二日目の帰路、少し時間があったので熱海(あたみ)に寄りました。熱海といえば日本を代表する温泉に加え、見どころもグルメもアクティビティも何でも揃う一大リゾート地ですが、今まで幾度となく訪れているのに知らなかったところをガイドブックで見つけました。

 

 それがこちらの“起雲閣(きうんかく)”です。ガイドブックによると“熱海の三大別荘”のひとつに数えられる名建築で、のちに旅館に生まれ変わってからは太宰治、谷崎潤一郎、三島由紀夫など当代一流の文豪たちが定宿(じょうやど)として愛用しておられたそうです。瓦を載せた美しい薬医門(やくいもん)を見るだけでも、格式の高い宿だったのだろうなぁと期待が高まります。

 

 門を入ると手入れの行き届いた前庭と石畳のアプローチキラキラ

 

 見学者入口。

 

 右手が受付で、入館料はおとな610円です。

 

 起雲閣は1919(大正8)年に個人の別荘として建てられて、以降昭和にかけて、持ち主を替えながら増改築を繰り返し、結果とてもひろいお邸になっているので、庭園を囲む建物を順路に従って一周しながら見学してくださいと受付で教えてくださいました。まず最初は主屋にあたる“麒麟(きりん)の間”で、足を踏み入れるなり、目の覚めるような鮮やかな群青色(ぐんじょういろ)の壁面に感動して思わず声が出ます目ビックリマーク。廊下の格子状の枠はおそらく耐震用に後から設置されたものだと思います。

 

 麒麟の間は三方に畳廊下を巡らせた10畳の座敷と8畳の次の間から成っていて、庭園に面しているのでとても明るく開放的です。また案内の方の説明によると、座敷と段差を設けず同じ高さに畳廊下をつけるのを“入側(いりかわ)造り”といい、施工者のお母さまが車椅子を使っておられことに配慮したものだそうです。大正時代にすでにバリアフリーを取り入れるなんて素晴らしいですねラブラブ

 

 8畳の間に起雲閣の3人の持ち主の紹介がありました。向かって左が茨城県出身で大正から昭和にかけて政財界で活躍し“海運王”とも呼ばれた内田信也(うちだのぶや)氏で、お母さまの静養のために1919(大正8)年、ここに“湘雲荘”という別荘を建てたのがはじまりだそうです。中央は二代目の所有者の根津嘉一郎(ねづかいちろう)氏で、山梨県出身のこの方も同時期の政治家であり実業家で、東武鉄道や南海鉄道の創始者として“鉄道王”と呼ばれ、現在の東武グループの前身である根津財閥の設立者でもあるそうです。右端が三代目の桜井兵五郎(さくらいひょうごろう)氏で、石川県出身の政治家、実業家で金沢でホテルを経営していたそうですが、根津氏の死去後この建物を買い取り旅館を開業したそうです。“起雲閣”という名はこのときにつけられたものだそうです。

 

 床の間に付け書院というシンプルな造りだからこそこの群青色がよりいっそう映える気がします。案内の方の説明によるとこの色は“加賀の青漆喰(あおしっくい)”といい、起雲閣として生まれ変わったとき、桜井兵五郎氏が自身の出身地石川県の伝統技法を用いて、高貴な色とされる群青色に塗り替えさせたものだそうです。“龍起雲”の掛け軸といい、並々ならぬ愛着をもって改装されたことがわかります。

 

 畳廊下からは美しい日本庭園がよく見えます。この窓硝子は“大正ガラス”といい、当時の職人さんが一枚一枚手作りしたものなのでほんの少しずつ歪みが生じ、この世に同じものはふたつとないそうです。そのおかげで硝子越しの景色には微妙な揺らぎが生まれ、独特の味わいを醸し出すのが特徴と言われているそうです。手仕事の妙ですね。

 

 確かに射し込む光も見える景色も、やわらかく優しく感じられますラブラブ

 

 この照明も建築当時のものがそのまま使われているそうです。

 

 順路に従って奥へすすみます。網代(あじろ)天井が美しい音譜

 

 つづいて“玉姫(たまひめ)の間”。さきほどの“麒麟の間”は初代内田信也氏によって建てられた和の空間でしたが、ここからの二間は二代目根津嘉一郎氏によって増築された洋館だそうです。

 

 入ってすぐのところはサンルームで、思わず息をのむほど美しい装飾が施されています。床には細かいタイルが敷き詰められてキラキラ光る絨毯のようビックリマーク。ここまでくるとただのタイルではなくまさに一流の工芸品、その技術の高さに舌を巻く思いです。そしてステンドグラスで彩られた天井のデザインもとても素敵です合格

 

 案内板によるとこのサンルームはアール・デコ様式を基調としているそうで、全体が明るく華やかで、いるだけでこころが浮き立つような可愛らしさです。

 

 明るさを追求するためか天井だけではなく屋根まで硝子で葺かれていて、その硝子は鉄骨で支えられているそうです。快晴晴れだったらもっときれいでしょうねビックリマーク

 

 サンルームの奥の“玉姫の間”は正面中央にマントルピースの置かれた格調高いダイニングルームで、イギリスふうでありながら天井は最も格式の高い折上げ格天井(ごうてんじょう)、さらに梁(はり)と天井の間には蟇股(かえるまた)が施されるなど、日本の建築様式も随所に取り入れられ、それらがみごとにマッチしています。

 

 寄木張りの床のぐるりをさらに迷路のような雷紋で縁取りしてありますラブラブ。落ち着いた色合いの壁のクロスは正倉院裂(しょうそういんぎれ)のようにも見えます。

 

 つづく“玉渓(ぎょっけい)の間”はパンフレットによると、中世イギリスのチューダー様式を用いヨーロッパの山荘ふうに仕上げたリヴィングルームだそうです。一般的に洋間での席次(せきじ)はマントルピースを中心に決められますが、この玉渓の間もマントルピースを座敷の床の間、向かって左の太い円柱を床柱(とこばしら)に見立てて配置されているそうです。

 

 室内の柱や梁などにはすべて、“名栗(なぐり)仕上げ”という突き鑿(のみ)や釿(ちょうな)という道具を用いて木材に独特の削り痕を残す日本古来の加工技術が施されているそうで、それがより自然に近い手触りと微妙な陰影を与え、温かみのある山荘の雰囲気を醸し出しています。

 

 この角度で見るほうが名栗仕上げの様子がよくわかりますね。

 

 玉渓の間から庭園を望む。

 

 左手に見えている建物は旅館“起雲閣”になってから増築された客室だそうです。

 

 玉渓の間の中でひときわ目を惹くマントルピース上部の装飾はガンダーラふうの仏教彫刻で、光を受けたステンドグラスとともにこの部屋に祈りの場のような静けさと落ち着きを与えているように感じます。

 

 玉渓の間を出て順路に従ってすすむと、これまで見てきた華やかな部屋とは一転して見るからに旅館の客室エリアに入ります。ここからは三部屋つづけて資料展示室です。

 

 “初霜の間”。

 

 山本有三(ゆうぞう)、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、三島由紀夫、武田泰淳(たいじゅん)など当代一流の文豪たちがたびたび滞在して執筆したり、座談会を行ったりしたそうです。

 

 

 

 “春風の間”。

 

 “紅葉”に因んだものか、室内全体が紅葉のような赤い色です。

 

 

 

 “松風の間”。

 

 

 

 展示室を過ぎて“金剛(こんごう)の間”へ向かいます。

 

 金剛の間は二代目根津嘉一郎氏が1929(昭和4)年に最初に建てた洋館だそうで、入ってすぐの前室(でいいのかなはてなマーク)とメインの客間から成っています。

 

 前室の天井は幾何学模様のステンドグラスです。落ち着いた色合いが素敵ラブラブ

 

 金剛の間の主室。 

 

 マントルピースを中心とした室内の配置は“玉渓(ぎょっけい)の間”とほぼ同じですが、こちらは前室、主室ともに床がタイル貼りで、主室はその上にじゅうたんが敷かれています。そのわけはマントルピースの右手から部屋の外へ出てわかりました。

 

 なんと金剛の間の隣にあったのは、まるで映画に出てきそうなクラシカルなお風呂で、その名も“ローマ風浴室”ビックリマーク。ということは、金剛の間はここで入浴なさる客人のための控室兼休息室だったのですね。だから室内の床がタイル貼りだったのかと合点がいきました。

 

 金剛の間の前室と主室、そしてこの浴室は色調が統一されているのも、客人が一連の流れの中で利用することを想定してあるのだなぁと思うと、単に豪華さを求めるだけではない“おもてなしのこころ”を感じます。

 

 楕円形の浴槽に腰かけるとヨーロッパの街並みのような景色が目の前にひろがって、何だかお姫さまになった気分ですラブ

 

 金剛の間のマントルピースの両サイドのステンドグラスを部屋の外から見ています。中央のお花の中心はデザインがちょっと中国ふうですね。

 

 ローマふう浴室を出て廊下を直角に曲がるとその先はギャラリーになっていて、このときは「水中写真家 水之京子個展」が開催されていました。

 

 さらにその奥には、旅館時代の大浴場だった“染殿の湯”があります。

 

 案内板によると、起雲閣の敷地内にある泉源地付近を“染殿(そめどの)”と称していたことからついた名前だそうです。“源泉”はよく使いますが“泉源”とはあまり言わないので調べると、源泉は湧き出す温泉そのものを指すのに対し、泉源はその源泉が湧き出す場所のことを言い、別名“湯元”とも呼ぶそうです。なるほど~。

 

 壁面の飾りはたなびく雲でしょうか。高級ではないけれど、親しみやすい銭湯のような雰囲気がわたしはとても好きです。

 

 もう一度廊下を曲がった先の客室3室は、今は貸出部屋として使われているそうです。この日も何か会合が行われていて、ドア越しに賑やかな笑い声が聞こえていました。

 

 つづいて離れの“孔雀(くじゃく)の間”へ行きます。

 

 孔雀の間は初代の内田信也氏がお母さまの居室用に建てたもので、もとは麒麟の間の近くにあったそうですが、二度移築されて今の場所に落ち着いたそうです。 

 

 こちらも足にやさしい畳廊下。

 

 入側(いりかわ)造りも麒麟の間と同じです。

 

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 二間つづきの座敷の弁柄色(べんがらいろ)とでもいうのでしょうか、上品な赤い色が印象的で、お母さまを思うやさしいお気持ちが察せられます。

 

 床の間に付け書院つきの正式な座敷ですが照明はモダンなシャンデリア、堅苦しすぎず崩しすぎず、居心地よく整えられています。

 

 床の間畳は飾り畳の少し幅のひろい“龍鬢表(りゅうびんおもて)”に、飾り紋の縁(へり)がついています。

 

 孔雀の間を出て渡り廊下をぐるりと歩いて最初の麒麟の間に戻り、

 

 その二階の“大鳳(たいほう)の間”へ上がります。

 

 初代内田信也氏がお母さまのための静養所として建てられた別荘“湘雲荘”は当初、木造二階建ての麒麟の間とこの大鳳の間、そして木造平屋建ての孔雀の間だけだったそうです。

 

 大鳳の間の畳廊下から撮った写真を見ると、玉姫の間のサンルームの硝子張りの屋根が写っていましたビックリマーク

 

 入側(いりかわ)造りの畳廊下が二間つづきの座敷を囲む形式は同じですが、大鳳の間の壁の色は深い紫色です。麒麟の群青色(ぐんじょういろ)、孔雀の弁柄色(べんがらいろ)、大鳳の濃紫色(こむらさきいろ)がそれぞれに美しく、おそらく何らかの意図をもって三色に塗り分けられているのだろうなぁと思います。

 

 この大鳳の間は旅館時代、太宰治が宿泊した部屋としても有名なのだそうです。1948(昭和23)年3月18日から二泊、愛人山崎富栄(とみえ)を伴ってこの部屋に滞在されたそうで、それは二人で玉川上水に入水(じゅすい)自殺を図る三ヶ月前のことだったそうです。太宰治38歳、山崎富栄28歳、あまりに早い最期でした。

 

 二階から見下ろす水と緑の庭園もまたいいですねラブラブ

 

 大正硝子越しに。

 

 ひろい邸内をようやく巡り終え、最後に庭園に出ます。

 

 時代とともに増改築を繰り返しながら整備されていった建物群に囲まれたこの緑ゆたかな庭園は、二代目根津嘉一郎氏の別邸時代に作庭されたもので、広さ約1,000坪にも及ぶ池泉(ちせん)回遊式の日本庭園になっています。

 

 根津嘉一郎氏は実業家であると同時に有名な茶人でもあり、氏の古美術品コレクションを多数収蔵し、保存・公開している根津美術館(東京都港区)でもよく知られています。

 

 観光地熱海の街中とはとても思えないような静寂に包まれて、聞こえてくるのは水音と鳥のさえずりくらいです。

 

 旅館“起雲閣”は1999(平成11)年に廃業し、競売にかけられそうになったところを何とか難を逃れ、熱海市民の手により設立されたNPO法人が指定管理を受けて、2000(平成12)年より観光文化施設として一般公開されているそうです。現在では見学に加え各種コンサートや展示会、講演会、セミナー用に有料・予約制にて一部施設の貸し出しも行っており、新たな文化の発信地にもなっているようです。

 

 大正、昭和、平成、令和と四つの時代を生き抜いてきた起雲閣。見どころの多いとてもすばらしいお邸でした。

 

 オマケ~音譜

起雲閣の駐車場の裏手には、昭和40~50年代の懐かしいレトロゲーム機と駄菓子が所狭しと並ぶ“和田たばこ店”があります。10円玉を入れてレバーを弾くようなむかし懐かしいゲーム機などここに置いてあるものはすべてちゃんと動くそうで、遊ぶなら電源を入れてあげますよ~と店主さんが声をかけてくださいました。店内は撮影禁止なので、外観のみ許可をもらい撮らせていただきました。ここにもひっそりと、古き良き時代の空気を守り伝えてくださるひとがいらっしゃいました。

 

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