“東照宮”とは、没後“東照大権現”の勅諡号(ちょくしごう)を贈られた徳川家康を祀る神社につけられる名称で、なんと日本全国には100を超える東照宮があるそうですが、ここ久能山(くのうざん)東照宮(静岡県静岡市)はその中でも、家康公の遺言により創建された最古の東照宮としてよく知られています。
絢爛豪華な社殿は“権現造り”と呼ばれ、御祭神徳川家康を祀る本殿と、参拝するための拝殿を石の間でつなぐ様式はここ久能山東照宮を発祥として、その後全国各地に多数創建された東照宮の原型となり広まっていったそうです。
久能山東照宮への参拝は、日本平(にほんだいら)の山頂と久能山東照宮を約5分で結ぶ“日本平ロープウェイ”を利用するのが便利なのですが、わたしはどうしても駿河湾に面した久能山下からの表参道を歩いて上りたく、夫とふたり念願のこの“山下石鳥居”の前に立ちました。上るぞぉ~っ
振り返ると200mくらい先はもう駿河湾。道の突き当りは国道150号線『久能山下』の信号です。
この日も熱中症アラートが発令されていて陽射しが強く、ほんとうに暑いです~。
表参道の石畳。
参道右手に“久能山徳音院(とくおんいん)”というお寺があります。縁起によると徳音院は徳川家康、秀忠、家光に仕えた南光坊天海(慈眼大師)により開かれた寺で、江戸時代には久能山頂にも社殿を構えとても栄えていたそうですが、明治になり山上の寺院は取り壊され、この徳音院のみが元三大師、慈眼大師を祀る大師堂として残されたそうです。
さて、ここからいよいよ石段がはじまるようです。
ガイドブックによると山下石鳥居から山頂本殿前までの石段は17曲り1,159段。1957(昭和32)年5月に日本平ロープウェイが開通するまではこの表参道が唯一の参拝路だったので、むかしのひとたちは語呂合わせで「いちいちご苦労さん(1159)」と掛け声をかけあいながら上ったそうです。
途中に鎮座する“駿河稲荷神社”。足休めにはまだ早いのですが、出会いに感謝を捧げ参拝します。
九十九(つづら)折りの参道をゆっくり、ゆっくり上ります。
ところどころ手すりに段数が記されています。ここで410段、まだ半分も歩いてない~。
段々になった石垣には、木漏れ日が吹き抜ける風に揺れて映り込み、
振り返ると木々の間から見える海。
まだまだ上り~っ
700段。左手に視界が開けてきます。
表参道を上りながら見えるこの景色これを、見たかった~~
。
表参道の石段はずっと上りなのですが蹴上(けあげ=一段の高さ)が低く、とても歩きやすいです。
絶景かな、絶景かな。
眼前にひろがる大海原。空と海、その境目の水平線が心なしかまあるく感じられます。
909段目にある“一の門”。あら、ちょうど修復中のようです。
この一の門はもとは櫓門(やぐらもん)だったそうですが、明治時代の台風で倒壊し、その後平門となったそうです。くぐりながら、なるほどこのようにして修復するのか・・・とその様子を間近で見ることができます。門の後ろにある“門衛所”も囲われていたので、同時に修復されるのかもしれません。
何度もしつこくてすみません。でも、美しい
。
また少し上ると右手に旧宝物館の建物があり、その横に“勘介(かんすけ)井戸”の石碑とともにふるい井戸が遺されています。
途中の案内看板によると、今の久能山東照宮の境内には平安時代に創建された“補陀落山(ふだらくさん)久能寺”というお寺があり、1568(永禄11)年、駿府(すんぷ)へ進出した甲斐の武田信玄により寺院を移し城砦が築かれて、“久能山城”という本格的な山城になったそうです。上の井戸は信玄公の軍師山本勘介が掘った井戸と伝えられ、今は蓋で閉じられていますが、なんと深さが33m(108尺)もあるそうです。先日の山梨旅との偶然のつながりが、こんなところにありました。
もうひと息・・・かな。だったらいいな
。
葵の御紋が見えてきました。新しい“久能山東照宮博物館”の建物のようです。
ようやく朱塗りの“楼門(ろうもん)”が見えてきました。日本平からロープウェイに乗ってくると、ちょうどこの場所に出ます。
なだらかだった表参道の石段に比べ、ここからは急に蹴上が高くなり急勾配になって、1,000段余りを上りすでに歩き疲れた足にはかなり堪えます。
楼上に掲げられた“東照大権現”の扁額は、徳川二代将軍秀忠の娘を中宮(ちゅうぐう=皇后)に迎えた第108代後水尾(ごみずのお)天皇の宸筆(しんぴつ=自筆)であることから、“勅額(ちょくがく)御門”とも呼ばれるそうです。
表側の左右には阿形、吽形の随神像が鎮座し、写真を撮り忘れましたが、背面には角(つの)ありの獅子と角なしの狛犬も控えています。
楼門をくぐったところには“家康公御手形”が置かれています。身長155cm~159cm程度とあるのは今から考えるととても小柄に感じられますが、江戸時代の男性の平均身長はちょうどこのくらいだったそうです。家康公はごくふつうの体格でいらしたのですね。
美しい楼門を背面より。獅子と狛犬がちらりと見えます。
木立のなかに境内社がふたつ。
向かって左が末社“久能稲荷神社”、同じく右が末社“厳島(いつくしま)神社”で合殿(あいどの)になっています。
参道もいよいよ終わり。石段の下で御手水(おちょうず)をとります。
手水舎脇の“神厩(しんきゅう)”ではそのむかし家康の愛馬を飼育していたそうですが、今は名工左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わる神馬(しんめ)が納められています。
青銅の明神鳥居をくぐります。
涼し気なミストシャワーが迎えてくれるのは“五重塔跡”。以前ここには徳川三代将軍家光公の命により建てられた高さ約30mの五重塔がありましたが、明治時代の神仏分離令により取り壊されて、今は石碑と礎石を遺すのみとなっているそうです。中央の大きな蘇鉄(そてつ)は駿府城の本丸より移植したものだそうです。
五重塔跡の向かいには目にも鮮やかな“鼓楼(ころう)”があります。創建当時はこの姿形からもわかるように鐘楼(しょうろう)だったそうですが、同じく神仏分離令のとき、鐘(かね)を太鼓に替え、鼓楼(ころう)とすることで取り壊しを免れたそうです。袴の石垣が楼閣にも負けないくらいとても美しいです。
正面に“玉垣(たまがき)”と“唐門(からもん)”が見えてきました。
東照宮らしい豪華絢爛な唐門の唐破風(からはふ)が青空に映えます。
左右の羽目板の紋様は唐獅子に牡丹(ぼたん)のようです。
唐門をくぐるとすぐ目の前に、国宝にも指定されている久能山東照宮の極彩色の拝殿。
拝殿頭上の蟇股(かえるまた)の彫刻は“甕割(かめわ)りの彫刻”といい、エピソードがありました。パンフレットによると、中国北宋時代の儒学者で政治家でもある司馬光(しば こう)は幼いころから神童として知られていて、あるとき一緒に遊んでいた友だちが大きな水甕に落ちて溺れそうになったので、その高価な水甕を割って助け出したそうです。それを親に詫びたところ、責めることなく命の尊さを教えてくれたという中国の故事に因むそうです。よく見ると、図柄はちょうど甕が割れ、中から子どもが出てきた場面のようです。
家康公は1616(元和2)年、駿府城において75歳の生涯を閉じますが、当時としてはとても長命だと思います。戦国時代に幕を下ろし、以降300年に渡ってつづく太平の世の基礎を築かれた家康公は、自身の死後についてもきちんと遺言を残しておられます。それは
一、臨終ののちは遺体を駿河の久能山へ葬り
二、葬礼は江戸の増上寺(※徳川家菩提寺)に於いて行い
三、位牌は三河(※家康公の故郷)の大樹寺に納め
四、一周忌を過ぎてのち下野の日光山に小堂を建て祀ること というものです。
“日光山の小堂”だけはちょっと疑問ですが(笑)、おおむねこの通りになされたようで、東照大権現となられた家康公は、遺言通り今も東から日本全国を遍(あまね)く照らしておられるものと思います。
手前から拝殿、石の間(相の間)、本殿が並ぶ“権現造り”は家康公を東照大権現と称するところからついた名前だそうですが、拝殿を回り込むとその様子がよく見て取れます。
参拝を終え、拝殿左手の門をくぐると、
それはそれは美しい社殿の装飾を間近に見ることができます。そしてここにはもうひとつ、有名な“逆さ葵(あおい)”が隠れているので、それだけは探しておかなければなりません。ここの他にあと二ヶ所あるそうですが、ここが比較的探しやすいようです・・・と、まるでじぶん一人で見つけたように自慢気に言っていますがもちろんさにあらず、現地にいらっしゃるガイドさんが懇切丁寧に場所を教えてくださいました。
拝殿の屋根の至るところに金色に輝く葵の御紋がずらりと並んでいるので、実は探すのは至難の業なのですが、二段になった垂木(たるき)の上段の右から19番目(※矢印)が逆さ葵です。有名な話ですが、わざわざ逆さにしたのは「完成させないため」だと言われています。何事も完成すればあとは朽ち果てるのみ、未完のままなら更なる発展も望めるし、家康公を祀る神社の弥栄(いやさか)を願っての心憎い配慮のひとつのようです。
玉垣の美しい装飾なども見ながら、家康公の神廟(しんびょう)へとつづく“廟門(びょうもん)”をくぐります。
石段を上ると、両側には家康公に仕えた武将たちが奉納したという石燈籠が整然と立ち並ぶ“廟所参道”がつづきます。
廟所参道から本殿をのぞむ。
石造りの鳥居、端正な石垣と濃い緑に守られて、荘厳な雰囲気が漂います。
家康公の“神廟(しんびょう)”です。1616(元和2)年4月17日、駿府城で没した家康公は遺言により、その日のうちにこの地に埋葬されたそうです。パンフレットによると当初は小さな祠が立てられたそうですが、徳川三代将軍家光公により、高さ5.5m、周囲8mという大きな石造宝塔に造り替えられたそうです。
家康公の御遺骸は西向きにまっすぐ座った姿勢で土葬されたと伝えられています。御遺骸と廟所が西向きなのは家康公のご遺命によるもので、生誕地の岡崎を見ているとも、また大阪、京都という西国に睨みを効かせているとも言われているそうです。
神廟の横に聳える御神木の“金の成る木”。質素倹約を旨とする家康公と金の成る木は何とも馴染まないなぁと思っていましたが、由来を知って納得しました。それはこうです。あるとき家康公が「金の成る木とは何ぞや」と家臣たちに問いかけたところ誰も答えられなかったので、自ら筆を執り三本の木の幹を描いて、「よろづ程(ほど)のよ木(万事のよき)、志ひふか木(慈悲深き)、志やうぢ木(正直)、これを常とすれば必ず富貴が得られよう」とおっしゃったそうです。そこから神廟近くに聳える三本の幹をもつこの大楠を“金の成る木”と称するようになったのだとか。ほどよさ、慈悲深さ、正直さ。現代の政治家たちにもっとも欠けているのがこの3つかもしれません。
神廟の背後には家康公の愛馬の墓まであります。
神廟宝塔にお参りをして社殿に戻り、玉垣の東門から外へ出ます。
東門のそばには末社の“日枝(ひえ)神社”。ここは当初薬師如来像を祀る薬師堂だったそうですが、明治期の神仏分離令とその後の廃仏毀釈により薬師如来像が別のところに移されて、代わりに山王社の御神体を遷して日枝神社となったそうです。
同じく末社の“竈(かまど)神社”は防火の神さまだそうです。背後の建物は校倉(あぜくら)造りの“神庫(しんこ)”で、久能山東照宮博物館ができるまでは、ここに各種宝物類が納められていたそうです。
つづいてその久能山東照宮博物館を見学します。内部は撮影禁止のため写真はありませんが、現在放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』のエンドロールにも出てくる、松平元康が尾張大高城へ兵糧を運び入れたときに着用していた“金陀美具足(きんだみぐそく)”や歴代将軍の武具、刀、装身具など東照宮伝来の宝物が数多く揃い、とても見応えがあります。
せっかくここまで来ているので、日本平(にほんだいら)ロープウェイに乗って“日本平夢テラス”へ行ってみようと思います。
日本平ロープウェイの久能山駅。日本平駅との往復で運賃はおとな1,250円です。
ゴンドラは駕籠のイメージ。久能山からは日本平へ向かって斜面を上ってゆきます。
ロープウェイの日本平駅から見た“日本平夢テラス”。間には無料の駐車場があり、ここから皆さんロープウェイに乗って久能山東照宮へ参拝されるようで、観光バスもたくさん停まっていました。
日本平夢テラスは無料で入場できる展望観光施設で、1階は日本平の歴史や文化などを知ることのできる展示エリアになっています。外の和風庭園もとてもきれい。
2階には眺望とお茶を楽しめるラウンジがあるのですが、涼を求めるお客さんが長蛇の列をなしていてカメラを向けることはできず、そのまま3階の展望フロアへ上ります。
そこにひろがるのは360度の大パノラマ~。
久能山東照宮の表参道から見た景色とはまたひとあじ違う絶景です。
富士山方向のようですが、晴天
ながら雲
が多くて見えません
。
真ん中に立つ電波塔をぐるりと囲むように設けられた展望回廊を歩きます。
展望回廊のすぐそばに立つ“吟望臺(ぎんぼうだい)”の石碑。ここに夢テラスなどができる前の1930(昭和5)年、清水市が日本平の景観を絶賛したジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみそほう)に委嘱して、日本平の中でも特に展望に優れた場所を4ヶ所選定したうちのひとつで、ここは駿河湾、富士山、伊豆半島を一望できる絶景スポットだそうです。
吟望臺から日本平ロープウェイの日本平駅方向を望みます。久能山東照宮はさらにこの下です。
ロープウェイで東照宮を訪れたひとたちは日本平からそのまま帰れますが、久能山下から表参道を上って来たわたしたちは、もちろんふたたび歩いて下らなければなりません。でも念願叶ったわたしたちにとっては、それはそれでまたよき哉~。
久能山東照宮の御朱印。
オマケ~
昼食は静岡ならではの漁港めしを食べに、清水港の“清水魚市場河岸(かし)の市”へ行きました。
河岸の市には「いちば館」と「まぐろ館」があり、はじめてなので右往左往。
いただいたのは「まぐろ館」2階の“まぐろととすけ”さんの日替わり海鮮丼です。まぐろ専門店の新鮮な海鮮丼はもちろん美味しいのですが、まぐろのカマをカラッと揚げて甘辛タレをからめた名物“ととすけ揚げ”がたまらない旨さでした。
釣り好きの夫は、目の前を悠々と泳ぐお魚たちにもウズウズしてます(笑)。
yantaro