両親が亡くなってから誰も住んでいない長崎の実家を、お墓参りも兼ねてたまに帰省して掃除や整理をするのですが、数年来そうしてがんばっているにもかかわらず、未だ何でこうも片付かないのはてなマークとうんざりするくらい、家の中にはまだまだ物がたくさんあるんですあせる。決して家が広いわけではなく、むかしながらの古い平屋の一軒家、周囲のお宅はどこも立派な二階建てのお邸ばかりの中で恥ずかしいくらいの小さな家なのに・・・です。

 

近くで見つけた春~音譜 ツルニチニチソウの鮮やかなブルーがとってもきれいキラキラ

 

 いつもお世話になっている菩提寺(ぼだいじ)のお坊さんからも、親の遺品の整理はなるべく早くに手をつけて、後のばしにしないほうがいいと言われていたのですが、埼玉と長崎という物理的な遠距離に加えコロナ禍で帰省ができなかった時期もあり、なかなかうまく進まずにここまで来てしまった、とこれはわたしの言い訳です。夫もわたしも細々ながら仕事をしているので長期の休みは取りづらく、3泊4日で行っても初日と最終日は移動に取られ、大事な中日(なかび)も久しぶりに会う隣近所への挨拶回りや親族との再会などで思うに任せず中途半端で切り上げる、というのがだいたいのパターンです。

春を告げるスノードロップスター

 

 とはいえ帰省の目的のほとんどは実家の片づけなので、少しずつでも始めようとまず最初に取りかかったのが両親の衣類の廃棄です。ふたり揃って着道楽でしたので和服、洋服のほかバッグや靴や服飾品などの数がとても多く、これはもうひとつひとつ見ていると手が止まってしまうので、母の着物を除いて一気に、盛大に処分しました。ものによってはもったいなくて、これだけはとっておこうか・・・と思わないでもないのですが、ひとつそれをやってしまうとあれもこれもとなりそうなので、心を鬼にしてはてなマークすべて廃棄しました。

タンポポのくっきりとした黄色には、いつも元気をもらいますビックリマーク

 

 つぎは膨大な数の写真や日記、手紙類、そして本や雑誌の処分です。国内外の旅行が好きで、撮りためた写真はすべて現像してアルバムにきちんと整理してあるのはいいとしても、じぶんたちすら後から見返した形跡もなく、ただただ積ん読状態あせる。好きで買い集めた本や図録などは丁寧に読んでいたようですが、これぜんぶ必要はてなマークと思うような量に辟易(へきえき)します。さらに父が長年つけていた日記やいただいた手紙、葉書などふたりの辞書に“処分”という文字はないらしく、あっちの引き出し、こっちの棚にあふれ返っています。これにはわたしや子どもたち(孫)が送ったものもたくさん含まれていて、両親の気持ちを思うと捨てながら泣けてくるのですが、情に絆(ほだ)されていては先に進まないので全て廃棄します。

ムスカリって植えっぱなしでも毎年こうして花を咲かせてくれるんですね音譜

 

 このあたりまでは順調だったのですが、はたと処分に困ったのが母が教えていた茶道のお道具類と、ふたりともに好きでコレクションしていた陶磁器や漆器、掛軸などの書画骨董、和洋の食器や工芸品の類(たぐい)です。茶道具は四季折々お弟子さんたちにお教えするため、また各種道具類はお茶事(ちゃじ)を催しお客さまをもてなすためにひと通りどころかふた通り、み通り、いやもっと揃っているし、裏千家の家元(いえもと)をお迎えして行われる九州地区大会でのお点前(てまえ)にお出しした釜や抹茶茶碗などもあり、何よりそれらは両親がほんとうに好きで手に入れたものばかりであることをわたしが一番よく知っているので、一刀両断に処分とはいかないのが悩みの種なのです。

水仙のやさしい香り、とても好きですラブラブ

 

 茶道具類は必要のないひとにとってはただの我楽多(がらくた)でしかないのですが、ごみにしたり二束三文で古道具屋に売り払うことだけは、両親にも申し訳が立たないのでしたくないし、やはり茶道を嗜(たしな)まれる方のところへいって再び日の目を見てほしいというのがわたしの正直な気持ちです。そしてそのためには家じゅうありとあらゆるところにしまい込んであるそれらをひとまず引っぱり出して仕分けをせねばならず、ここ2~3年帰省のたびに取り組んでいるのが、今回はここ、とエリアを決めて膨大な数の道具類、食器類を出して、そこに何があるかを把握し、残すものと処分するものに仕分けることなのです。

いっせいに花を咲かせる花かんざし。

 

 わたしたちから見れば何で後生大事にとってあるのかわからないようなものもたくさんあるのですが、考えてみれば、戦中戦後のもののない時代を生き抜いてきた昭和ひと桁世代にとっては、ほしいもの、気に入ったものを買って所有することこそが喜びであり、幸せでもあったのかもしれないと両親の遺したものたちを見ながら思うのです。使うか使わないか、今必要か必要ではないかという価値基準ではなく、「持っている」ということ自体に意味があるので、当然苦労して手に入れた品々を簡単に手放したり捨てたりするわけもなく、その結果が家一軒を押しつぶしてしまいそうな、この大量のものの山なのかな、と思えてきます。

ほんとうに降り積もる雪のような雪柳。

 

 今や世の中は断捨離やサブスク全盛の時代、いかにものを持たず、シンプルでありながらもこころ豊かな暮らしを実現するかがトレンドになっていますが、それとは真逆の我が実家の有り様に苦笑しつつも、折々に床の間の掛け軸や花入れを変え、日々の食器や紫檀(したん)の飾り棚の端に至るまで、季節に合わせて品々を入れ替えては楽しんでいた両親の生き方に共感する部分もおおいにあって、だからこそやはりその後始末はわたしがしなければならないだろうと今は思っています。

 

クローバー チューリップオレンジ クローバー チューリップピンク クローバー チューリップ紫 クローバー チューリップ赤 クローバー チューリップ黄 クローバー

 

 親のことばかりぼやいていますが、昭和どっぷり世代のわたし自身もほしいものを買わずにいられないタチなので、買うか買わないか、はたまた今手元にあるものを処分するかしないか、この静かなる闘いはまだまだ続きそうな気がします。

 

音譜音譜音譜 yantaro 音譜音譜音譜