善光寺(ぜんこうじ)といえばやはり長野県長野市の信州善光寺がもっとも有名ですが、善光寺信仰の拡大に伴い、鎌倉時代以降全国各地に建てられた“善光寺”と名のつく寺院のなかで、信州善光寺に加えてここ甲斐善光寺(山梨県甲府市)と元善光寺(長野県飯田市)の三つを「三善光寺」、そこに三寺院(祖父江善光寺東海別院、関善光寺、岐阜善光寺)をあわせて「六善光寺」と称し、ひろく親しまれています。

 

 コロナ禍により一年延期となりましたが、昨年(2022)春には上記六善光寺の同時御開帳が行われ、わたしたちも信州善光寺を詣でて、前立(まえだち)本尊とのありがたいご縁を頂戴することができました(※2022年6月27日付『令和四年善光寺御開帳』にてご紹介しています)。あれからちょうど一年。昨年(2022)9月に近くの武田神社を訪れたとき、時間切れで参拝叶わなかった甲斐善光寺を思い出して行ってみることにしました。

 

 埼玉の我が家から甲斐善光寺までは、圏央道と中央自動車道を使いゆっくり走っても約1時間半、ドライブにはちょうどいい距離です。

 

 甲斐善光寺の山門には信州善光寺と同じ“定額山(じょうがくさん)”の山号が記されています。左右には金剛力士(仁王)像が睨みをきかせ、二階にはぐるりと回廊を巡らせた重層建築の堂々たる山門です。

 

 高さ約15m、幅約17mという大きな山門の間から、まっすぐ正面に本堂が見えます。

 

 山門向かって左の吽形(うんぎょう)の仁王像と

 

 同じく右の阿形(あぎょう)ともに、よく見るとどちらも腕の一部が、破損なのか未完なのか同じように欠けています。完全体ならばもっと迫力を増すのになぁ~と少し残念です。

 

 山門からまっすぐにつづく参道。

 

 参道の両脇は手入れの行き届いた庭園になっています。

 

 臥龍梅(がりゅうばい)ならぬ臥龍の松、かな。

 

 参道右手の木陰に“お咳(せき)婆さんの石”の看板があり寄ってみると、百日咳などに苦しむ人が、全快したら飴を奉納しますと約束をしてこの石に祈願すると効験(こうげん)あらたかだったので、そう呼ばれるようになったと書かれています。ワクチンが行き渡ってからは百日咳もずいぶん減りましたが、特効薬などなかったむかしは確かに、神仏にも祈りたいほど厄介な病だっただろうと思います。

 

 参道の左手、第一駐車場の角に“南無阿弥陀仏”と彫られた石碑があり、寺務所でいただいたパンフレットの境内案内図を見ると“本堂再興碑”と書かれていました。

 

 その裏側にはちいさな道祖神(どうそじん)。

 

 長い参道を抜けると正面に“香炉堂(こうろどう)”があり、その真後ろに本堂がある伽藍配置は信州善光寺と同じです。

 

 香炉堂から、振り返って歩いて来た山門方向を望みます。この日はまだ梅雨明け宣言前でしたが、青空には夏雲が浮かんでいます。

 

 左手には“地蔵堂”と“六地蔵”。

 

 そして壮大な“金堂(本堂)”が姿を現します。

 

 “手水舎(てみずしゃ)”の水盤には武田菱(たけだびし)。

 

 甲斐善光寺は1558(永禄元)年、越後の上杉謙信と戦った川中島の合戦で信州善光寺の焼失を怖れた武田信玄が、御本尊“善光寺如来”をはじめ貴重な仏像や寺宝などを避難させるために、自らの領地であるこの地に善光寺を創建したことに始まるそうです。

 

 武田信玄は上洛の途上信州伊那の地で病没し、没後三年は自身の死を秘匿するよう遺言します。そして武田氏の滅亡後、信玄の計らいで甲斐善光寺へ避難してきた御本尊は織田氏・徳川氏・豊臣氏のあいだを転々とし、1598(慶長3)年ようやく信州善光寺へ帰座することになったので、甲斐善光寺では新たに前立仏(まえだちぶつ)として造立した阿弥陀三尊像を御本尊として奉斎したそうです。

 

 金堂は拝観料おとな500円を納めると内部を見学することができます。写真撮影はできないので、上の写真は甲斐善光寺のホームページよりお借りしています。最初のみどころは、金堂中陣の天井に描かれた巨大な龍の絵の下で手を叩くと共鳴音がする“日本一の鳴き龍”です。実際の龍の絵はかなり薄くなっていて目を凝らさなければわからないほどですが、床の印のところで柏手を打つと確かに反響して鳴き声のような音がします。鳴き龍の部分は吊り天井になっているからだそうです。

 

 七年に一度の御開帳のときだけ衆生の前に姿を現される御本尊。こちらの写真も同じくホームページよりお借りしました。さらに甲斐善光寺では、信州善光寺と同じく“お戒壇(かいだん)巡り”もできます。金堂床下の“心”という字を模(かたど)った真っ暗な回廊を手探りで進み、絶対秘仏の御本尊の真下にある鍵に触れることができると御本尊との縁が結ばれて、極楽往生できるといわれています。昨年(2022)の信州善光寺詣りでは御開帳時だったこともあり、お戒壇巡りもぞろぞろと前のひとに続いて行列で歩くしかなかったのですが、今回は人っ子ひとりいない静まり返った漆黒の闇の中を、夫とふたり壁伝いにそろそろと歩き、真のお戒壇巡りを体験させていただくことができました。

 

 時間にすればほんの一瞬のことですが、一条の光も射し込まない暗闇の中を手探りで歩くのはやはり稀有な経験で、お戒壇巡りを終えて外へ出ると、いつも陽の光の恵みが殊のほかありがたく感じられます。

 

 信玄公により建立された最初の伽藍は1754(宝暦4)年の大火により焼失し、現在の金堂と山門は1796(寛政8)年に再建されたものだそうです。以来二百年以上の時を経て随所に傷みも見られ、修復が必要なようにも思われますが、わたしはどちらかというとふるいままが好きなので、今のこの姿を見られてありがたく思います。でも個人の好みは別として、文化財の継承に修復が不可欠なのは言うまでもないですよね。

 

 鐘楼(しょうろう)と銅鐘(どうしょう)です。パンフレットによると、この鐘は信州善光寺から避難してくるとき引きずって運んだことから、“引き摺りの鐘”と呼ばれているそうです。

 

 鐘楼の裏手には“正一位王子稲荷社”という社がありました。

 

 鳥居の横の幟には“咜枳尼眞天”と書かれているので、“荼枳尼天(だきにてん)”が祀られているのかなぁとも思うのですが、詳細がわかりませんでした。

 

 境内には大きな大仏さまも。 

 

 こちらの“宝物館”は金堂の拝観料500円で一緒に見学することができます。

 

 宝物館に展示されている平安時代につくられた阿弥陀三尊像。もう一組の阿弥陀三尊像とともに重要文化財に指定されているそうで、とても保存状態がよく美しい仏像です。

 

 同じく宝物館に展示されている“源頼朝像”と“源実朝像”。上の写真は甲斐善光寺のホームページよりお借りしました。

 

 境内の庭園も手入れが行き届き、とても美しいです。

 

 池には夏らしい蓮の花。

 

 甲斐善光寺の御朱印です。

 

 甲斐善光寺をあとにして、車で10分ほどの閑静な住宅街の奥にある“武田信玄公墓所”を訪ねます。 

 

 戦国時代、混乱を避けるため自身の死を3年間秘匿するよう遺言し、53歳で病没した信玄公を密かに荼毘に付したのがこの場所だそうです。

 

 夫の話によると、“甲斐の虎”とも呼ばれた信玄公は猛将のイメージが強いのですが反面とても用心深く、領内の地名に“石和(いさわ)”や“相興(あいおき)”など、知っていなければすぐには読めないような呼び名をつけて、間者(かんじゃ)を見分けたりしていたそうです。戦に強いだけではなく、先見の明があり治世に長け、ひろく領民に慕われていた信玄公。歴史にたらればは御法度ですが、墓所に手を合わせながら、信玄公がもう少し長生きをされていたら日本の歴史はどう変わっただろうと思わずにはいられないのでした。

 

音譜音譜音譜 yantaro 音譜音譜音譜