二日目は、ガイドブックを見て一目ぼれした内子(愛媛県喜多郡)の街を歩きます。いつものように予定は未定の行き当たりばったり、車を停めたところに一番近い“内子座(うちこざ)”から行ってみることにします。

 

 華やかな大幟(おおのぼり)が風にはためき、お客さんを呼んでくれているようです音譜

 

 内子座は1916(大正15)年、大正天皇の御即位を祝い内子の商家の旦那衆により創建された芝居小屋で、百年を超す歴史を持ち、途中老朽化により取り壊しの危機に瀕しながらも、町民の熱意により町並み保存運動とも連動して1985(昭和60)年に修理復元され、今なお現役の芝居小屋として活躍しつつ、内子を代表する観光スポットにもなっているところです。

 

 木戸口上には人気の演目『勧進帳(かんじんちょう)』や『助六(すけろく)』などの額絵が掛かっています。今でいう映画ポスターですね。

 

 内子座は現役の芝居小屋なので、今でも文楽公演や落語、演劇などの興行が行われています。コロナ禍以前は年間60公演をこなしていたそうですが、興行予定のない日には内部の見学が可能です。スケジュールは内子座ホームページに記載されています。

 

 劇場内に入ると、老松を描いた松羽目物(まつばめもの)の背景幕がかかる舞台と、手前に桝席(ますせき)の並ぶひろい芝居小屋があらわれて、タイムスリップしたようなわくわく感音譜に包まれます。

 

 最初に内子座の沿革や舞台装置などについて案内係のひとの説明を聞き、その後は各自自由に舞台に上がったり、桝席や二階席に座ってみたりしながら見学することができます。一階桝席と二階席を合わせて最大約600名の観客を収容可能とのこと、地方の芝居小屋としては設備等もふくめかなり規模の大きいほうだと思われます。

 

 そして注目すべきはこのすばらしい天井ですビックリマーク。格天井(ごうてんじょう)のなかでも格式の高い“折上(おりあげ)格天井”になっている上に、シャンデリアの部分をさらにもう一段高くして、よりマス目の細かな“二重折上格天井”とし、一枚ずつ板の木目を互い違いに配置して市松模様を描くなど手の込んだ贅沢なつくりになっていて、創建当時、内子の街がいかに繁栄していたかを物語っています。

 

 桝席の左手には役者が入退場したり立ち止まって見得を切ったりする“花道”があり、その七三の位置(立札のある辺り)に“すっぽん”と呼ばれるセリが切られ、通常は閉ざされていますが、主に忍術使いや妖怪など怪しげなものが登場するときに使われるそうです。幽霊などが突然姿を現す様子が、すっぽんが首を出すのに似ているところからついた名だそうです。

 

 近すぎて全体が写っていませんが、舞台中央は“回り舞台”になっています。回り舞台とは舞台を円形にくり抜いて回転させる仕掛けで、劇中の場面転換などに使われます。

 

 下手(しもて=客席から舞台に向かって左側)の舞台袖に行きます。

 

 舞台裏には、客席から見えないように上手(かみて)と下手(しもて)の舞台袖を行き来できる通路があります。奥に回り舞台の端の部分も見えていますね目

 

 定式幕(じょうしきまく)などを上げ下げするときの錘(おもり)でしょうかはてなマーク。今も使われているのかわかりませんが、電動ではないところがまた魅力的ラブラブ

 

 下手の舞台袖から地下の“奈落(ならく)”へ下りて行きます。 

 

 奈落とはサンスクリット語の「ナラカ」に由来する仏教用語で“地獄”を意味し「奈落の底に突き落とされる」のように使いますが、演劇では写真のような舞台の地下にある空間全体のことを言います。今はライトが点いて明るいですが、むかしはきっともっと薄暗くて、その様子が地獄を連想させたのかもしれませんね。

 

 奈落では各種舞台装置を間近で見ることができます。これは舞台中央の真下にあるセリで、役者や大道具を場面にあわせてせり上げるときに使うそうです。今でも人力で持ち上げるというのですからびっくりですビックリマーク

 

 こちらは回り舞台を回転させる装置。パンフレットには「昔は人力で動かす仕掛けがあった」と書かれているので、さすがに今は電動なのでしょうか。

 

 花道のすっぽんの真下です。

 

 奈落から地上に戻ります。客席後方には警察官用の“検察台”もありました。芝居の内容に目を光らせていたのでしょうか。

 

 外廊下の前は手入れの行き届いた坪庭。

 

 流造(ながれづくり)のお社もあります。

 

 二階へ上がります。階段の先には各種資料が集められた展示室があるのですが、館内でそこだけは写真撮影禁止です。

 

 二階席正面の“大向(おおむこう)”。一階桝席に比べると入場料が安いので、大向に座るのは常連客や芝居通の客が多く、“大向を唸(うな)らせる”と言うと、目の肥えた通の客たちを感心させるほど芝居が上出来だったということになります。役者冥利に尽きますね。

 

 大向からは一階全体を見下ろせます。舞台下手の暖簾の上の簾(すだれ)内を“黒御簾(くろみす)”といい、三味線や太鼓、鉦(かね)などのお囃子(はやし)が入り、場面に合わせた音楽を奏でます。上手の黒い格子の部分は“義太夫席(ぎだゆうせき)”で、義太夫語りが座るところです。

 

 午前9時すぎなので窓からは燦燦と陽が入り、飴色に輝く高い天井がより館内を明るく感じさせます。右横書きの広告看板もいい雰囲気です音譜

 

 今のように庶民の娯楽が多くなかった時代、内子座にかかる芝居や人形浄瑠璃、落語などの演目はどれほど皆を楽しませ、胸ときめかせただろうと思うと、当時のひとびとの歓声まで聞こえてくるような気がします。

 

 三方を囲む窓は日照を考えてつくられているので、興行は日の出から日の入りまでと決まっていたそうです。

 

 最後に、案内係の方が教えてくださった正面の唐破風(からはふ)の両端に載る狐を確認します。小さいですが確かにお狐さんで、商売繁盛を願って招き猫ならぬ“招き狐”になっています。屋根の上の太鼓櫓(たいこやぐら)も青空に映えてとても華やかです。

 

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 内子座を出て本町通りを歩いていると、アーチ窓が美しい洋風建築の建物があらわれます。今は“内子町ビジターセンター A・runze(アルンゼ)”として観光情報等を提供する拠点になっていますが、案内板によると、この建物は1936(昭和11)年に内子警察署として建てられたものだそうです。ハイカラですねおねがい

 

 しばらく行くと、風格のある注連柱(しめばしら)と赤い提灯が目を惹く八幡(はちまん)神社があり、つい足が止まりますあせる

 

 こんなふうにおいで、おいでと誘われてはむろん素通りはできず(笑)、参拝に上がります。コンパクトな敷地に注連柱からつづく石橋、石燈籠、随身門が連続して立ち並び、参道には御影石(みかげいし)が敷かれています。

 

 明神(みょうじん)鳥居の扁額には小さい屋根がビックリマーク。珍しい目

 

 拝殿は手の込んだ彫刻で飾られ、とても風格があります。拝殿内部に掲げられた絵馬からしても、おそらく江戸時代の建築だと思われます。

 

 本町通りから、内子街歩きのメインとなる“八日市・護国(ようかいち・ごこく)の町並み”通りに入るときの目印となる“伊予(いよ)銀行内子支店”。もちろん通常の銀行ですが、街並み保存の観点から、建て直すときも外観を損なわないよう配慮されているそうです。

 

 内子は江戸後期から明治にかけて、天然のワックスともいえる木蝋(もくろう)の生産で栄えたところで、この一画には往時の建築の面影を残す町家や蔵、豪商の邸などが立ち並び、町並保存会のご尽力により今も情緒あふれる街並みが大切に保存されています。

 

 木蝋を塗り重ねる伝統的な製法でつくる和蝋燭(わろうそく)の店「大森」。店内には丁寧に手づくりされた少し黄味がかった和蝋燭が並び、一本から求めることができます。炎が大きく力づよいのが印象的です。

 

 この一帯は1982(昭和57)年に全国では18番目、四国では初めて国から指定を受けた“重要伝統的建造物群保存地区”だそうです。その名に違わない美しい街並みラブラブ

 

 城下町などによく見られる“桝形(ますがた)”。通りを直角に曲げて外敵等が進入しにくくなっています。

 

 保存するだけではなく、実際にひとびとが暮らす通りには住民の皆さんの息遣いが感じられ、それがまた何とも心地いいのです。

 

 竹工芸の店「武工房(たけこうぼう)」では、女性の職人さんが竹の皮を剥ぎ、丹念に編んでおられるところが見られます。店内には使い勝手のよさそうな買い物籠や箸、茶托、花瓶などが並んでいます。なかでもペーパーのいらないコーヒーフィルターは、目の粗いものと目の詰まったものを重ねて使うという逸品で、喉から手が出るほど欲しかったのですが、どうにも高価すぎて購入できなかったのが今でも心残りです。

 

 街並みに馴染む「御宿 月之家」。軒下の床几(しょうぎ)に腰掛けて、歩き疲れた足を少し休めさせていただきました。

 

 ランプを愛してやまない夫が素通りできなかった「洋燈屋(らんぷや)ICHI」。木蝋(もくろう)から作られる蝋燭の灯りも、ランプの揺らめく炎も、ひとのこころを和ませてくれるところは同じですね。優しい灯りにはリラックス効果があるようです。

 

 店内には各種ランプやアウトドア用品がセンスよくディスプレイされています。

 

 一目ぼれして購入したランプ合格。オーナーと相談しながら、土台とカバーを好みでカスタマイズすることもできます。

 

 内子の街並みのなかでもひときわ美しい漆喰(しっくい)装飾の蔵を持つこのお邸は、国の重要文化財にも指定されている“本芳我家(ほんはがけ)住宅”で、木蝋の生産で財を成した豪商芳我一族の本家だそうです。内子の上質な木蝋は明治時代には「旭鶴」の商標で海外にも輸出され、パリ万博、シカゴ万博などにも出品され高く評価されたそうです。火に弱い木蝋を守るために、蔵は耐火耐水性を高める海鼠壁(なまこかべ)になっています。

 

 蔵と並ぶ本家住宅の内部は非公開で、外観と庭園のみ鑑賞することができます。主屋の海鼠壁はおめでたい亀甲紋、帆掛け船の帆のような鬼瓦の装飾も珍しいです。

 

 通りに面した主屋の出格子(でごうし)や二階の格子窓も繊細で美しいです。一階の屋根の上には“鏝絵(こてえ)”という着色した漆喰を用いたレリーフ状の装飾が施されています。左官職人が鏝の技術で仕上げるところから鏝絵と呼ばれるそうです。

 

 本芳我家の門。写真左上、主屋の屋根の妻部分を隠すような装飾は“懸魚(げぎょ)”といい、読んで字の如く「魚を(屋根に)懸ける=水をかける」ことから建物の火伏の守りとされていますが、本芳我家の懸魚は今にも羽ばたかんとする華麗な鶴です。

 

 柵のところまで入れるので、庭園を見せていただきます。

 

 本芳我家主屋の北側。

 

 枝垂れ梅が風情を添える庭園。

 

 主木の松もそれはそれはみごとですキラキラ

 

 街並みの一番奥には、本芳我家の筆頭分家、上芳我家(かみはがけ)の邸宅があり、ここは“木蝋資料館上芳我邸”として一般公開されています。入館料は大人500円ですが、内子座と商いと暮らし博物館との3館共通セット券なら大人900円です。

 

 弁柄(べんがら)で塗られた出格子(でごうし)に囲まれた入口から入ります。

 

 入るとすぐに広い土間。隅々まで弁柄で塗られた明るい空間です。

 

 どっしりとした大黒柱の袂で靴を脱ぎ、上がらせていただきます。欄間の井桁模様も愛らしく、商家らしい気楽さで「ちょっと寄っていって」と誘われているような気がします。土間から上がった障子の奥が“中の間”、さらにその奥に“奥座敷”と“客座敷”が見えます。

 

 入口すぐの“店の間”で、まずガイドさんから“木蝋(もくろう)”についての説明を受けます。それによると木蝋の原料はハゼの木の実で、その果肉を粉にして蒸しあげ、圧力をかけて搾ったものを“生蝋(きろう)”といい、その生蝋を漂白したものを“白蝋(はくろう)”または“晒蝋(さらしろう)”と呼び、それが蝋燭やクレヨン、鬢付け油などの材料になるのだそうです。

 

 頭上には商家に欠かせない神棚。

 

 ガイドさんの説明を聞いた後は主屋から庭まで自由に見学できるのですが、パンフレットを広げると、こちらの上芳我家は総敷地面積がなんと1,300坪もあり、すべて回るだけでもひと仕事ビックリマークということが判明。いちいちひっかからずに効率的に回らねばなりませんあせる。というわけで、奥座敷の作りつけのお仏壇にまず手を合わせてからスタートします。

 

 中庭に面した客座敷は書院造りで、障子を通して差し込む陽の光のおかげでとても明るく、客人との会話も弾みそうです音譜

 

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 細かなところには引っかからずさっさと回るビックリマークと心に決めたのに、表と裏で模様の異なるこの美しい合わせ欄間と障子の桟からはやっぱり目が離せません目あせる。飽かず眺められるとはまさにこのこと、角を落とした廊下の曲がり角もいいですねラブラブ

 

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 床脇上部の引き戸の内をのぞくと、精巧な細工が施された立派な神棚が隠れています。なるほどこれで、店の間の神棚が小ぶりなわけもわかりました。

 

 主屋の各部屋は中庭を囲むように配置されています。

 

 枝垂れ梅が今を盛りと咲き誇り、それはそれは見事です合格

 

 中の間にはどっしりとした箪笥が置かれています。畳の切れ込みが、通常の炉を切るところではない不思議な位置にあるのでガイドさんに尋ねると、これはこの下で炭を起こし、小さな櫓を置いて暖を取るときに使うものだそうです。なるほど。

 

 客座敷を出るとその先に“仕舞部屋(しまいべや)”、お手洗いをはさんで“産部屋(さんべや)”と続きます。仕舞部屋とは身支度を整える部屋、そして板敷きの産部屋は産婦のための産屋(うぶや)と考えていいのでしょうか。

 

 渡り廊下を下るとその先には“離部屋”があるそうですが、そちらは非公開です。

 

 中庭を囲む廊下をもう一度曲がると“離れ座敷”があります。ここで先ほどの中の間で見た畳の謎が判明ビックリマーク。こうして使うためにあの位置に切られているのですね。火を起こし布を掛ければ小さな炬燵になります。この座敷は床の間はついていますが手前の四畳半とあわせ、位置的にも客間ではなく家人のための座敷と思われます。

 

 その先には浴室。じゅうぶんな広さがあります。

 

 離れ座敷からの戻り道。

 

 商家らしい箱階段を上って二階に行きます。

 

 二階はだだっ広い空間で、むき出しの屋根の小屋組(こやぐみ)とそこから下がる束(つか)が目を惹きます。案内板によると、二階は建設途中で工事が中断したままなのだそうです。理由は定かではなく、以降ここは主に物置として使われていたそうです。

 

 二階から見下ろす中庭もまた格別ラブラブ

 

 三階へ上がります。

 

 なんとも圧倒的な景色ビックリマーク屋根の小屋組をこれほど間近で、詳細に見られるのも珍しいかもしれません。写真左の太い柱が一階土間から立ち上がる大黒柱で、長さ6.5mにも及ぶ松の木だそうです。

 

 もしも二階が予定どおりに建築されていたら、このような大きな邸の小屋組をこうしてつぶさに見ることなどできなかったわけで、そう思うととても有り難く感じられます。

 

 一階に戻り、靴をはいて炊事場から庭に向かいます。ひろいお邸ならではの土間、いいですねぇラブラブ

 

 土間の先には30坪もある炊事場。システムキッチンって限られたスペースに収めるために考えられたものなのかなはてなマークと思えてきます。だって炊事場がこれだけ広々としていたら、いくらでも使い勝手よく、自由自在に配置できますもの。

 

 三和土(たたき)は少々濡れてもこぼしても、後始末もお掃除も簡単なのがいいですね。

 

 炊事場の真ん中には大きな井戸も。

 

 中庭も散策することができます。

 

 枝垂れ梅の傘の下に入ると、その馥郁たる香りが胸いっぱいに満ち溢れます。

 

 さて主屋を出て、併設されている木蝋(もくろう)資料展示棟と庭を見に行きます。庭といっても一見すると庭園ではなく、木蝋の生産拠点だったところのようです。

 

 木蝋資料展示棟では、木蝋の生産過程を各種資料や模型、映像などで詳しく知ることができます。ガイドさんの最初の説明を聞いているとよりわかりやすいです。

 

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 木蝋資料展示棟の前は広場になっていて、仕切られた柵の奥にまだ見学すべき建物がいくつもあるように見えます。

 

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 この大きな井戸は、天日に晒している蝋が日光の熱で溶けないよう蝋に水を撒く作業のときに使われたそうです。なるべく井戸に埃や落ち葉などが入らぬよう、大きな屋根がつけられたのでしょうか。
 
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 その隣の建物が“蝋搾り小屋”で、ここでハゼの実を生蝋(きろう)にするまでの工程を行います。まず最初に“こなし場”で、原料のハゼの実を砕いて粉にします。

 

 つづいて左奥の釜場(かまば)で砕いた粉を蒸し上げます。その蒸した粉を搾る道具がこの“立木式(たちぎしき)蝋搾り機”だそうです。一連の作業が効率よく進められるよう配置されています。

 

 蝋搾り小屋の先の土蔵は改装されて、中にはモダンなカフェと情報コーナーがあります。

 

 できあがった生蝋(きろう)を漂白して白蝋(はくろう)にする工程の途中の“蝋花(ろうばな)”をつくるまでの作業をするのがこちらの“釜場”です。

 

 搾り取っただけの生蝋は緑泥色をしているので、この“蝋釜(ろうがま)”で煮溶かして、灰汁(あく)を加えて不純物を沈殿させた後、冷水を張った桶に蝋を垂らすと、白く弾けて結晶状に固まり水面に浮かぶそうです。その結晶が花の形に似ているので“蝋花(ろうばな)”というのだとか。

 

 その浮かんだ蝋花を持ち手のついた“ジャリアゲ”で掬い取り、この台に乗せて水切りをします。

 

 軽く水切りを終えた蝋花は“蝋蓋(ろうぶた)”という四角い木箱に均一に広げられ、さらに白くするために日光に晒します。
 

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 蝋搾り小屋の前のこの広場は、蝋花入りの蝋蓋を天日に晒すための“蝋晒し場”でした。そのために広いスペースが必要だったのですね。この製法こそが本芳我家初代、弥三右衛門(やざえもん)が考案した「伊予式蝋花箱晒法(はこさらしほう)」で、これにより品質向上に加え見た目の白さも際立って、内子が日本有数の良質の蝋の産地として知れ渡るようになったのだそうです。

 

 弥三右衛門がのちに「伊予式蝋花箱晒法」と呼ばれるようになったその画期的な製法を思いついたのは、深夜厠に立ったとき、手に持っていた蝋燭から垂れた蝋が手水鉢(ちょうずばち)の水に落ちて白く弾けたことにヒントを得たと伝えられているそうです。世紀の発見って意外とそういうものかもしれませんね。

 

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 さてお腹が空いたので、行きがけに目をつけていた“そば処下芳我邸”にお蕎麦を食べに行きます。名前からも風格漂うお邸からも、芳我一族の分家であることがわかります。

 

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 築140年の商家を改築した和モダンな店内。

 

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 わたしたちは土間のテーブル席に座りましたが、靴を脱いで上がるひろい座敷もあり、そこにもテーブル席が用意されています。窓の外は中庭で、二階にはギャラリーもあるようですが、時間の関係で食事だけになってしまいましたあせる

 

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 夫は“愛媛のB級グルメ”と銘打った「焼き豚玉子飯セット」。単なるチャーシュー丼とはひと味違う焼き豚玉子飯がとっても美味しかったですラブラブ

 

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 わたしは“内子の旬を味わう今月の季蕎麦(ときそば)”の「揚げ餅蕎麦」です。お月さまみたいに真ん丸な揚げ餅が、どうしてべたっとならないの!?と不思議なくらいカラッとしていて最後まで美味しくいただけます。種類の違う人参の含め煮が、甘くてこれまたとても美味です。

 

 元気を補給したところで、3館共通券の三つ目の“商いと暮らし博物館”に行きます。ここは別名を内子町歴史民俗資料館といい、パンフレットによると、大正時代の薬商「佐野薬局」の敷地と建物を内子町が購入し、当時の商人の暮らしを人形や道具類を使って再現しているそうです。

 

 1921(大正10)年頃の様子を再現した店の帳場には主人が座り、横では番頭さんが新製品をお客さんにすすめています。見学者が近づくと自動で会話の音声が流れる仕組みになっていて、このリアルな人形と併せて最初はちょっと驚きました爆  笑

 

 店の入口から続く土間の奥には家族の住まいがあり、朝食を食べるシーンが再現されています。主人家族は畳の上で白米を、丁稚さんは土間に腰かけて麦飯を食べています。

 

 さらにその奥ではぶつぶつ繰り言を言いながら、女中さんが炊事洗濯をしています(笑)。

 

 坪庭に面した座敷は商談や接客用で、人形劇はてなマークでは主人と近所の知人がお茶を飲みながら世間話をしていました。

 

 蹲踞(つくばい)のある坪庭。

 

 ここにも裏手に化粧部屋がありました。上芳我邸の仕舞部屋と同じく、女性が身支度を整えるところです。

 

 箱階段を上って二階に行きます。

 

 二階には三間つづきの座敷がひろがります。

 

 作りとしてはごく一般的な座敷だと思いますが、欄間の文様や源氏襖(げんじふすま)の意匠はとても優れていると感じました。

 

 この座敷は祭りや婚礼などのときに主に使われたそうで、大人数が集まると襖を取り払い、三間つづきのひろい宴席にもなったようです。

 

 座敷から二三段低くなったところは板の間で、

 

 通りに面した方は薬の在庫置き場(倉庫)兼丁稚さんの寝室で、人形劇では丁稚さんが夜に在庫の整理をしながら、主人家族には内緒でこっそり薬種商の受験勉強をしているところが描かれます。

 

 板の間をはさんで二階の坪庭側は御隠居さんの居間です。家督を息子に譲り、棋譜を片手に悠々自適のご様子、なんともうらやましい照れ

 

 一階へ下りて、

 

 炊事場の奥の蔵に行きます。丁稚さんの周りに積み上げられているのは米俵ではなく、硝子の薬瓶の入った俵です。この丁稚さん、転職したいのか「じぶんはこの仕事に向いていない・・・」としきりとボヤいていましたよ。

 

 当時の佐野薬局は薬以外に雑貨もたくさん扱っていたようで、戸棚のなかにはベーキングパウダーやケチャップ、葡萄酒なども並んでいました。

 

 クローバー チューリップ黄 クローバー チューリップ赤 クローバー チューリップ紫 クローバー チューリップピンク クローバー チューリップオレンジ クローバー

 

 ガイドブックの写真に惹かれてほんの少し歩いただけですが、古き良き時代の日本人のこころを思い起こさせてくれる内子お散歩でした。

 

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