新年を迎え睦月になったのに師走もなにもないものですが、昨年末の山陰旅のつづきをまだ書いていて、こんなおかしなことになっています、申し訳ありませんあせる。筆が遅いのはいつものことながら、締め切りがあるわけでも待っているひとがいるわけでもないのをいいことに、ぼちぼち思い出しつつ書いていこうと思います。

 

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 日本にある世界遺産は、文化庁のホームページによると2022(令和4)年12月現在25ヶ所を数えるそうですが、2007(平成19)年に国内14番目として登録されたのが山陰地方唯一の世界遺産であるここ、石見(いわみ)銀山(島根県大田市)です。

 

 せっかく山陰へ来たのだから行ってみようと思い立ったものの、いつものように下調べも何もなしの行き当たりばったり爆  笑あせる。米子(よなご)鬼太郎空港に降り立ってレンタカーをピックアップし、ナビの言うとおりに約2時間走ってたどり着いたのがこの“石見銀山世界遺産センター”です。日本海側にクリスマス寒波が押し寄せる前でしたが、ときおり降る雪がうっすらと積もり、強風が吹いてとても寒いです。

 

 石見銀山を見学したいといっても漠然としすぎて、どこに行けばよのかすらまったくわからないので、ひとまず世界遺産センターの受付で尋ねると、“間歩(まぶ)”という坑道跡の見学はここではなくて、車で5分ほどのところにある無料駐車場に車を停めて、そこからさらに坑道の入口まで行かなければならないそうです。しかもその“龍源寺(りゅうげんじ)間歩”までは自家用車の乗り入れができないので、移動はレンタサイクルか“ぎんざんカート”に乗るか、徒歩で行くことになるとのこと。この雪道ではレンタサイクルは無理だし、徒歩での往復は時間的に間に合わず、“ぎんざんカート”一択という結論に至りました。

 

 ここが無料駐車場のある“大森代官所跡”です。

 

 そしてこれが“龍源寺間歩”の入口まで乗せてもらった“ぎんざんカート”ビックリマーク。電動ゴルフカートにビニールの幌をかぶせたもので、大森代官所跡から龍源寺間歩までの約3㎞を20分ほどかけてゆっくり上って行きます。料金はおとな片道500円でした。

 

 定員6人のカートに、この日の大森代官所跡発の最終便だったからか夫とふたりの貸し切りで、運転手のおじさんが石見銀山の豆知識をいろいろと語り聞かせてくださったり、お菓子屋さんでお八つの試食をしたりしながら、歩行者とそれほど変わらないくらいののんびりペースで山奥の龍源寺間歩の入口まで乗せていただきました。

 

 ここが“龍源寺間歩”の入口です。“間歩(まぶ)”とは、銀鉱石を採掘するための坑道の堀り口のことで、代官所直轄の間歩のひとつであるこの龍源寺間歩は、江戸時代中頃に開発された大きな坑道で、1943(昭和18)年まで稼働し、良質の銀を産出し続けていたそうです。

 

 石見銀山には水抜き用や通気用も含め大小あわせて600ヶ所を超える間歩が遺されており、なかでもこの龍源寺間歩は世界遺産・石見銀山遺跡のなかで唯一常時公開されている坑道で、冬季(12月~2月)は16時まで見学ができるそうで、ありがたいことに何とか間に合い中に入りました。入口は狭いのですが、ライトのおかげもあって意外に明るく、広く感じます。

 

 便利な機械などない時代、手に持った山箸(やまはし)で鉄子(てっこ)と呼ばれる鏨(たがね)を挟み、それを山槌(やまづち)で叩きながら掘りすすむというすべての行程が手作業で、一日がんばってもせいぜい30cmがやっと、今なお遺るその手の跡を間近で見ていると、この間歩を掘るのにどれだけの労力が費やされたのだろうと気の遠くなる思いです。16世紀半ば~17世紀前半の最盛期には、世界の銀産出量の約3分の1を占めていた日本の銀のほとんどがこの石見銀山産で、当時ボリビアのポトシ銀山とともに世界二大銀山のひとつとして世界経済を支えていたと社会科の授業で習ったことを思い出します。

 

 入口からほぼ真っすぐに続くメインの“旧坑道”は高さが2mくらいあり立って歩けるのですが、途中そのメイン坑道から左右に、細く狭い枝道のような坑道がいくつも掘られているのが見えます。“ひおい坑”というそれは、パンフレットによると岩の隙間に板のように固まっている鉱物の層(鉱脈)を追って掘り進んだ跡なのだそうです。メインの坑道と違い、うつぶせになってひと一人がやっと通れるかどうかという狭いひおい坑の跡をのぞき込むと、当時の鉱夫たちの銀を求める執念のようなものが感じられる気がします。

 

 ここは公開されている旧坑道のちょうど中間地点あたりにある“竪坑(たてこう)”で、間歩に溜まった水を地下の永久坑道へ排水するために垂直に掘られた坑道なのだそうです。たしかに狭い坑道では水の処理は大事ですよね。

 

 途中の壁に現在地を示す案内板があり(右)、それを見ないとこの道がいつ果てるのか、外に出られるのだろうかとふと心配になったりもします。見学終了時間間際でほかの見学者が誰もいなかったので、よけいにそう思ったのかもしれませんが~あせる

 

 ライトアップしてあるせいか、ひおい坑のなかには苔や草が生えているところもあります。ところどころライトの当たり加減か岩盤がキラキラキラキラ光って見えると、もしやあれは銀の跡はてなマークなんて思いましたが、気のせいですね(笑)。

 

 本来の龍源寺間歩の全長は600mもあるそうですが、一般公開されているのは入口から約158m地点のここまでで、右手の暗い坑道の先は195m地点で落盤のため塞がれているそうで、仕切りから先に入ることはできません。

 

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 旧坑道が見える仕切りのところまで行ってみましたが、この先頭上の高さは立って歩けるくらいの余裕があるものの、坑道の幅が極端に狭くなり、大人ひとりがやっと通れるくらいの幅でした。入口よりも壁や天井に遺された堀り跡が鮮明で、坑道の奥からは生温かい空気が流れ込み、外の寒さを忘れるようでした。

 

 今まで歩いて来たのが“旧坑道”で、ここからは道が左に直角に曲がり、見るからに新しい手すりのついた道がまっすぐに続いています。

 

 ここは1989(平成元)年に完成した観光用の新しい坑道で、旧坑道との分かれ道から116mゆるやかな上り坂を歩くと、出口につながります。

 

 出口付近の壁には、坑道内での作業の様子を描いた島根県指定の文化財『石見銀山絵巻二巻』の一部が電照版になって展示されています。

 

 龍源寺間歩の出口。

 

 出口付近にも小さな間歩が点在し、そのひとつひとつに上の写真のように“間歩番号”がふられています。ちなみに今見てきた龍源寺間歩の間歩番号は500番です。

 

 ぎんざんカートに乗るときに、帰りは運行終了時刻を過ぎるので、来た道をそのまま歩いて戻ってきてくださいと教えてもらっていたので、通りの両側を見物しながらゆっくり歩くことにします。さっそく右手の山の上に見えてきたのは“佐毘売山(さひめやま)神社”。鉱山の守り神であり、鍛冶や鋳物を司る“金山彦命(かなやまびこのみこと)”を祀る神社だそうです。下から見上げると、ちょうど今修復工事中のようでした。

 

 中には入れませんが今も残る“福神山(ふくじんやま)間歩”の跡。

 

 この分かれ道の先に“清水谷製錬所(せいれんじょ)跡”という歴史遺産があるのですが、次第に夕闇が迫り、残念ながら行くことができませんでした。ガイドブックによると、1895(明治28)年、大阪の藤田組が多額の投資をして近代的な採掘設備と製錬方法を備えた製錬所を新築したそうですが、そのときにはすでに石見銀山の銀鉱床はほぼ掘り尽くされ枯渇していて、操業後わずか1年半で閉鎖されてしまったそうです。その跡地には、今も高さ30m、幅100mにも及ぶ8段の石垣が遺されていて、往時を偲ばせているそうです。

 

 銀山地区は当時銀の生産拠点としてとても賑わっていて、最盛期には約20万人のひとたちが住み、1万3千軒もの家が立ち並んでいたそうです。

 

 街並みの途中途中にとにかく寺社仏閣が多いのに驚くのですが、ぎんざんカートの運転手さんの話によると、住民20万人のすべての宗派を賄うために、ここには当時150を超えるお寺や神社が立ち並び、尺八を吹きながら諸国を旅する虚無僧(こむそう)で知られる普化宗(ふけしゅう)の寺まであったそうです。過酷な重労働で病を得たり、落盤事故などで命を落とすこともあっただろうことを思うと、神仏に祈願したくなる気持ちが痛いほどよくわかります。

 

 ここは発掘調査により発見された江戸時代初期の銀の製錬遺跡である“下河原吹屋(しもがわらふきや)跡”です。石見銀山は1527(大永7)年、九州博多の豪商神谷寿禎(かみやじゅてい)により発見され、1533(天正2)年、朝鮮から招いた技術者によってもたらされた“灰吹法(はいふきほう)”という銀を取り出す手法を導入して、本格的な銀の生産に入ったそうです。

 

 そのむかしこの石垣のところには大きな門があり、そこから先は鉱山関係者しか入れないよう厳重に仕切られていたそうです。

 

 ぎんざんカートの運転手さんおすすめの手づくりごまどうふの店の“中田商店”。ご本業は魚屋さんだそうで、言われてみると店内には魚のショーケースも見えています。

 

 東京都内の百貨店などに多数出店している“群言堂(ぐんげんどう)”というアパレルブランドの本店がこちらだそうです。厳選した素材を使ったオリジナルの衣類や各種生活雑貨などを扱っていて、全国的に有名なお店なので、わたしたちも当然知っているという前提で運転手さんは話してくださるのですが、百貨店で食料品以外の買い物をしたことのないわたしたちにはイマイチよくわかりませんでした~あせる

 

 ガイドブックによると、群言堂石見銀山本店は“美しい日本の暮らしを未来に残したい”という理念に基づいてものづくりをしておられるそうです。300坪ものひろい敷地にはショップのほか併設のカフェもあり、地産地消のランチやスイーツがいただけるそうです。有名ブランドと聞くと足が竦みますが、暖簾掛けの入口に障子という来るものを拒まない入りやすそうな店構えにとても親しみを感じますニコニコ

 

 運転手さんにうながされて気づいたのですが、この美しい町並みの景観を守るために、電柱と電線を外に出さない工夫をしているのだそうです。大森地区と銀山地区の家々には空き家が一軒もなく、その住民たちが皆で協力して町づくりに取り組んでいるんですよと誇らしげにおっしゃる様子がとても印象的でした。

 

 軒下の濡れ縁に乗っけられた鉢植えには小さな雪だるまラブラブ

 

 丘の中腹から町を見下ろすように立つ曹洞宗のお寺は栄泉寺です。

 

 行きがけにお八つをいただいたお菓子屋さんの“有馬光栄堂”。江戸時代からつづく老舗で、小麦粉と黒糖でつくる素朴な焼き菓子“げたのは”が名物です。げたのは2枚を打ちつけるとコンコンと下駄で歩くときのような音がするのが名前の由来だそうです。ほんのりした優しい甘さがお茶によく合い、小腹が空いたときのお八つにぴったりです。

 

 宿場町のような落ち着いたたたずまい。

 

 どの家も新築するのではなく、古い町家を改装し、丁寧に手入れをしながら住んでおられるので、ひとつとして同じ意匠の家がないのも眺めていて楽しい所以です。むかしの家の窓硝子って、いまの味気ないアルミサッシにくらべるとほんとうにお洒落ですよねラブラブ

 

 門構えからしていかめしい洋風建築のこちらの建物は、1890(明治23)年に開設された“旧大森区裁判所”です。今は町並み交流センターとして、各種映像資料や建物の模型などが展示されているそうです。

 

 旧裁判所前のこの2棟は、ほかの町屋と建て方が違うのがわかりますかはてなマークと運転手さんから問われて考えました。正面の格子がヒントですよといわれてやっと、遊郭兼置き屋だと気づきました。格子戸はおそらく“張見世(はりみせ)”で、若い鉱山労働者の多かった当時の需要に応えていたそうですが、裁判所の真正面という立地に驚きですビックリマーク

 

 橋を渡ると右上に、小さなお堂が見えてきました。案内板によると、石段を上った先には観世音寺というお寺さんがあるようです。江戸時代には石見銀山の隆盛を祈願しに代官所の役人も参拝に訪れていたそうです。

 

 わ~平屋建ての家はわたしの理想です~ラブラブラブ。しかも引き戸の玄関ビックリマークこんなおうちに住みたいなぁ。

 

 赤いポストが目印の“石見銀山大森郵便局”。もちろん通常の業務を行う郵便局ですが、周囲の景観にあわせたレトロな外観がかわいいラブラブ

 

 郵便局の前には石見銀山で唯一のパン屋さん“ベッカライ・コンディトライ・ヒダカ”があります。御主人は“ドイツ製パンマイスター”でいらっしゃるそうです。暖簾のイラストのパンまで美味しそうです~ベル

 

 ぎんざんカートの運転手さんのお話を聞いてぜひ参拝と見学をしたかった“西性寺(さいしょうじ)”。ここは経蔵と、それを彩る“鏝絵(こてえ)”という漆喰のレリーフ画が必見なのだそうです。時間切れで行けなかったのがかえすがえすも心残りです。

 

 石見銀山の中心地として栄えていた大森地区には、今も古い町家や武家屋敷、寺社仏閣などが多数遺されていて、一帯は文化財保護法による“重要伝統的建造物群保存地区”にも選定されているのだそうです。

 

 “全国理容遺産”の認定第一号という“理容館アラタ”。大正時代の理容店を保存、公開しているそうで、ガイドブックによると午後4時までなら内部の見学もできたようです。むかし懐かしい理容椅子や理容道具などが並んでいるのが外からも見えました。

 

 そしてここは運転手さんに言われなければ銀行だとは気づかなかった“山陰合同銀行”の大森出張所。もちろん現役の銀行なのですが、ここも町並みにあわせて一般的な町家を改装した建物になっています。引き戸をガラガラと開けて「ごめんください~」って入る銀行、いいですね~合格。ATMではなく、ふるい大型金庫が置いてあったらもっといいなビックリマーク

 

 さて次は、鉱山業や酒造業のほか、代官所の御用商人も務めていた石見銀山きっての有力商人の屋敷を保存、公開している“熊谷家住宅”。総漆喰塗りの大邸宅には30室以上の部屋があり、重要文化財にも指定されているそうです。

 

 こちらも見学時間を過ぎていて入れませんでしたが、いかにも豪商のお屋敷というのが外から見ただけでもよくわかります。

 

 

 

 『アイ・ラヴ・ピース』という映画のロケ地になったところだそうです。 

 

 石見銀山世界遺産センターに着いたのが午後2時を過ぎていたので、龍源寺間歩のほかは銀山地区、大森地区の街道周辺の景色をながめるのみで終わってしまいましたが、行きはぎんざんカートに乗って20分ほどで上った道を、帰りは約1時間かけてゆっくり歩いて来ました。石見銀山らしい純度の高いシルバーをつかったアクセサリーの店やおしゃれなカフェ、お土産屋さんなどもあり、坑道巡りとあわせて散策するのにとてもよいところです。

 

 スタート地点の大森代官所跡の前に戻ってきました。今日はもう閉館していますが、現在は石見銀山資料館になっているそうです。長屋門に雪が降り積もり、とても風情があります。門幕の向こうから裃姿の武士がひょいと顔を出しても不思議はないような雰囲気ですねラブ

 

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 石見銀山の世界遺産登録資産名は『石見銀山遺跡とその文化的景観』となっていて、銀を産出していた鉱山だけではなく、その周辺の町並みに加えて、銀の積出港として繁栄した温泉津(ゆのつ)沖泊(おきどまり)港とその港町など、さらには鉱山と港をつなぐ銀山街道などそのすべてが対象となっていて、登録総面積はなんと530haにも及ぶそうです。一大経済圏を形成していたであろう鉱山運営にかかわる全体像がよく保存され、閉山後もなお未来へと語り継ごうと官民一体となり努力していることが評価されているのだろうと思いました。派手な観光地ではありませんが、日本人として一度は訪れたいところのひとつかもしれません。

 

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