断崖絶壁に浮かぶその景観も、また俳聖松尾芭蕉が奥の細道の道中に詠んだ句『閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声』でも有名な憧れの地、山寺(山形県山形市)を、晩夏の雨上がりの一日に訪れました。

 

 よく知られている“山寺(やまでら)”という呼び名は通称で、正式名称は山号を宝珠山(ほうじゅさん)、院号を阿所川院(あそかわいん)、寺号を立石寺(りっしゃくじ)といい、860(貞観2)年に第56代清和天皇の勅願により、第3代天台座主(ざす)慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)が開創なされたと伝わる歴史ある天台宗のお寺さんです。

 

 この日は朝から雨天雨で、リュックサックには雨合羽も準備して来たのですが、山形自動車道の山形北ICを出るころには雨はすっかり上がり、周囲には靄(もや)が立ち込めて、まるで水墨画のような幽玄の景色がひろがっています。ここが山寺への登山口、これから先の道を予告するような石段がまっすぐ上へと伸びています。

 

 石段を上るとすぐ右手に“手水鉢(ちょうずばち)”があるのですが、大きな石をくり抜いた鉢がそっと置かれているだけで、しかも今はコロナで柄杓も撤去されているため余計に気づきにくくなっています。その先には“常香炉(じょうこうろ)”、そして山寺の本堂にあたる“根本中堂(こんぽんちゅうどう)”の大きな屋根が見えます。

 

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 一束50円のお線香を求めろうそくの火にかざしたのですが、ついさっきまで降り続いていた雨のせいで少し湿っていたのか、なかなか火がつきませんでした~あせる

 

 根本中堂のご本尊は慈覚大師作と伝わる“木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)”で、50年に一度の御開帳時のみ拝することができるそうです。また堂内内陣には開山の折に本院比叡山延暦寺より分灯され、以来1,100余年の長きにわたり一度も消えたことのない“不滅の法燈”が煌々と灯っています。パンフレットによるとこの不滅の法燈は、織田信長による延暦寺焼き打ちの後の再建のとき、逆に立石寺から延暦寺へ分灯されたのだそうです。
 
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 根本中堂の賽銭箱の上には、唐子(からこ)をいっぱい載せた福々しい“招福布袋尊”が鎮座していて、賽銭を上げそのふくよかなお体を撫でてから参拝します。

 

 立石寺根本中堂の御朱印。“法燈不滅”と書かれています。

 
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 パンフレットによると銅板葺き入母屋造りの美しい姿の根本中堂は、ブナ材を使用して建てられた建築物としては日本最古のものだそうで、たしかに檜や杉などの針葉樹はよく聞きますが、寺社建築に広葉樹のブナが使われているというのはとても珍しい気がします。

 

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 根本中堂の横には門人たちが建てた“芭蕉句碑”があります。年月を経て摩耗していますが、正面にかすかに『閑さや・・・』と刻まれているのが読めました。

 

 さらに芭蕉句碑の奥には、山寺を勅願寺とした清和天皇をご供養する“清和天皇御宝塔”がひっそりと建っています。

 

 根本中堂からお隣の“山寺日枝(ひえ)神社”へ向かう参道は“橋殿(はしどの)”で区切られて、その真ん中には道祖神のような柔和なお顔の地蔵尊がいらっしゃいます。奥に見えているのが山寺日枝神社の鳥居です。

 

 神社の境内に入るとすぐに、その幹回りの太さに圧倒される大きな銀杏の木があります。案内板には“山寺の大イチョウ”とあり、慈覚大師さまのお手植えなのだそうです。樹齢千年を超す大銀杏、とても迫力がありますビックリマーク

 

 慈覚大師さまが山寺を開基されるとき、本院の比叡山延暦寺に倣い、山寺全体の守護神として近江国坂本の地より日吉大社の御分霊を勧請したのがこの山寺日枝神社のはじまりだそうです。御祭神は山の地主神といわれる大山咋神(おおやまくいのかみ)です。

 

 社殿の前には“亀の甲石”。その名のとおり亀の甲羅の形をしたこの石は、古来より延命長寿の霊験があるそうです。

 

 山寺日枝神社から少し坂を下ったところに、句碑をはさんで俳聖松尾芭蕉とその弟子曾良(そら)の銅像があります。雨に濡れていっそう趣を増し、おふたりが山寺を訪れたときにもきっとこのようにしてお休みになっただろうと思われる風情です。またこの向かいに寺宝を収めた“宝物殿”があるのですが、コロナ禍の今は拝観ができません。

 

 その先には山寺の修行道場である“常行念佛堂”(右)と、高欄(こうらん)を巡らせた“鐘楼(しょうろう)”(左)があります。暗くて見えませんが、梵鐘の下がる天井は格式の高い格天井(ごうてんじょう)で、緻密な彫刻の施されたとても美しい鐘楼です。

 

 ようやく奥之院への登山口となる“山門”前まで来ました。茅葺屋根の山門に迎えられ、扁額にも掲げられた霊窟への旅に出発です。山門をくぐると寺務所があり、そこで入山料(おとな300円)を納めます。

 

 山門前には『昔から石段を一だん二だんと登ることにより、私達の煩悩が消滅すると信仰されている修行の霊山です。』という立看板がありました。業多き身ながら、ほんとうにそうであってほしいと念じつつ一歩を踏み出すことにします。

 

 上りはじめてすぐ右手にあるのが“姥堂(うばどう)”で、祀られている御本尊は閻魔大王の妻といわれる“奪衣婆(だつえば)”です。三途の川の渡し賃の六文銭を持たずに来てしまった死者たちから衣を剥ぎ取り、衣服を持たない者は身の皮を剝がされると恐れられています。山寺ではこの姥堂が地獄と極楽浄土を分かつ“浄土口”なのだそうです。

 

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 姥堂の道向かいには、慈覚大師さまが雨宿りをしたと伝えられる大きな“笠岩”が張り出しています。
 

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 雨のおかげで緑がよりいっそう鮮やかですクローバー

 

 がんばって上ります。

 

 上りはきついけれど、この石段のおかげで、わたしたちの足でも歩くことができるのはほんとうにありがたいです。

 

 ついつい足元ばかり見て歩きそうになるのですが、案内板に教えられて見上げると、左手頭上に荒々しく削られた断崖絶壁がそそり立っています。あれが“百丈岩(ひゃくじょういわ)”で、その上に山寺でもっとも有名な“開山堂”と“五大堂”があるようです。まだまだ遠い~~あせる

 

 ここは参道でもっとも狭い幅約14cmの“四寸道”。慈覚大師さまも歩かれたであろう足跡を踏んで歩くことから、“親子道”とも“子孫道”とも呼ばれているそうです。

 

 平安初期と伝わる“摩崖仏(まがいぶつ)”も。

 

 まだまだ上ります。

 

 視界の開けたところに建つ石碑(左)は“せみ塚”と呼ばれ、松尾芭蕉が『閑さや岩にしみ入る蝉の声』としたためた短冊をこの下に埋められたことに因むそうです。芭蕉翁が山寺を訪れたのは1689(元禄2)年7月だったそうで夏真っ盛り、この森閑とした山のなかに蝉の声が響いていたことでしょう。

 

 さらに急坂になった石段を上ります。

 

 せみ塚の先の直立の崖は“弥陀洞(みだほら)”で、長い年月雨風にさらされ岩肌が削られて、阿弥陀如来の姿を作り出したのだそうです。言われてみると、下部にたくさん彫り込まれた岩塔婆(いわとうば)の上に、阿弥陀如来が坐しておられるようにも見えてきます。

 

 ようやく中腹の“仁王門”が見えてきました~。絵はがきのような景色ですキラキラ

 

 仁王門は1848(嘉永元)年に再建されたものだそうで、総欅、素地造りの美しい門です。

 

 細かな格子越しなのでうまく撮れていませんが、内部に安置された力づよい仁王像。

 

 仁王門の背面左右には、地獄にて死者の審判を行う“十王(じゅうおう)”が座り、仁王門を通る人びとの過去の行いを事細かに記録しているのだそうです。

 

 仁王門をくぐりさらに石段を上ると、上に山内支院のひとつの“金乗院(こんじょういん)”の屋根が見えてきます。

 

 石段の途中右手の“観名院”。こちらも支院のひとつだったようですが、今では無住の堂宇になっています。

 

 崖の上に建つ観名院から振り返ると、山寺らしい風景が一望できます。

 

 ここから、今も残る支院が四つ続きます。こちらが“性相院(しょうぞういん)”。御本尊は阿弥陀如来像で、御本尊につながる御手綱を握って参拝します。

 

 性相院の御朱印二種。右は“大福徳”左は“多聞”です。御朱印をいただきながら、ご住職さまより懇々と写経のおすすめをいただきました。一日一文字でいいのですよ、と。

 

 参道に戻り、まっすぐに続く石段をさらに上ります。

 

 性相院の右手の崖は“釈迦ヶ峰”という修行の岩場で、案内板によると、出世や欲望のための修行者が岩場から転落死することも多かったのだそうです。

 

 ふたつめの支院の“金乗院(こんじょういん)”。御本尊は延命地蔵菩薩です。

 

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 上り坂のほんの少しの踊り場のところに“山頂売店”があります。飲み物やタオル、Tシャツなどいろいろなものが売られています。

 

 三つ目の支院は“中性院(ちゅうしょういん)”です。御本尊は阿弥陀如来坐像で、入口には小さなおびんずるさまもおられます。

 

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 その向かいの“最上義光(よしあき)公御霊屋(おたまや)”。現在の山形の基礎を築いた山形城第11代当主、最上義光公とその家臣たちのお位牌が納められているそうです。

 

 さてがんばって、最後の石段に挑みます。

 

 山寺に入ってちょうど1時間、最奥に位置する“奥之院”へようやくたどり着きました。

 

 手前には境内のうちでもひときわ目をひく大きな“金燈籠”。

 

 正面右手の“奥之院”。奥之院は“如法堂(にょほうどう)”とも呼ばれ、慈覚大師さまが中国で修業中に持ち歩いておられた釈迦如来像と多宝如来像を御本尊としているそうです。

 

 向かって左手のお堂は“大仏殿”で、中には光り輝く金色の大きな阿弥陀如来像が祀られています。

 

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 奥之院(左)と大仏殿(右)の御朱印。

 

 奥之院から少し下ったところを右手に入ると、その先に四つ目の支院“華蔵院(けぞういん)”があります。御本尊は観世音菩薩。

 

 そしてここには岩屋の中に、室町時代に作られたというとても小さな“三重小塔”が納められています。格子の内側の薄赤く見えるのがそれです。賽銭箱に刻まれた大日如来が御本尊のようです。

 

 下り道の景色。雲が多いですが、雨上がりでとても清々しい空気に包まれています。

 

 石畳の道を開山堂のほうに向かいます。途中にあるこの建物は、案内板によると1908(明治41)年、当時皇太子でいらした大正天皇が山寺に行啓されたときの御休憩所として建てられたものを、そのまま保存してあるそうです。眼下の眺めのよいところにあります。

 

 “開山堂”と“納経堂”が見えてきましたビックリマーク

 

 石段ではない平らな石畳の道がこのうえなくありがたいですラブラブ。スキップしたいくらいビックリマーク

 

 “開山堂(かいざんどう)”(右)は先ほど見上げてきた“百丈岩”の真上に建つお堂で、山寺を開山なされた慈覚大師さまの木造が祀られているそうです。そして左の朱色の小さなお堂が“納経堂”で、文字どおり写経を納めるところです。パンフレットによると、納経堂の真下に慈覚大師さまの眠る入定窟(にゅうじょうくつ)があるそうです。

 

 開山堂向かって右手の石段を上ります。

 

 岩場の上に建てられているのは・・・

 

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 舞台づくりの“五大堂(ごだいどう)”ビックリマーク。まるで宙に浮いているように見えます目

 

 中へ入らせていただきます。

 

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 “五大堂”は五大明王をお祀りし、天下泰平を祈る修行のための道場でしたが、今では山寺随一の景観を誇る大展望台になっています。

 

 崖にせり出した舞台の上から見る里山の風景。

 

 

 

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 天台宗における五大明王とは、不動明王(ふどうみょうおう)を中心に、降三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、烏枢沙摩(うすさま)明王をいい、大日如来の化身として衆生を救う仏さまです。背後の絶景を見るだけではなく、こちらにもこころを込めて参拝しなければなりません。

 

 開山堂まで下りてくると、ひとつずつ回ってきた山内支院が見渡せます。

 

 いま一度、この山寺の風景をしっかりと目に焼きつけてから下山します。

 

 仁王門まで下ってきました。

 

 あんなに苦労した上りに比べると、拍子抜けするくらいとんとん快適に下ります。でも、意外と膝にくる~爆  笑

 

 山門まで下りてきました。根本中堂(こんぽんちゅうどう)下の登山口から奥之院まで、石段は1,015段あるそうです。

 

 寺務所脇の休憩スペースでお茶を飲んでいたら、かわいい猫ちゃんが寄ってきてくれました。フワフワ長毛の人懐こい猫ちゃんです。

 

 もう一匹、こちらの白足袋のトラ猫ちゃんは行きがけにも会い、「帰りにまた寄るから待っててね。」と声をかけたらちゃんと待っていてくれました。寺務所の番頭さんのように椅子をひとつ与えられ、でんと座っています。

 

 山門前の茶店で名物“力こんにゃく”を求めてお腹も満たし、帰途につこうとしたところ、最後に“草木塔”と記された石碑を見つけました。添えられた哲学者梅原猛氏による解説を読むと、草木塔は一木一草のなかにも神性を見る日本人の思想から生まれたもので、特に山形県に多く存在するのだそうです。息を切らせながらの道行きも、山寺の緑豊かな自然に守られていたからこそ歩きとおせたのだと、改めて感謝の気持ちが湧いてくるのでした。

 

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