・左甚五郎作と伝わる一刀彫りの龍が睨みを効かせています。龍は水の神さまなので、この辺り一帯を指す井の国の守り神でもあるそうです。

 

 龍神の下の渡り廊下から前方の“開山堂”へ行けるのですが、 

 

 ここは本堂のぐるりに巡らされた濡れ縁に下りて庭園を眺めながら

 

 渡り廊下へ向かう方が断然趣がありますラブラブ

 

 渡り廊下の向こうに見えているのが“萬松(ばんしょう)稲荷”という稲荷堂です。別名“正夢(まさゆめ)稲荷”とも呼ばれ、祈ると願いごとが叶うと言われているそうです。

 

 本堂から見た“開山堂”。珍しい二階建ての楼閣造りになっています。

 

 開山堂入口。

 

 開山堂には、遠州地方に妙心寺派の臨済禅を広めた黙宗瑞淵(もくしゅうずいえん)禅師など、龍譚寺代々のご住職の御位牌が祀られているそうです。

 

 中興の祖、黙宗瑞淵(もくしゅうずいえん)禅師の像と御位牌。

 

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 その師であられる文叔瑞都(ぶんしゅくずいいく)禅師の像と御位牌。

 

 堂内には身代わり地蔵も祀られています。

 

 開山堂を出て、奥の「祖霊之地」と掲げられた“御霊屋(みたまや)”へ行きます。

 

 御霊屋は井伊家一千年四十一代にわたる歴代当主の御位牌(御霊)を祀るお堂です。ひとくちに一千年と言いますが、有史二千余年のうちの一千年ですから、井伊家がいかに栄えた名家であったかが偲ばれます。

 

 御霊屋の正面には向かって右から元祖井伊共保(ともやす)公、22代井伊直盛(なおもり)公、24代井伊直政(なおまさ)公の木像が御位牌とともに並び、2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で一躍有名になった、井伊家存続の危機を救った名領主として名高い井伊直虎(なおとら)公や、幕末期に開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国および近代化をすすめた末に桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼(なおすけ)公(36代)の御位牌も安置されています。このような貴重な御霊屋にお参りさせていただき、写真まで撮らせていただけることに感激ひとしおです。

 

 御霊屋への渡り廊下からも、夏らしい緑豊かな庭園が見えます。

 

 本堂の北側一面に広がるこの“龍譚寺庭園”は、「遠州流」の茶道を興した江戸時代初期の大名茶人であり、京都の二条城二の丸庭園などを手がけた作庭家としても知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作られた池泉(ちせん)鑑賞式の日本庭園で、1936(昭和11)年には国の名勝記念物にも指定され、遠州三名園の筆頭とも称される名園だそうです。

 

 丸く刈り込まれているのは躑躅か皐月でしょうか。花の時期もきっと美しいことでしょう。

 

 池に浮かぶ島は亀のようにも見えます。 

 

 自動音声テープで庭園の解説が流れているのがとてもわかりやすく、それを聞きながら鑑賞すると、知識のないわたしたちでもより雰囲気を味わえる気がします。その案内によると池は心の字を模(かたど)った“心字池(しんじいけ)”、庭園の中央には仏さまを表わす“守護石”、左右には庭の守り神としての“仁王石”、手前の岸の真ん中には“礼拝石(座禅石)”を配するという典型的な禅寺の庭園のつくりになっているそうです。

 

 縁側には長座布団が置かれ、午後の暑い盛りのちょうどよい日陰にホッとしながら座り、陽射しを浴びて輝く名勝庭園を眺めているとそれだけでこころ満たされ、極楽浄土とはこういうところなのかもしれないなぁ~と思えてきます。

 

 光と影の具合もちょうどよく、いつまで見ていても見飽きない景色です。

 

 花や紅葉など色味のない時期だからこそ純粋に、樹々の緑と石組の妙が存分に楽しめますラブラブ。季節や時間帯を変えて、二度三度と見てみたいお庭です。

 

 落ち着いた和室。お抹茶などいただきながら庭園を鑑賞するのもよさそうです。

 

 襖の向こうは本堂、その先が南側の方丈庭園です。

 

 真ん中手前の礼拝石に座ると、正面に守護石が見えるようになっているのですね。

 

 庭園を鑑賞しながら本堂の裏手をぐるりと回り、ここからは庫裡の先にある収蔵品展示コーナーです。“井伊の赤備え”で有名な赤色の甲冑(かっちゅう)や井伊家累代の古文書、茶器など、歴史的にも価値の高い品々が展示されています。写真撮影は禁止です。

 

 収蔵品展示コーナーを過ぎ、廊下の突き当りにある和室が“書院”で、ここは歴代の当主が先祖の墓参りのときに滞在なさった部屋だそうです。上の写真は書院からの眺めで、縁側に座ると庭園越しに御霊屋、そしてその先の墓所が遥拝できるようになっています。井伊直弼公もこの同じ風景をご覧になっていたと聞くと、教科書でお名前を覚えただけの歴史上の偉人が急に身近に感じられます。

 

 寺内をひと通り拝観して、庫裡の玄関に戻ってきました。

 

 庫裡を出て、境内を散策します。

 

 庫裡の少し手前にある“東門”。門というより鐘楼堂のような・・・と思っているとやはり内部に“旧鐘楼”の木札が下がっています。龍譚寺(りょうたんじ)の六堂伽藍(本堂・庫裡・山門・開山堂・井伊家御霊屋・稲荷堂)はすべて江戸初期の建築物で静岡県の文化財にも指定されているそうすが、中でもこの東門は1631(寛永8)年建造と最古のものだそうです。

 

 内部の頭上からは観音大菩薩尊像が通るひとびとを見守っておられます。

 

 現在の鐘楼堂。

 

 右手が本堂、左を見ると

 

 本堂正面にあたる位置に“仁王門”があります。

 

 参道側から見た仁王門。奥が本堂です。

 

 力強い阿吽(あうん)のお仁王さま。

 

 仁王門の前に御神木の“梛(なぎ)の木”があります。梛は“凪ぎ”、つまり波風のない状態に通じるので、災難を避けるとされているそうです。

 

 仁王門から入るとこのように正面に本堂が見えるのですが、間に枯山水の“補陀落(ふだらく)の庭”があるので、一般的なお寺のように門から直に本堂前まで歩いて行けないことに、ここに立って初めて気づきましたビックリマーク。これってとても珍しい伽藍配置ではないでしょうか・・・はてなマーク

 

 補陀落の庭の外周に沿って奥へ進み、井伊家の墓所へ向かいます。

 

 途中に平成の本堂修復工事のときに取り外された大正期の本堂の鬼瓦が保存されています。

 

 少し離れて見上げる開山堂もとても美しいですねキラキラ

 

 井伊家の家臣団、そして龍譚寺歴代ご住職の墓所のさらに奥、境内を見下ろす一番高い場所に“井伊氏歴代墓所”があります。

 

 案内看板によると、正面向かって右が初代共保(ともやす)公、左が22代直盛公の墓。左奥から直盛夫人、直虎公、23代直親(なおちか)公、直親夫人、24代直政公の墓だそうです。井伊直盛は今川義元について出陣した桶狭間の戦いにて戦死、養子直親も殺害され、井伊家は嗣子を失くしてお家存続の危機に陥ります。そこで龍譚寺の南渓(なんけい)和尚は、直盛の娘ですでに出家して次郎法師と名乗っていたのちの直虎を井伊家の惣領に据えて急場を凌ぎます。直虎は直親の遺児(のちの直政)を養子として育て、直政15歳のときに徳川家康に出仕させて井伊家の再興に成功します。数々の武功を挙げて“徳川四天王”と称された直政以降、直弼を含め大老職を5人も輩出するなど井伊家の隆盛は周知のとおりです。

 

 墓所の先にも立て看板があるので行ってみると、

 

 後醍醐天皇の第四皇子、宗良(むねなが)親王の御陵墓がこの奥にあるそうです。龍譚寺でもらったパンフレットによると、宗良親王は井伊家第12代道政(みちまさ)公とともに、征東将軍としてここ井伊谷(いいのや)を本拠地に北朝軍と戦ったそうです。

 

 ここはまだ龍譚寺の敷地なのかどうかよくわからないまま、宗良親王御陵墓前の立て看板「右矢印井伊谷宮」を見ると行かずにはいられなくて、そのまま歩いていると鳥居の建つ神社の境内に入ります。こちらは境内社のようで“井伊社”と書かれています。

 

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 つづいて拝殿、そして伊勢神宮と同じ神明造りの本殿が現れるのですが、

 

 神社とわかればやはり、一の鳥居から入りたい・・・(笑)。

 

 すでに社殿の前にいるにもかかわらず、一度境内を出て一の鳥居から入り直すというのは人さまから見れば愚の骨頂なのですが、こればかりはどうにも譲れない勝手なマイ・ルール笑い泣きあせる。お詣りの前にまず参道を歩きたいのですラブラブ

 

 御手水をとり、

 

 鳥居のすぐ後ろの御神門をくぐります。

 

 そして井伊谷宮(いいのやぐう)の拝殿へ。由緒書きによると御祭神は宗良(むねなが)親王で、明治天皇の勅旨により1872(明治5)年に創建、翌年に静岡県内でも数少ない“官幣中社”に列せられたそうです。

 

 宗良親王は和歌や学問に秀でておられたことから学問の神さまと崇められ、また73歳で薨去という当時としてはとてもご長命だったので、長寿や除災開運の神さまとしても信仰篤いそうです。井伊谷宮は1930(昭和5)年に昭和天皇の御参拝を仰ぎ、1983(昭和58)年には現在の上皇ご夫妻が皇太子時代に参拝されるなど皇室とのご縁も深いそうで、なるほどそれらもふくめて社殿は伊勢神宮と同じ素木(しらき)造り、賽銭箱には菊の御紋なのですね。

 

 御神木は椎の木で、幹がより合わせた糸のように捻じれているのが珍しいです。

 

 右が龍譚寺(りょうたんじ)の御朱印、左が井伊谷宮(いいのやぐう)の御朱印です。

 

クローバー チューリップオレンジ クローバー チューリップピンク クローバー チューリップ紫 クローバー チューリップ赤 クローバー チューリップ黄 クローバー

 

 龍譚寺そして井伊谷宮のある浜名湖北部のこの辺りは古くから“井の国(水の国)”と呼ばれ、水資源の豊富なところで、古墳時代には“井の国の王”が祭祀を行い治めていたと伝わるそうです。その井伊谷に井伊氏が登場し、遠江国の領主として六百年、関ヶ原の戦功により石田三成の旧領近江国を拝領し彦根へ移ってから四百年、一千年の長きにわたり紡がれてきた歴史のほんの一部を、今回の静岡旅の最後に垣間見させていただくことになりました。井伊家と深いかかわりを持つ龍譚寺と井伊谷宮、豊かな水と緑に抱かれたとてもよいところでした。

 

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