ひとつ前の記事『戸隠神社五社参拝①~戸隠古道の神道を歩く』のつづきです。

 

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 麓の宝光社(ほうこうしゃ)から神道(かんみち)を歩きながら、火之御子社(ひのみこしゃ)を経て中社(ちゅうしゃ)まで来ました。神道は中社の前でいったん終わり、中社の西参道入口駐車場を過ぎたところから、戸隠古道の“奥社道(おくしゃみち)”がはじまります。

 

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 奥社参道入口までの奥社道にはいくつか見どころがあります。これらは神道や奥社道を歩かなければ出会えないものなので、お天気にも恵まれこうして巡れることがことのほかありがたく感じられます。まず最初は“女人堂跡(にょにんどうあと)”です。戸隠神社は修行の地のため明治の初めまで女人禁制で、善光寺方面から来た女性はここにあった女人堂から遥拝するしかありませんでした。そして道は女人堂前で奥社へむかう“奥社道”(左)と越後道(右)に分岐し、今でも『右 えちごみち 左 於くいん』の道標が残っています。女性は左の道へ進むことは許されていなかったのですね。

 

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 女人堂跡を過ぎて車道を渡り、奥社道を歩いていくとすぐ右手に“比丘尼石(びくにいし)”があります。言い伝えによると、あるとき女人禁制の掟などものともせず、ひとりの比丘尼(尼僧)が奥社を目指し、奥社道をずんずん歩き始めたそうです。するとしばらく行ったところで比丘尼は突然ばたりと倒れ込み、みるみる体が硬直したかと思うとあっという間に石になってしまったというのです。1872(明治5)年の太政官布告により女人禁制が解かれたおかげで、わたしを含め女性たちは今こうして奥社道を歩けるようになったのですが、禁を犯してでも奥社を詣でたいと切望した比丘尼の思いが伝わってくる気がします。

 

 比丘尼石の近くには、まるで比丘尼を偲ぶかのように可憐なベニウツギ(紅空木)の花が咲いていました。

 

 比丘尼石から5分ほど歩くと“修験道別格寺公明院(こうめいいん)”という寺号標の建つお寺があらわれて、門前に立つとまるで吸い込まれるように足が向き、どうしても行かなければならない気がして、迷わず境内に足を踏み入れます。予備知識も何もなくても、こういう予感のするときに訪れるところは間違いなく行ってよかったと思うことが多いので、そこは自らの勘をいつも信じています。

 

 境内に入るとすぐに、その予感は正しかったと納得します。なにが・・・というわけではないのですが、この空間に身を置いているだけで、穏やかで優しい何かに包まれているような気が確かにするからです。どういう謂れのあるお寺さんなのかこのときは何も知りませんでしたが、旅先での微かなものではあってもやはり、ご縁というのはほんとうにありがたいものだと思います。

 

 境内の奥には“公明院”の扁額のかかる拝殿がひっそりとたたずんでいます。拝礼のあと外から拝殿内をのぞくと、天井にはここにも力づよい龍の絵が躍っていて、中社(ちゅうしゃ)の天井絵といい、これから行く九頭龍社(くずりゅうしゃ)といい、戸隠の地は龍にとても縁がふかいのを感じます。拝殿入口には庫裡に声をかけると天井画を見せていただけると貼り紙がありましたが、わざわざ開けていただくのも申し訳なく、外からそっと拝見しました。

 

 帰宅後調べると、公明院の正式名称は「宗教法人修験道別格寺 戸隠公明院」で、神仏習合のお寺であり、主祭神は天照大御神で、拝殿奥のこのご本殿に祀られているそうです。拝殿とご本殿が幣殿でつながれず独立した形なのも珍しいですね。一方ご本尊は延命地蔵菩薩で、ふたつ上の写真の五角形の地蔵堂に安置されているそうです。また公明院を開基なさった姫野公明師は“戸隠修験最後の尼僧”といわれ、数々の霊験を表わされたことでも、また政財界や皇族方とのつながりがあられたことなどでもかなり有名なお方だったようです。

 

 境内を散策していると、とても珍しい大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう=供養塔)がありました。正面に立つと蓮座の上部が仏教仕様なのですが、右側にはキリスト教の十字架が、

 

 正面向かって左側には神道の鳥居が浮き彫りになっています。案内板には“世界之英霊宝篋印塔”の文字があり、第二次世界大戦において命を落とした多くの英霊の御霊を国籍を問わずお鎮めするために建立されたもののようでした。裏側の印が何かわからなかったのですが、世界三大宗教だとするとイスラム教に関連のあるものかもしれないと思いました。

 

 宝篋印塔のそばには火焔を背負うたくさんの石仏群もあり、それぞれの石仏が発するオーラにはただならぬものを感じます。

 

 また注連縄のかかった木の根元には、“釈長明(しゃくちょうめい)火定之所(かじょうのしょ)”の石碑が建っています。“火定(かじょう)”とは生きながら身を焼き即身仏となることを意味しますが、調べてみると平安時代中期、釈長明という法華修行僧が25歳にして戸隠山にこもり、言葉を断ち横にもならず厳しい修行をつづけ、最期はこの地で生きながらにして身を焼き、兜率天(とそつてん=仏教における天界のひとつ)へと上られた場所なのだそうです。火定により衆生を救うという釈長明師の思いに手を合わせずにはいられない思いです。

 

 戸隠神社の奥社と九頭龍社を詣でる前に公明院と出会ったのも何かのご縁、よい気をたくさんいただいて、また歩き出す元気も湧いてきますラブラブ

 

 公明院から5分ほど行くと、“稚児(ちご)の塔”があります。案内板に書かれた逸話はこうです。「昔養子をもった夫婦があった。夫が留守の日、妻あてに手紙がきた。夫あやしみ、自分は字が読めないので養子に読み聞かすよう言った。養子は事情を察し内容を違えて読み夫婦の仲をまるく収めた。子は夭折した。里人はこの子の賢さをしのび供養塔を建立した。」稚児なので寺院に預けられた幼い(若い)修行僧だったかもしれず、養子ならばなおのこと、義父母の仲を壊さぬよう機転をきかせながらも、嘘を吐く己を恥じていたのではないかとそれもまた哀れに思えます。

 

 ふたたび木漏れ日の降る奥社道に戻ります。

 

 稚児の塔から約5分で視界が開け、戸隠山をのぞむ展望台に出ました。お茶を飲んでひと休み。ここまで来れば奥社参道入口までもうすぐです。

 

 県道36号線沿いの“戸隠神社奥社入口”です。中社からはじまった奥社道を歩いてここまで約1時間、わたしたちは寄り道が多いので時間がかかるのですが、歩くだけなら40分ほどで来れるかと思います。奥社近辺の駐車場は台数が多いのですがすべて有料なので、もしお時間に余裕があれば、中社の無料駐車場に車を停めて、ここまで歩くのもいいかもしれません。ただ、ここから先は奥社・九頭龍社まで歩いて行くほかはないので、それプラス中社までの往復時間も勘定に入れなければなりませんが・・・。

 

 “戸隠神社”の社号標の建つ奥社への入口。ここから奥社の参道へ入り、奥社と九頭龍社を目指します。

 

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