寺社仏閣巡りが好きなわたしたちにとって四国は永遠の憧れの地。これまで一度も足を踏み入れたことがなかったのですが、このたび縁あって愛媛を訪れる機会を得て、めでたく四国デビューを果たしました。
松山空港に降り立つと、愛媛県のご当地キャラクター“みきゃん”ちゃんの冬~春バージョンが賑やかに迎えてくれます。
四国が憧れの地であるのはやはり、いつの日か“四国八十八か所”の霊場を巡礼し、高野山で結願(けちがん)するのを夢見ているからで、日ごろの寺社仏閣巡りはすべて、その予行演習なのかもしれないと思ったりもします。
正式な参道は工事中で通れず迂回路を歩いたので、この鳥居を見ることができませんでした。写真は少彦名神社のパンフレットよりお借りしました。
だからというわけではないのですが、旅行先を決めるときはどうしても行きたいお寺さんや神社のあるところが最優先になりがちなので、今回の愛媛旅はそれをちょっと忘れて純粋に観光を楽しもうと思っていたのに、気づけばいの一番に駆けつけたのはやはり“少彦名(すくなひこな)神社”でした。なんでこうなるのかな~。
参道の脇に群生して咲く“セリバオウレン(芹葉黄蓮)”。拡大して撮ってもこのサイズ、実は小指の先ほどの小さな小さなお花です。案内してくださった係のひとに教えてもらってやっと気づくほど。それでも清楚で凛とした姿がとても美しく、“おすくなさん”にふさわしい花だなぁと思います。
おっ見えてきました。これがず~っと見たかった少彦名神社(愛媛県大洲市)の“懸(か)け造り”の参籠殿(さんろうでん)です。以前何かの本で見て、いつか行ってみたいと思っていた景色が目の前に感激です~。
“懸け造り”はこのように急峻な斜面や崖にせり出して建てる建築様式で、京都の清水寺が最も有名ですが、ここは柱と貫(ぬき)で床下を支えるその構造を間近で見られる貴重な場所ではないかと思います。
参道を少し進んで真横から・・・。案内板によると述べ床面積128㎡の約9割が斜面に張り出し、束柱は長いところで13mにも及ぶそうです。1934(昭和9)年に建てられて、老朽化により使用不能になっていたのを、篤志家等の寄付により2014(平成24)年に修復再建されたので、伝統工法に加え近代技術も取り入れられているそうです。
どの角度から見ても圧巻
参籠殿の正面です。中央の唐破風(からはふ)の左右に千鳥破風(ちどりはふ)が載っています。この位置から見るとごくふつうの寺社建築で、とても床の一割しか地面に乗っていない懸け造りの建物とは思えないですよね。
鍵はかかっていないので、扉を開けて中に入らせていただきます。参籠殿とは元来神仏に祈願するとき、身を浄め精進潔斎(しょうじんけっさい)するために籠(こも)る場所のことですが、内部を拝見すると、今は神社の各種行事やイベントなどに使われているようです。
屋根は二層になっていますが内部は平屋造り。
三方全面硝子張りなのでとても明るく、居心地のいい場所です。
格天井(ごうてんじょう)も美しく、内部に座っていると、ここが空中に浮かぶ楼閣だとはちょっと信じられない気分です。
入口上部に掲げられた板図(建築図)どおりのつくりになっているようです。
入って左奥から入口を見ています。
眼下に見える肱川(ひじがわ)。硝子戸はこれ以上開かないよう工夫されています。
参籠殿前の石段を上ります。
その先にひっそりとたたずむ拝殿。
少彦名神社の御祭神は“少彦名命(すくなひこなのみこと)”で、『古事記』によると大国主命(おおくにぬしのみこと)の国造りにも携わられた格式の高い神さまなのですが、ここまで案内してくださった係のひとのお話しによると、大国主命とともに道後温泉を発見したあと、肱川を渡っている途中に亡くなられ、その御亡骸を埋葬したのがこの梁瀬山(やなせやま)なので、ここは神さまの終焉の地として建てられた珍しい神社なのですよ、とのことでした。
また本殿にあたる“御陵(ごりょう)”はここからさらに山道を上った梁瀬山頂付近にあるそうで、この日は残念ながら行くことは叶いませんでした。写真はパンフレットよりお借りした御陵脇にある祠と、それを守る珍しい狛犬ならぬ狛猪(こまいのしし)です。
石段の上から見る参籠殿もいいですね。
少彦名神社の御朱印。参籠殿に書き置きで置かれています。
少彦名神社を出て、車で10分ほどの大洲(おおず)の街に向かいます。観光駐車場に車を停めて桝形通りを歩いて行くと、遠くに大洲城が見えてきました。
かつて二の丸表御殿があったところには、大洲城下に残る歴史的家屋をリノベーションした『NIPPONIA HOTEL 大洲城下町』という素敵なホテルがあり、往時の町並みを偲ばせています。
重厚な石垣が迎えてくれます。きゃっ。
お天気に恵まれたおかげで、iPhoneのカメラでも絵はがきみたいにきれいな写真が撮れます。
石垣は古いのですが、近づいてみると城そのものはかなり新しく、再建されて間もない印象です。渡り櫓で天守とつながれた手前の櫓には、遠目にもそれとわかる板張りの石落としがついていて、白壁に黒板なので装飾と実用を兼ねているようです。
パンフレットによると、大洲城は四層四階の天守を中心に向かって左に高欄櫓(こうらんやぐら)、右に台所櫓(だいどころやぐら)を備えています。高欄とは外につけられた廻縁(まわりえん)の手すりのことですが、台所櫓という名称は初めて聞きました。文字通り城内の食を賄う台所があったのでしょうか。しかも見たところ、台所櫓は城内で一番大きな櫓のようです。
台所櫓の一階から城内に入るとすぐ目の前に“復元天守木組雛形”が展示され、パンフレットを読むと1970(昭和45)年に台所櫓、高欄櫓が解体修理され、2004(平成16)年に天守の復元工事が完了したと書かれています。なるほど新しいわけですね。
どこも真新しくピカピカで(笑)、お城のイメージとは真逆の明るい空間に戸惑うほどです。でもこれがふたたび時を経て、よい味を出していくのが楽しみですね。
高欄櫓の内部。高欄櫓と台所櫓は安政の大地震で大破したため、江戸末期の1861(文久元)年に再建されたものが遺されているそうです。新築のような城内で、この落ち着いた古さに心底ほっとします。
天守へ上る急な階段。
天守内部。
戻り道の台所櫓。高欄櫓と台所櫓は国の重要文化財に指定されているそうです。
下から改めて“高欄”を確認します。
城の周囲はきれいに整備された公園になっていて、眺望もとてもいいです。
御朱印ならぬ御城印があるとのことで、つい求めてしまいました。
大洲城で観覧券を購入したとき、お城だけなら大人550円のところ、市内の臥龍山荘(がりゅうさんそう)と盤泉荘(ばんせんそう)(各550円)との共通観覧券なら1,100円ですとすすめられてそちらにしたので、つづいて臥龍山荘へ行きます。
見上げると土塀には平瓦が埋め込まれ、建物は小ぶりながら板張りの上部に割竹を張るという凝ったつくりで、窓はなく、意図して位置をずらしたような銅板の扉をつけるというこだわりよう、入る前から期待が高まります。
通りから少し奥まったところにひっそりと立つ山荘入口の門。こちらの臥龍山荘は、明治時代の貿易商河内寅次郎(こうちとらじろう)氏が、故郷の大洲市で余生を送りたいという願いを込めてその財を投じ、三千坪の敷地に十年の時を費やして建てられた住まいだそうです。
客人を迎える玄関は山荘らしい質素な土間仕様で、沓脱石(くつぬぎいし)があり、上がり框(がまち)の先の敷台(しきだい)には割竹が敷き詰められています。靴を脱いだ足にこの竹の感触が何とも心地よくて、主(あるじ)の心づかいを感じます。
“迎礼(げいれい)の間”から中庭を見ながら廊下をすすみます。
最初にあらわれる“清吹(せいすい)の間”。パンフレットによると別名を“夏の間”といい、なるほど天井が高く、床には畳ではなく籐が敷き詰められ、夏を涼しく過ごす工夫が施されています。欄間障子(らんましょうじ)というのでしょうか、障子の上部に影絵のように映っているのは“花筏(はないかだ)の透かし彫り”だそうで、風雅の極みという感じがします。
床脇(とこわき)と呼んでいいのかわかりませんが、ちょっとしたスペースにも気を配り、どこを見ても凝りに凝った設(しつら)えになっているのがわかります。右手の透かし彫りは流水紋。
花筏の透かし彫りを囲むように自然木の落とし掛けが縁取りをし、見上げるとその上の御簾(みす)の奥には、まるで神社のような大きな神棚があります。すごい。
二間つづきの“壱是(いっし)の間”。ここは山荘の中で最も格式の高い書院造りの客間で、パンフレットによると、畳を上げると板の間になり能舞台に早変わりするそうです。何より音響を重要視する能のために、床下には備前焼の壺が四方に3個ずつ、計12個も置かれているとのこと、贅の限りとはまさにこのことですね。
壱是の間からみる庭園。
座敷のぐるりには畳廊下が巡らされ、さらにその外側を濡れ縁が囲んでいて、その縁側には視界を遮る柱が一本もないのですが、
そのわけは、この軒下につけられた一本の松の木が屋根を支えているからなのだそうです。お見事。
濡れ縁からつづく廊下には『仙台松の一枚板 あえて溝が引いてあります』の表示があり、かがみこんで見るとまさにその通り、木目はつながり、目地は後から彫られたことがわかります。高価な一枚板であることを誇張せず、わざわざふつうの板張りの廊下に見せようとするその心意気とこだわりに脱帽です。
つづく“霞月(かげつ)の間”は一転して沈んだ色合いで統一された茶室です。暮れなずむ夕刻の農家の様子を表しているそうで、利休鼠(りきゅうねずみ)と呼ばれる鼠色の襖(ふすま)や、土壁の一部をわざと塗らずに地肌を見せる下地窓(したじまど)など、心憎い演出がなされています。
掛け軸の前に違い棚と見慣れぬ装飾に戸惑いながらパンフレットを見ると、この違い棚はたなびく霞を、右上の丸窓は空に浮かぶ満月を表しているのだそうです。“霞月の間”の名の由来がここにありました。掛け軸の絵は富士山、襖の引手には蝙蝠(こうもり)があしらわれ、農家の侘びた風情を醸し出しつつも目立たぬように贅を尽くしてあるのがわかります。
迎礼の間(玄関)に戻ると、入口の上部には“禎祥(ていしょう)”と書かれた紙貼りの提灯箱が並んでいます。禎祥とは吉報のことですが、真ん中の箱にはさり気なく“非常”と記されているのもおもしろいですね。提灯を出すのは慶事と非常時なのかな
玄関前のくぐり戸を抜けて庭園に入ります。腰をかがめねば通れないくぐり戸は、茶室の躙(にじ)り口を思い起こさせます。飛び石の先の庭園には茶室と庵(いおり)があるようです。
自然の大きな貝殻を蹲踞(つくばい)に見立ててあるのでしょうか。庭の風景にとても馴染んでいます。
茶室の“知止庵(ちしあん)”。“知止”は「とどまるをしる」と読むので、己の分を弁え、とどまるところを知るべきという教えから名づけられたものと思われます。
躙(にじ)り口から中をのぞくと、正式な二畳向切(にじょうむこうぎり)の茶室になっています。
細長い庭園をさまざまな樹木や飛び石などが彩り、なかでも苔庭に敷かれた延段(のべだん=敷石でつくられた通路)がより風情を添えています。
その途中にある“潜龍洞(せんりゅうどう)”は、案内板によると氷室(ひむろ)、すなわち冷蔵庫として使われていたそうです。
庭園の一番奥に、まるで水墨画のような“不老庵(ふろうあん)”が見えてきました。
眼下は美しいエメラルドグリーンの臥龍淵(がりゅうぶち)。肱川(ひじがわ)の流れのなかでも特に深く、龍が棲んでいるという伝説からそう呼ばれるそうです。臥龍山荘の名もそれに由来するのですね。
不老庵の全景。入口から縁つづきの右手の棟は茶室だそうです。
室内は三方を開け放せるので解放感にあふれ、宙に浮いているような不思議な感覚をおぼえます。そして正面には川の流れと山の絶景。自然の額絵のようです。
不老庵は建物そのものを舟に見立ててあるそうで、舟底をイメージしたようなやわらかなカーブを描く竹の網代(あじろ)天井や、段差のない踏込床(ふみこみどこ)の上の竹の落とし掛けの丸みなども相まって、入ったときの浮遊感を演出しています。
ぐるりを囲む廻縁(まわりえん)からは蛇行する肱川の眺望が楽しめます。
そしてなんと、この不老庵も少彦名(すくなひこな)神社と同じ懸け造り臥龍淵にせり出しています。
庵の裏にまわると、パンフレットに載っている珍しい“生きた捨て柱”を見ることができます。前方の軒下を支えている槇(まき)の木は不老庵を建てる前からここにあった木で、今でも生きたまま、上には伸びず横にのみ伸びて不老庵を支えてくれているのだそうです。懸け造りの見事な建築の陰に槇の木ありですね。
不老庵からの戻り道に母屋の臥龍院を望むと、外観はあくまで茅葺(かやぶき)屋根の農家ふうに仕上げられているのがわかります。ところが一歩中へ入ると…余生を送る隠居所としてこれほど極上の空間があるだろうか、とうらやましくなります。
来るときには気づかなかったのですが、門前の石垣からは古木が悠々と枝を伸ばしています。不老庵の捨て柱と同じく、立木を活かして石垣が組まれているのですね。
つづいて共通観覧券の三つ目の“盤泉荘(ばんせんそう)”に向かいます。斜めに組んだ石垣は確か先ほどの臥龍山荘(がりゅうさんそう)でも見かけました。それにしてもこんなに高い石垣の間際ギリギリに建つお邸も珍しいなぁと思って見上げると、またしても現代の懸け造りのような建築に二度びっくり大洲(おおず)では懸け造りが人気なのでしょうか。
こちらの盤泉荘(ばんせんそう)も、フィリピンのマニラで貿易会社を経営し、成功を収めた大洲市出身の松井傳三郎(でんざぶろう)・國五郎(くにごろう)氏兄弟が故郷に別荘として建てたお邸だそうで、どちらも豪商の住まいですが臥龍山荘が明治時代の建築なのに対し、盤泉荘は大正時代の建築という違いがあります。
前庭には石燈籠とともにふつう日本庭園には見られない等身大の陶器のライオンがいて驚きましたが、パンフレットによると、盤泉荘には貿易商の施主らしい国際色豊かな特徴がいくつもあるそうで、ライオンの置き物もそのうちのひとつと思われます。背後の山から今下りて来たような風情がおもしろいですね。
玄関を入ると目の前に何とも味のある木の衝立(ついたて)があります。節穴もそのまま活かした大木の皮でつくられているようです。
二間つづきの座敷(手前)と客間(奥)。玄関と同じ階にあり、パンフレットにも“一階座敷”と書かれているのですが、窓の外を見ると実際は木造三階建ての二階部分にあたるようです。
隣には和室にカーペットを敷いてロッキングチェアとティーテーブルを置いた洋間ふうの部屋もあります。高台なので正面に街並みが見渡せます。
座敷と客間前の廊下は一見何の変哲もない床に見えますが、パンフレットによると、フィリピン原産でその重さや硬さから“太平洋鉄木”と称される南洋材のイピールという建材を厳選して輸入し、丁寧に加工したうえで、その大きな一枚板を20枚も連続して敷いたものだそうで、「客人を座敷・客間・茶室へと誘うレッドカーペット」と表現されています。貿易商だからこそ手に入れられる外国産の品を活かし、それを純和風の邸に違和感なく馴染ませる手腕はすばらしいですね。
奥の客間は正式な書院造りで、無駄な装飾を省きすっきりと格調高い雰囲気です。堆朱(ついしゅ)でしょうか、朱色の座卓がとてもいいアクセントになっています。
もう一間椅子の置かれた和室があってその先に、
水屋(みずや)を備えた茶室があります。
茶室は来るときに見た懸け造りの上に位置しているので、縁側つきでとても明るく開放的な空間です。今は眼下に住宅が立ち並んでいますが、大正時代はもっと眺望がよかったのではないでしょうか。
中庭を見ながら座敷の裏手に行くと、
写真右手にむかし懐かしいタイル貼りの浴室、間に洗面台をはさんで左には、奥さまのための化粧室があります。姿見が置かれ、人目につかず身支度を整えられるよう配慮されているそうです。大正時代にこんなに使い勝手のよさそうな女性専用の居室を用意してくださるなんて、松井氏ご兄弟はさすが海外生活のご経験が長かったからなのだろうなぁと感嘆しきりです。
磨き上げられた大きな硝子戸は視界を遮らず、室内から見ると木の窓枠が自然の額縁のようになっています。
二階に上がるとそこにも床の間つきの座敷。
さらに廊下の先には和風の邸宅にはとても珍しいバルコニーまでソファが置かれ、眺望を楽しみながらアフタヌーンティーをいただくのにぴったりです。
むかし祖母が使っていた桐箪笥とほぼ同じものがあって、あまりの懐かしさにパチリ。真ん中の開き戸の中には着物をたとう紙ごとしまえる横長の盆があり、三つ並んだ引き出しは、ひとつを閉めるとほかの引き出しがパフっと出てきていました。
玄関を出て、庭園を見に行きます。
ちょうどここで案内係の方と会い「井戸についてご説明しましょう。」と言ってくださったので、ついて行きます。
裏山の崖に変電施設か何かのような青い扉が取り付けられていて、鍵を開けていただき中へ入ると、
そこには水で床が濡れた空間があり、
台所脇のこちらのタイル貼りの貯水槽まで送られてくる仕組みになっているそうです。この貯水槽には今も水が満々と湛(たた)えられ、満水の水位と手前に設けられた排水口が同じ高さなので、小さな埃などの浮いた上澄みの水は常に排水され、きれいな水が溜まるのだそうです。なるほど~。
扉を開けて、家の内外両方から水が使えるよう工夫されているところも見せてくださいました。パンフレットには「上水道が整備されていない大正期に生活用水を確保するために整備されたもので、この水の確保があったからこそ盤泉荘は建築されたと推察される。」と記されています。“盤泉”の意味もこれでわかりました。
飲用水のほか、洗濯や掃除などにつかう水の確保には、樋(とい)をつたう水を溜める工夫もなされていたそうです。横井戸は案内係の方と一緒でなければ入ることができないので、盤泉荘へ行かれるときはぜひ受付に声をかけて、見せてもらってくださいね。一見以上の価値ありです。
庭園から邸を見ると庭に面した廊下の硝子戸はすべて、一枚板の大きな硝子であることがわかります。一枚硝子は当時かなり高価だったはずですが、座敷や茶室から庭園を眺めるのに邪魔にならぬよう、お金には糸目をつけず客人を最大限にもてなそうというお気持ちが感じられます。
決して広くはないのですが、裏山の景観を活かした回遊式の庭園です。
急斜面の上にも東屋(あずまや)が見えます。
玄関の向かいには“展示蔵”があり、
盤泉荘の施主、松井國五郎氏のイニシャル「KM」の入った鬼瓦などが展示されています。鬼瓦にイニシャルを入れるなんてとても斬新なアイディアですね
帰り道、坂道を下りながらあらためて見ると、懸け造りと石垣間際に建つ様子がよく見てとれます。
駆け足観光ながら、少彦名神社と伊予の小京都といわれる大洲の街歩きは、わたしたちの四国デビューをやさしく迎えてくれるとても素敵な時間になりました。
yantaro