キム・ナムギルさんのファンコンサート“グローバルツアー AGAIN in ソウル”の当日、会場の奨忠(チャンチュン)体育館に到着してチケットを引き換え、グッズの購入も終えて、サウンドチェック入場の午後3時には少し時間があって何をしようかと思っていたところ、同行のくまさんが「水標橋(スピョギョ)へ行きましょうか」と誘ってくださいました。

 

 えっビックリマーク水標橋(スピョギョ)がこの近くにあるんですか!?と方向音痴のわたしは漢陽都城(ハニャントソン)の地図を思い浮かべてもすぐにはピンとこなかったのですが、水標橋と聞いては行かないわけにはいきません照れ。くまさんのひとことで、頭の中はコンサートモードからギルスト(Gilstory)モードにピピっと早変わりキラキラ。ワクワクしてきますベル

 

 奨忠(チャンチュン)体育館裏の“漢陽都城(ハニャントソン)内部巡城道”の標識も確認し、

 

 ナムギルさんの素敵な幟はてなマークにも「行ってきます」をしてから出発です。

 

 奨忠体育館前の大きな交差点で信号待ちをしていたら遠くにNソウルタワーが見えて、ナムギルさんも会場から見ておられるかなはてなマークなんて想像しながら横断歩道を渡り、

 

 くまさんに促されて前方を見ると、もうそこに水標橋(スピョギョ)が!!。少し歩くつもりでいたので、え~っ、こんなに近いところにあったのですかビックリマークと拍子抜けするくらいです。

 

 振り返ると、うらやましいくらいにスリムでスタイリッシュな新羅(シルラ)ホテル。ここは『ぼくたちが作る文化遺産、漢陽都城』の連載6話に出てきます。

 

 ところで、さっきからひとり興奮してスピョギョ、スピョギョって連呼してすみませんあせる。スピョギョとは“水標橋”という漢字からもわかるように橋の名前です。

 

 この水標橋(スピョギョ)は、ナムギルさんがあのハチミツ・ヴォイスで読んでくださる『漢陽都城オーディオガイド3・南山(ナムサン)区間』のスタート地点となる場所で、オーディオガイド2・駱山(ナッサン)区間の終着地、奨忠(チャンチュン)体育館の最寄り駅と同じ地下鉄3号線東大入口(トンデイㇷ゚ク)駅の6番出口を出て左へ行くと、この水標橋(スピョギョ)のある“奨忠壇(チャンチュンダン)”公園に入る、と教えてくださっています。

 

 また、ナムギルさんのガイドによるとこの水標橋(スピョギョ)は、もとはソウルの中心部を流れる清渓川(チョンゲチョン)にかかる石橋だったものを、その後の川の覆蓋(ふくがい)工事に伴いここに移築したのだそうです。

 

 覆蓋(ふくがい)工事って何だろうはてなマークと少し調べたところ、朝鮮時代、風水思想に基づいて整備された清渓川も、17世紀後半からソウルの人口が増えるにつれて次第に荒廃し、たびたび氾濫を起こしたり、朝鮮戦争後、避難民たちが川の周囲に無許可で建てたバラックの急増などにより、環境悪化や水質汚濁に拍車がかかっていったそうです。

 

 そこで取られた手段が荒れて悪臭を放つ川に蓋(ふた)をして隠してしまうこと。それが“川の覆蓋工事”でした。しかもその蓋をした清渓川の上に高架道路を作ってしまったというのですから、まさに“臭いものに蓋をする”だけで問題の解決にはならなかったことでしょう。

 

 そんな清渓川が現在のような美しい川に生まれかわるきっかけになったのは、のちに大韓民国第17代大統領となる李明博(イ・ミョンバク)氏が、清渓川の復元を公約にソウル特別市長に当選されてからだそうです。着工から約2年という短期間で川の再生だけではなく、周辺環境の整備まで完成させたというのですから、それはほんとうにすごいことだと思います。

 

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 橋の名前にもなっている“水標(スピョ)”とは川の水位を測定するもので、その水標石が橋の袂にあったことからそう呼ばれるようになったそうです。清渓川の覆蓋工事に伴いここに移築されたおかげで、朝鮮時代、当時は開川(ケチョン)と呼ばれていた清渓川にかかっていた橋のうち、ほぼその原型をとどめているのはこの水標橋だけだそうで、歴史的にもとても貴重な橋なのですね。

 

 水標橋があるのは南山(ナムサン)に聳えるNソウルタワーの麓にあたるここ、奨忠壇(チャンチュンダン)公園で、わたしは今回くまさんに連れられて初めて訪れたのですが、橋の近くに公園の名前にもなっている“奨忠壇碑(チャンチュンダンピ)”と奨忠壇の跡地であることを示す“奨忠壇址(チャンチュンダント)”がありました。

 

 “奨忠壇(チャンチュンダン)”とは、朝鮮時代末期の1895年10月、当時反日派の中心人物と目されていた第26代国王高宗(コジョン)の王妃の明成(ミョンソン)皇后が、景福宮(キョンボックン)に乱入してきた日本の軍人や反明成皇后派の朝鮮人らによって暗殺された事件“乙未事變(ウルミサビョン)”において、皇后を守ろうとして命を落とした忠臣たちを祀るため、高宗の命によりつくられたものだそうです。

 

 事變を背後で主導したのが高宗(コジョン)の父である興宣大院君(フンソンテウォングン)といわれ、映画『도리화가(桃李花歌=邦題:花香る歌)』でナムギルさんが興宣大院君役を演じられたことを思うととても胸が痛むのですが、歴史上の事実には私情を挟まず、しかし決して目をそらさず、事実をそのまま受け止めたいと思っているので、ここでも碑に向かい静かに黙祷を捧げます。

 

 韓国の文化遺産を訪ねようとすれば過去の日韓の歴史からは目をそらすことはできず、そのたびに躊躇する気持ちが生まれるのも事実です。でもわたしたちは今、こうしてキム・ナムギルさんというひとを通してこれまで知らずに過ごしてきたことのほんの一部でも垣間見る機会を与えていただいていることには、とても感謝しています。互いを理解しあうにはまず、知ることが第一歩ではないかと思うからです。

 

 すみません、楽しい話題の最中に理屈っぽくなってしまいました。さて、タイトルの水標橋(スピョギョ)とディルクシャ、位置的にも時系列的にもこれをひとつの記事に押し込むのはちょっと無理があるのですが、同じナムギルさんの漢陽都城(ハニャントソン)つながりということで、どうぞお許しくださいあせる。上の写真はソウル駅の地下通路なのですが、仕切りが城壁仕様になっているのが嬉しくて、通るとつい撮りたくなってしまいます。

 

 ディルクシャを訪ねたのはナムギルさんのファンコンサートの翌日、帰国便飛行機の時間が違うのでくまさんとはホテルでお別れし、一人になってからです。今日のわたしのひそかなミッションは“移動の交通手段はなるべくバスに乗るビックリマーク”です。ソウルの地下鉄はもちろん便利なのですが、ギル友Nさんよりソウルの街に網の目のように張り巡らされたバスでの移動を教えていただいてからは、くまさんともよくバスに乗るようになりました。それを今度はひとりでやってみようというわけです爆  笑。“はじめてのおつかい”ならぬ“はじめてのソウルひとりバス”ビックリマークさてどうなることやら音譜

 

 というわけでソウル駅前のバスセンターより702Aのバスに乗り、10分ほどで“영천시장(ヨンチョンシジャン=霊泉市場)”のバス停に到着です。霊泉市場というと2019年12月、くまさんと一緒に仁王山(イヌァンサン)区間の一部を歩いたときに昼食をとったところで、市場の中の出店で食べたできたてあつあつのトッポッキとオムク(韓国ふうおでん)がとても美味しかったのを思い出します照れ

 

 「確かこのあたり・・・」とうろ覚えの記憶をたどりながらディルクシャを目指します。

 

 あっビックリマーク見覚えのある“月岩(ウォラム)近隣公園”の入り口に出ました。

 

 この公園はナムギルさんの『漢陽都城オーディオガイド4・城壁遺失区間と仁王山区間』、同じく『ぼくたちが作る文化遺産、漢陽都城』の連載9話に出てくる大切なチェックポイントで、以前はくまさんと一緒に貞洞(チョンドン)交差点にある“敦義門址(トニムント)”や京橋荘(キョンギョジャン)を通り、歩いて来たところです。

 

 確かこの城壁は、月岩(ウォラム)近隣公園の造成中に見つかって、このようにきれいに復元されたと何かで読みました。

 

 4年前と変わらずこうして迎えてくれるあたたかな城壁・・・。そして4年前は冬枯れだった芝生が青々としているのも嬉しいですクローバー

 

 漢陽都城の道の途中でよく見かける運動器具もありました。ず~っと以前のバラエティ番組“イ・スンギのチプサブイルチェ~師匠に弟子入り”に出演されたナムギルさんが、キコキコやっていらしたのを思い出しますラブラブ

 

 ナムギルさんのガイドの通りに歩くには一度城壁を離れ、ヴィラの立ち並ぶ住宅街へ入って行かなければならないのですが、今日はディルクシャまでまっすぐ行きたいのでショートカットビックリマーク。“松月(ソンウォル)1通り”を抜けて仁王山(イヌァンサン)の山登りの道の入口に出る道程は、拙ブログ2019年12月25日付「ソウル漢陽都城の道を辿る④~敦義門址から月岩近隣公園へ」でご紹介しています。

 

 “月岩(ウォラム)近隣公園”の石碑の先には、2019年12月にも訪れた韓国を代表する作曲家、洪蘭坡(ホン・ナンパ)氏が晩年を過ごされたお宅があります。

 

 そのときは12月だったので、童話に出てくるお菓子の家のようなかわいらしいお邸の外観にからまる蔦もすっかり枯れていましたが、今日は窓辺の花々とともに美しい緑色をしていますクローバー

 

 “洪蘭坡(ホン・ナンパ)家屋”を過ぎるとすぐに、前方にディルクシャの目印となる大銀杏(おおいちょう)の木が見えてきます。

 

 4年ぶりに見ても、変わらず見上げるばかりの大木ビックリマーク

 

 この大銀杏も、ナムギルさんの連載9話に登場するわたしたちにとっては大切なチェックポイントスター。豊臣秀吉による朝鮮出兵の“文禄・慶長の役”において、朝鮮軍と日本軍が激突した“幸州大勝(ヘンジュデチョプ)”の戦いを率いた権慄(クォン・ユル)将軍の家にあったと伝えられる、樹齢400年を超える大木だと教えてくださっています。

 

 その大銀杏の目の前にある赤煉瓦の洋館が“딜쿠샤(Dilkusha・ディルクシャ)”です。4年前に訪れたときはちょうど修復工事中で、建物全体がすっぽりと金網で覆われていたので、実際に目にするのはわたしはこの日がはじめてですラブラブ

 

 ディルクシャとは、アメリカ人実業家でAP通信の記者としても活躍したアルバート・W・テイラーとイギリス人の演劇俳優メアリー・L・テイラー夫妻が、1924年~1942年まで住んでおられたこのお邸の名前です。

 

 パンフレットによると、おふたりは横浜で出会い、1917年に結婚後韓国に入国し、新婚生活をはじめられたそうです。

 

 アルバート・テイラーは連合通信社(Associated Press)の臨時特派員として、第26代国王高宗(コジョン)の国葬や3.1独立運動、堤岩里(チェ・アムリ)虐殺事件などをつぶさに取材し、その実態をはじめて世界に向けて発信、報道した人物だったので、1942年、日本の韓国併合により設けられた朝鮮総督府に連行され、その後夫妻揃って外国人追放令により国外追放となってしまいます。

 

 とてもとても見たかった琥珀の首飾り乙女のトキメキ。これはメアリーがアルバートと結婚するときに贈られたもので、のちに彼女が夫妻のソウルでの生活を回顧しながら著した自叙伝『Chain of Amber(琥珀の首飾り)』のタイトルにもなっている思い出の品です。

 

 国外追放によりアメリカに帰国後、アルバートは韓国へ戻るために尽力するも、1948年6月、心臓麻痺により突然他界されたそうです。

 

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 離れていてもつねに韓国にこころを寄せていたアルバートのために、メアリーは夫の遺体とともに1948年9月に韓国に戻り、葬儀のあと、ソウルの楊花津(ヤンファジン)外国人宣教師墓地に埋葬したそうです。夫妻が国外追放されてから6年後のことでした。
 
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 パンフレットのディルクシャ沿革によると、テイラー夫妻の国外追放後、邸はアルバートの弟のウィリアム・W・テイラーがしばらく管理し、その後韓国自由党のチョ・ギョンギュ議員が買い取りますが、4年後、議員の不正が発覚し財産が国に没収されたときに、ディルクシャもともに国の所有となったそうです。

 

 その後長い間ディルクシャは放置され、忘れ去られることになります。

 

 ディルクシャ一階の居間はテイラー夫妻が友人たちを招いてパーティーを開くのに使われたそうですが、階段を上った二階の居間は完全に夫妻のプライベート・スペースで、アルバートが蒐集したお気に入りの品々などに囲まれた居心地のよさそうなリヴィングルームです。

 

 メアリーの自叙伝『琥珀の首飾り』には、「この応接間こそ我が家で一番重要な場所であり、ディルクシャの心臓部ということができる。私たちが最も大切にしていた物などと余暇時間を楽しむに十分なものがすべてここにあったためだ」と記されています。(文章はディルクシャのパンフレットより引用させていただきました)

 

 二階には案内係の女性が詰めておられ、4年ぶりにやっと来ることができましたと伝えると再訪をとても喜んでくださって、建物の復元工事を終えたあと、残された写真をもとに、ここに置かれている品々もそれぞれの専門家により復元修理されたことを教えてくださいました。

 

 そのおかげで、今こうしてテイラー夫妻が暮らしておられたころの様子を知ることができるのですね。

 

 ひとびとの記憶から消えたディルクシャがふたたび日の目を見ることになったのは、2005年、アルバートの息子のブルース・T・テイラーより、自身が幼いころに住んでいた家を探してほしいという依頼を受けた瑞逸(ソイル)大学のキム・イクサン教授が、ディルクシャを見つけ出したことにはじまるそうです。

 

 翌2006年、ブルース・テイラーは妻子を伴って66年ぶりにこのディルクシャを訪問し、確かに自身が両親と暮らしていた家だということを確認したそうです。

 

 2015年にブルース・テイラーが亡くなったあと、その娘のジェニファー・L・テイラーが一族に関する資料をソウル歴史博物館に寄贈し、ディルクシャがソウル市の登録文化財となったことでひろく世の中に知られることになったそうです。

 

 そうした経緯を経て2018年11月より本格的に復元工事がはじまり、2020年12月に工事が完了、内部の再現を経て一般公開されるようになったのが2021年3月からだそうです。

 

 “ディルクシャ”とはサンスクリット語で“喜びの心の宮殿”という意味で、妻のメアリー・テイラーがかつて旅行先のインドで見かけた宮殿の名前が気に入って、いつかじぶんの家を建てたらその名をつけようと心に決めていたというエピソードが残っているそうです。

 

 名残惜しいのですがディルクシャに別れを告げて、

 

 権慄(クォン・ユル)将軍の大銀杏脇の小径の奥に見える青い扉をくぐります。

 

 ここは4年前、偶然地元のアジュンマ(おばさん)が歩いておられるのについて行って見つけたアパートとアパートの間の抜け道みたいなところ。

 

 今日歩いても、道路なのかどうなのかやっぱりわかりませんあせるでもこの道しかない・・・と思うのですよね。

 

 そしてここが漢陽都城(ハニャントソン)の仁王山(イヌァンサン)区間の本格的な山登りの道への入口です。『ぼくたちが作る文化遺産、漢陽都城』連載9話の中でナムギルさんも、今日は少し物足りないけれど道歩きを終わりにして、「この次の城巡りの道は、しっかりと準備をして来なければなりません」とおっしゃっているところです。

 

 確か以前来たときには小さな食料品店だったお店が、ちゃんとしたセブンイレブンになっています。これも時代の流れですね。さて次は、またまた城北洞(ソンブクトン)へ引き返して、壽硯山房(スヨンサンバン)を目指します。

 

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