ひとつ前の記事『伊豆の春旅①~伊東・東海館』でご紹介した東海館の二階にも、伊東にゆかりのある人物として東郷平八郎元帥(げんすい)に関する資料を展示した“歴史の小部屋”がありましたが、ガイドブックを見ると、東海館のすぐ近くに“伊東東郷記念館”があることを知り、早速行ってみることにしました。

 

 住宅街の一角にひっそりと建つこちらが“伊東東郷記念館”の入口です。ガイドブックによれば開館日はなんと日曜日のみビックリマーク。幸運にも今日が一週間に一度の開館日だったことに心から感謝したい思いです。

 

 伊東東郷記念館は、東郷元帥がリウマチを患っておられたテツ夫人の温泉療養のために当地伊東に1929(昭和4)年に建てられた別荘で、今も当時の姿のままで遺されている貴重な戦前の遺産として、国の登録有形文化財にも指定されているそうです。

 

 東海館の記事でも触れましたが、東郷元帥は大日本帝国海軍の軍人で、日露戦争では聯合艦隊司令長官として日本を大勝利に導き、“東洋のネルソン”とも称えられた国民的英雄なのでさぞかし立派な別荘かと思いきや、質素倹約を旨としておられた東郷元帥らしい簡素な佇まいに、なぜかとてもホッとします照れ

 

 玄関の正面に受付があり、入館料おとな200円を払うと、現在この記念館の管理を担当しておられる“伊東自然歴史案内人会”のメンバーの方々が案内をしてくださいます。ここは入ってすぐの床の間つきの八畳の座敷。

 

 まず最初に東郷元帥に関する写真の展示コーナーです。頭上の写真は1933(昭和8)年1月にこの別荘の庭で撮影された和服姿の東郷元帥。亡くなられる前年、当時85歳でいらっしゃいます。東海館の二階には、同じときに撮られた脇の籐椅子に腰かけておられる写真もありました。床脇の一番左の写真は1911(明治44)年、イギリスのジョージ5世の戴冠式に随行され、帰路アメリカのニューヨークで在留邦人会の歓迎晩餐会に出席されたときのものだそうです。解説にもありますが、東郷元帥と野口英世博士が一緒に写っている貴重な写真だそうです。その隣はアメリカ合衆国の第26代大統領セオドア・ルーズベルト。日露戦争後、日本とロシアの間で結ばれた日露講和条約、通称ポーツマス条約の立役者で、東郷元帥とは面識もあったそうです。

 

 東郷元帥の胸像の隣の写真には『摂政宮(せっしょうのみや)殿下行啓(ぎょうけい)』とありますが、案内人の方の説明によると、1926(大正15)年11月、記念艦『三笠(みかさ)』の開艦式に当時摂政宮(※大正天皇の病気療養のため)であられた皇太子殿下、のちの昭和天皇の行啓を仰ぎ式典に臨まれたときの一枚だそうです。裕仁(ひろひと)親王殿下が天皇陛下になられる前ではありますが、東郷元帥との袖章(そでしょう)の違いが目を惹きます目

 

 床の間には東郷家伝来の鎧兜(よろいかぶと)の実物も展示されています。背後の歌は『おろかなる 心に尽くす誠をば みそなはしてよ 天つちの神(※愚かな私ではありますが誠心誠意尽くしますので、どうか神さまお見守りください)』とあり、1914(大正3)年、東郷元帥が当時の皇太子殿下の教育係である東宮学問所の総裁に任命されたときの感激と決意を詠まれたものだそうです。東郷元帥の直筆で、名前の下には花押(かおう)もあります。

 

 決して派手ではありませんが、厳選した上質の材料を用いて丁寧に建てられた別荘であることがよくわかります。

 

 『千載不朽(せんざいふきゅう)』と書かれた扁額は日露戦争時、東郷司令長官と同じ戦艦三笠に乗り組み、聯合艦隊参謀長として東郷を補佐していた島村速雄(しまむらはやお)海軍大将の書だそうです。大勝利を収めた日本海海戦で島村は第2艦隊の司令長官をつとめ、ロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に現れることを的確に見抜いて進言したことでもよく知られています。

 

 座敷からつづく次の間には、大日本帝国海軍の戦艦模型が8隻展示されています。

 

 ケースが反射して見づらいですが、なんとこの戦艦模型はプラモデルではなく、千葉にお住いの個人の方がひとつひとつ手づくりされた木の模型なのですビックリマーク。その方は東日本大震災のとき、千葉にも押し寄せた津波で亡くなられたそうですが、自宅二階にあった数々の作品は難を逃れ、その後紆余曲折を経てここ東郷記念館に寄贈されたそうです。

 

 廊下には東郷元帥の等身大のパネルがあり、

 

 その頭上には、日露戦争終結後に行われた聯合艦隊解散式において東郷元帥が読み上げられた『聯合艦隊解散之辞』の額装(複製)があります。海軍軍人としての心得を示したこの訓示は東郷元帥の書だそうですが、文面の起草は司馬遼太郎著『坂の上の雲』で有名な秋山真之(さねゆき)参謀長と言われています。

 

 写真はイギリス留学時代、30歳の東郷さん。もちろんまだ元帥などではなく、一海軍士官のころです。当時の大日本帝国海軍軍人は成績優秀なだけではなく眉目秀麗(びもくしゅうれい)が必須条件だったといわれますが、そんななかでもひときわ目立っただろうと思われるほどの美男子です。

 

 六畳の間には東郷家で使われていた桐箪笥と、有名な日本海海戦戦闘開始直前の“三笠艦橋(かんきょう)の図”も飾られています。Z旗(ゼットき)は超ミニミニサイズですが~あせる

 

 広々として使いやすそうな台所。こちらの別荘は東郷元帥が亡くなられたあとブリヂストンの創業者石橋正二郎氏に譲渡され、「東郷元帥がお使いになったまま、釘一本変えてはならぬ」という方針に基づき、現在の東郷神社の所有となるまで70余年の長きに渡り、丁寧に維持管理されてきたのだそうです。

 

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 廊下の奥は東郷元帥が居間として使っておられた離れです。

 

 離れの中央に置かれている碁盤と碁石は、五・一五事件で暗殺された犬養毅(いぬかいつよし)元総理大臣から贈られた品。また扁額の『雄風』は“おさかぜ”と読み、東郷元帥の直筆だそうです。雄風とは“6ノットの風”を意味し、日本海海戦で秋山真之が大本営に送った有名な電文『天気晴朗ナレドモ波高シ』のときの風がまさに“雄風”だったそうです。

 

 床の間の掛け軸も東郷元帥直筆です。のびやかな字で『道在明明徳在止於至善』と書かれ、添えられた案内板によると、儒教の教書『大学』の冒頭の一文で、「人の道とは輝かしい徳を身につけ、最高の状態を保ち続けることである」という意味だそうです。額装にも表装にも耐え得るこのような素晴らしい字を書かれることだけ見てもその人となり、そして深い教養がにじみ出ているように感じられます。

 

 廊下の突き当りにはお手洗い。

 

 硝子戸を通して差し込む自然光がとてもやわらかですラブラブ

 

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 廊下の反対側は浴室になっています。

 

 とてもひろい脱衣所。奥さまのリウマチ療養のために建てられた別荘ですが、長年病臥なさり起居もままならなかったテツ夫人が、ここの温泉に入られることはなかったそうです。

 

 タイル貼りの浴室。建築当時は約50度の源泉が自噴していたそうですが、今は温度が下がり湯量も少なくなっているので、ポンプでくみ上げてボイラーで沸かしているそうです。浴室内に入らせてもらいましたが、浴槽が洗い場よりもかなり下の位置にあり、さらに深いのにとても驚きました。

 

 玄関脇から庭に出ます。

 

 東郷元帥は建築当時庭の外周に松の木のみを植えられたそうで、その他の植栽はブリヂストン時代に整えられたものだそうです。

 

 別荘建築が1929(昭和4)年、東郷元帥が東京麹町のご自宅で亡くなられたのが1934(昭和9)年なので、ここで過ごされた日々はそれほど長くはなかったようですが、別荘へ来ると、すぐ近くの伊東の海で釣りをしたり、碁や盆栽を楽しんだりと、穏やかな晩年をお過ごしになっていたと聞くと、それだけでわたしまで何か心満たされるものがありました。

 

 東郷元帥が植えられた松の木は今も健在。

 

 庭の躑躅も満開でした。

 

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 少し早めのお昼は伊東オレンジビーチに面した“磯料理 開福丸(かいふくまる)”さんへ。

 

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 網元直営の料理屋さんとのこと、おすすめの「本日のランチ」には新鮮なあじの刺身と揚げたてのキスのフライが2尾もついていて、とても美味しくいただきましたラブラブ

 

 満腹のおなかを抱えて10分ほど歩き(笑)、つぎはJR伊東駅の裏手の高台に建つ曹洞宗の寺院“松月院(しょうげついん)”へ行きます。山門には山号の“桃源山”の扁額が見えます。

 

 山門からつづく参道の美しいことビックリマーク

 

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 参道の右手には芝生のひろい庭園があり、赤い太鼓橋も見えます。

 

 石段の正面が本堂のようです。木々の緑がほんとうに美しい合格

 

 石段を上りきったところには少し盛りを過ぎた藤棚と、対の大きな鬼瓦(おにがわら)が鎮座しています。1993(平成5)年の改修工事のときに取り外された鬼瓦をお守りとして設置したものと説明書きがありました。なんとふたつで総重量1トンもあるそうですビックリマーク

 

 境内左手の鐘楼(しょうろう)。

 

 松月院の創建は1183(寿永2)年、当初は真言宗の寺院だったのが1607(慶長12)年に曹洞宗に改宗され、その後現在の場所に移転したそうです。

 

 本堂の右手に寺務所があります。ちょうど法事が行われているようで、喪服姿の方が何人か出入りしておられました。

 

 本堂の扁額は“松月院”、御本尊は釈迦如来だそうです。 

 

 本堂の周囲にまるで小さなお濠のような水路が巡らせてあり、涼しげな水音を立てています。

 

 水音に導かれて本堂の左手へ。

 

 松月院は“伊東温泉七福神”にも数えられているそうで、豊かな水を湛える池のほとりには小さな弁財天、奥には弁天堂も見えます。

 

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 池の向こうには真新しい忠霊供養塔(ちゅうれいくようとう)と観音菩薩像もありました。

 

 弁天堂の朱の両部鳥居。

 

 端正なつくりの弁天堂には、案内板によると1684(貞享2)年、湯川天神畑弁天沢の松月田というところで村人が発見したと伝えられる弁財天像が祀られているそうです。

 

 石碑とともに筆塚もありました。

 

 高台の境内はとても眺望がよく、すぐそこに伊東の街並みと海が見えます。

 

 松月院は別名“花の寺”としても有名で、なかでも桜はとても種類が多いのだそうです。手入れの行き届いた境内はどこを見てもとても美しく、眺望も抜群、木陰のベンチに腰かけていると時間を忘れそうなほど居心地のいいお寺さんです。

 

 山門脇の池にかかる太鼓橋を渡っていたら、近所の小学生三人組が食パン片手に鯉にエサを投げ与えながら脇をすり抜けて走って行きました。子どもたちの元気な声が響く境内っていいなぁ~とその後ろ姿を見ながらつくづく思いました。

 

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