今年(2022)は3年ぶりの行動制限のないゴールデンウィークだそうで、テレビに映る全国の行楽地や空港、高速道路などの様子は、少しずつコロナ以前に近づいているようにも見えます。我が家はふだんとあまり変わらない“小型連休”なのでゴロゴロ家居がほとんどなのですが、晴れ渡った空晴れを見てちょっと外へ出たくなりました。

 

 やって来たのは“さきたま古墳公園”(埼玉県行田市)です。このすぐ近くには行田(ぎょうだ)市の市花にもなっている“古代蓮(こだいはす)の里”があり、開花期にはよくその蓮の花を見に来るので古墳公園の存在は知っていたのですが、なにしろ蓮は真夏の花、午前中に蓮を堪能したあと、午後炎天下晴れの古墳公園を歩き回る元気がなくていつも素通りしていたので、じつは園内に入るのは今回が初めてなのです。

 

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 『目に青葉・・・』といいますが、初夏の緑はほんとうに色鮮やかで美しく、青空のもと胸いっぱいに深呼吸をするととても気もちがいいですラブラブ

 

 駐車場に車を停めて歩きはじめると、早速遠方に緑に覆われた古墳のような丘が見えてきました。案内板によると、このさきたま古墳公園には、5世紀後半から7世紀初めにかけて造られた大型古墳が9基も群集しているのだそうです。

 

 そのまま歩いていると気づかず通り過ぎてしまいそうですが、奥の“丸墓山(まるはかやま)古墳”に至るこの桜並木の道は“石田堤(いしだづつみ)”と呼ばれているそうで、そばに由来の案内板が立っています。    

 

 石田堤(右手)を横から撮ってみると、樹々と草で見づらいのですが道は周囲より少し高くなっていて、堤であることがわかります。ここは1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原征伐の折に秀吉の命を受けた石田三成が、小田原方の成田氏の居城だった忍城(おしじょう)を水攻めにするため、周囲約28kmにわたって築いた堤の跡なのだそうです。

 

 石田堤の木立の先には、名前のとおりお椀を伏せたような形の“丸墓山(まるはかやま)古墳”があります。古墳というと前方後円墳が多いなかで直径が105mもある大きな円墳はとても珍しく、国内でも最大級を誇るそうです。墳丘を上る階段が見えますね。

 

 約100段の階段を上ってみると丸墓山古墳の頂上は広場になっていて、さきたま古墳群のなかでは高さ17mと最も標高が高いので、ぐるりと周囲の景色を見渡すことができます。

 

 その眺望のよさから石田三成は忍城水攻めのとき、ここ丸墓山古墳の頂上に陣を張ったといわれており、忍城はいずこはてなマークと探すと北西の方向に、再建された忍城の御三階櫓(ごさんかいやぐら)が小さく確認できました。えっ、どこ、どこ目

 

 ココ~~爆  笑。わたしのiPhoneではこれが限界です・・・あせる見えますかはてなマークはてなマークはてなマーク

 

 野村萬斎さん主演の映画『のぼうの城』は石田三成の忍城水攻めの実話をもとにしたストーリーですが、ここから見下ろすと、たしかに周囲は沼地や小川、堀の多い低地になっています。わずか3千の武士や農民たちが城内に立て籠もり、秀吉の2万の軍勢にも屈せず落城しなかったことから、“忍(おし)の浮き城”の呼び名がついたというのがよくわかる景色です。

 

 上ってきたのとは反対側の階段を下りて、つぎの“稲荷山古墳”に向かいます。

 

 稲荷山古墳は全長約120mの大きな前方後円墳で、今は青々とした草に覆われていますが案内板によると、古墳の周囲には長方形の内堀と外堀が二重に巡らせてあるそうです。

 

 なだらかな階段を上ります。

 

 高さ約12mの墳頂部はきれいに整備され、“礫槨(れきかく)”という埋葬施設のレプリカが陶板により再現されています。

 

 礫(れき)とは小石のことで、礫槨(れきかく)は木棺を安置するときに、棺の下方や側面に礫を敷き詰めたものをいうそうです。またこの稲荷山古墳は盗掘の被害を免れて、1968(昭和43)年の発掘調査時に“金錯銘(きんさくめい)鉄剣”や勾玉、鏡など多くの副葬品が出土したそうで、それらは一括してすべて国宝に指定され、おなじ園内にある“埼玉県立さきたま史跡の博物館”で実物を見ることができます。

 

 稲荷山古墳の後円部から前方部に向かう緩やかなスロープはスキー場のゲレンデのような雰囲気です。

 

 稲荷山古墳から、左手に“将軍山古墳”が見えます。

 

 同じく前方後円墳の将軍山古墳は近くまで行ってみても最初のふたつのように墳丘に上るところがなくて、堀の外から眺めるだけなんだ・・・と残念に思っていたら、

 

 なんと古墳の一番細いくびれ部分のところに入口があり、内部に入って見学できる“将軍山古墳展示館”が設置されていました。入館料はおとなひとり200円で、こちらの展示館と、古墳群の出土品が一堂に集められた“さきたま史跡の博物館”との共通券なので、両方見られてとてもお得です。

 

 展示館に入ってすぐのこの壁は、案内板によると墳丘の断面を剥ぎ取ってパネルにしたもので、褐色の土、暗褐色の関東ローム層、橙色の関東ローム層が交互に重ねられているのがわかるそうです。また手前に置かれた石は将軍山古墳の石室に用いられている“房州石(ぼうしゅういし)”で、120kmも離れた千葉県富津(ふっつ)市の海岸から川づたいに運ばれてきたらしく、千葉県と埼玉県は古墳時代から交流があったことがうかがえます。

 

 階段を上って二階へ行くと、ガラス越しですが復元された横穴式石室を見ることができます。実際は遺体は木棺に入れられていたようですが、その周りには太刀や鉾、鎧(よろい)などの武具、須恵器(すえき)の高坏(たかつき)や銅椀(どうわん)などのほか、鞍(くら)や轡(くつわ)などの馬具まで整然と並べられ、当時の埋葬の様子を古墳のなかに入って見られるのがとてもいいです。副葬品のなかでも、博物館で見た鉄製の“馬冑(ばちゅう=馬の頭部を守るかぶと)”はとびぬけてかっこよかったですキラキラ

 

 さきたま古墳群のほぼ中央に位置するこちらの“二子山古墳”は、武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)のなかでも最大の規模を誇る前方後円墳だそうです。墳丘の周囲をぐるりと歩きながら、大型古墳はやはり、できることならドローンの映像などでもいいので空から俯瞰して見たいと思います。同じ平面に立っていると、大きさは感じられるのですがどうしてもただの小山か丘にしか見えなくて、それがとてももったいない気がします。

 

 最も大きい二子山古墳の近くにあるのでよけいに小さく見えるのがこの“愛宕山古墳”で、事実さきたま古墳群のなかで最小規模の前方後円墳なのだそうです。周囲にはお寺さんや民家もあり、古墳が日常のなかに自然に溶け込んでいるのですね。

 

 晴天で汗ばむほどの陽気のせいか冷たい蕎麦が食べたくなり、昼食は古墳公園から車で10分ほどのところにある“行田(ぎょうだ)がんこそば”へ行きました。何も知らずに行ったのですが蕎麦通には有名なお店なのか、到着したときすでに店内は満席で、外に3組待っておられ、列に並んでいると店の御主人が現れて、早々にわたしたちの後3組で本日の蕎麦は売り切れと告げられました。営業時間は一応午前11時30分~午後2時らしいのですが蕎麦がなくなり次第終了とのことで、この日はじつに開店後1時間も経たずに閉店でした!!

 

 外観も店内も蕎麦屋さんとは思えないような山小屋ふうの建物で、入口で靴を脱いで上がります。

 

 店名の“がんこ”は御主人のことではなく蕎麦へのこだわりのようで、福島会津産の蕎麦の実を石臼で自家製粉しているのだそうです。いただいたのは十割蕎麦に焼きおにぎり、かき揚げ、おしんこ、煮物、二色の蕎麦団子がついた“がんこセット”(1,200円)。コシのある中細麺に濃いめのつゆがよく合い、とても美味しかったですニコニコ

 

 昼食をとり足も休めて元気が出たので古墳公園に戻り、県道77号線をはさんで反対側にある“埼玉県立さきたま史跡の博物館”へ行ってみます。

 

 博物館の展示室は条件付きで写真撮影OKとなっているのですが、やはり国宝級の展示物にカメラを向けるのは躊躇われ、ロビーの航空写真のみ撮らせていただきました。こうして見ると、限られた範囲にこれだけたくさんの古墳が密集して造られたのにはやはり何かわけがありそうだし、かなり裕福で力のある豪族が住んでいたらしい・・・と想像するのも楽しいですラブラブ。館内は“国宝展示室”と“企画展示室”に分かれており、“国宝展示室”の出土品の数々は、どれもとても見応えがあります。

 

 博物館の向かい側には埼玉県幸手(さって)市より移築された江戸時代末期の民家(旧遠藤家住宅)があり、一般公開されています。間取り図を見ると建坪が67坪もある大きな農家のようで、座敷には上がれませんが、陽当たりのよい縁側は休憩スペースになっているので、腰掛けてひと休みさせてもらいます。

 

 遊歩道のそばには“埼玉県名発祥之碑”があり、添えられた説明書きを読むと、“埼玉”が県の名称とされたのは、当初の県の管理区域の中で、最も広いのが埼玉郡であったことによる”と記されています。また、ここ行田市埼玉(さきたま)の地に碑が建てられたのは、“巨大古墳群の所在地であり、「前玉(さきたま)神社」の鎮座する場所でもあるところから、おそらく埼玉郡の中心地だったと考えられる”(碑文より抜粋)からなのだそうです。埼玉県民なのに、はじめて知りました~あせる

 

 古墳公園から歩いてすぐのところに、その“前玉(さきたま)神社”がありました。緑に覆われた古墳の景色は美しいのですが少し単調なので、こうして神社の鳥居と社号標に会うだけで嬉しくて、うきうき音譜します。

 

 参道を抜けるとすぐに二の鳥居。

 

 コロナ禍の今は手水舎が使えないからでしょうか、水盤には色とりどりの花々が浮かべられ、花手水(はなちょうず)になっています。花はもちろん美しいのですが、それにも増して手水舎上部の彫刻が素晴らしく、ほれぼれしますラブラブラブ

 

 すぐに見える三の鳥居。左手の境内では何かイベントの準備がすすめられていて、奥に古そうな神楽殿があり見たかったのですが、その前に各種機材が積み上げられ写真を撮ることもできませんでした。次の機会にはぜひ・・・。

 

 三の鳥居をくぐって石段を上るとすぐ右手に境内社の“浅間神社”があり、幟(のぼり)にある木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が祀られています。花のように美しく、安産・子育ての神さまでもあります。

 

 参道をすすむと小さな社がふたつ並び、向かって右手が“恵比寿大黒天社”、左手が菅原道真を祀る“天神社”です。

 

 周囲の平坦な土地からは想像できないようなかなり急な石段の上に社殿が見えますが、地図を見ると、前玉神社は浅間塚古墳の上に建てられているそうで、なるほどこの高低差に納得です。

 

 前玉神社の拝殿。御祭神は前玉比売神(さきたまひめのかみ)と前玉日子神(さきたまひこのかみ)の二柱で、女神と男神がともに祀られていることから縁結びや夫婦円満の御利益があるそうです。前玉はそのむかし“幸魂”とも表記されていたそうで、幸せをもたらす魂なんて埼玉の語源も悪くないじゃんビックリマークと急に愛着が湧いてきます爆  笑

 

 手水舎の装飾の期待を裏切らない、この素晴らしい拝殿の彫刻ビックリマーク

 

 御簾(みす)の奥が本殿です。素木の古色蒼然としたつくりがいいですね。

 

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 外側から見ると、本殿は覆殿(おおいどの)で守られているのがわかります。

 

 参拝を終え石段を下りてくると、三の鳥居の脇にもうひとつ参道があり、杜の奥の広場に“明治神社”の扁額のかかる社がありました。詳細はわかりませんが、手を合わせていると、前玉神社とはまた違う気の集まるスポットのように感じられます。

 

 社務所で御朱印を待つあいだふと見ると、『七福招く猫みくじ』なるものを発見目。前玉神社と猫って何か関係があるのですかはてなマークと尋ねると、境内には写真の猫ちゃんたち四匹が常駐!?していて、猫好きのあいだではかなり有名でSNSにもたびたび登場しているのだそうです。ちょうどみな猫パトロールに出払っているのかな~と残念に思っていたら、

 

 たまたま足元を通り過ぎてくれたトラキジのきなこちゃんおねがい飛び出すハート 会えてよかった~ラブラブ

 

 
 一の鳥居を出たところに『かなざわ』という和菓子屋さんがあり、吸い込まれるように入ります。古墳最中や柏餅などいろいろ並んでいるのですが、ここはやはり猫つながりで“ねこもなか”でしょ~爆  笑スターってことで、今夜のおやつはこれで決まりっ!!
 
 ふだんほとんど意識することのないわがまち“埼玉”を、改めて見直した春の一日でした。
 
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