雲ひとつなく晴れ上がった青空のもと、都立小金井(こがねい)公園(東京都小金井市)のなかにある“江戸東京たてもの園”を訪れました。

 こちらは玉川上水と並行する五日市(いつかいち)街道に面した都立小金井公園の正面入口。ほかに西口、東口、小平(こだいら)口からも入れます。

 

 小金井公園は都立公園なので、もちろん公園内の散策は自由です。ウォーキングをするひとや芝生広場でくつろぐファミリー、近所の幼稚園児もたくさん遊びに来ているし、ひとり用のテントを張っているひともいました。楽しそう音譜

 

 公園の正面入口から見ると左手奥の小金井カントリークラブに隣接する一画に“江戸東京たてもの園”のエリアがあります。江戸東京たてもの園は、東京都江戸東京博物館(墨田区横網)の分館として1993(平成5)年に開設された屋外型の展示施設で、パンフレットによると、江戸時代から昭和初期まで実際に使われていた建物のうち、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、次世代に継承することを目的としているそうです。

 

 江戸東京たてもの園の正面入口前に立つと、まずこの宮殿のような立派な建物に圧倒されます。今は改修されてビジターセンターになっていますが、こちらは1940(昭和15)年、皇居前広場で行われた神武天皇御即位紀元2600年の記念式典のために建てられた式殿で、式典終了の翌年に小金井公園に移築され、光華殿(こうかでん)と命名されたものだそうです。

 

 そのビジターセンター(旧光華殿)前の両脇に控える大きな木ビックリマークまあるくきれいに刈り揃えられた様子がみごとです目。小金井公園は無料で入れますが、江戸東京たてもの園の入園料は大人ひとり400円で、コロナ禍の今はインターネットによる事前予約でのみ入場できるシステムなので、見学希望の方はホームページを確認されることをおすすめします。

https://www.tatemonoen.jp/左矢印江戸東京たてもの園ホームページ

 

 ビジターセンターには受付、インフォメーションのほか、江戸東京たてもの園が開園する前にここにあった“武蔵野郷土館”所蔵の各種資料の展示室、ミュージアムショップ、カフェなどがあり、そこを通って屋外へ出るようになっています。ひろい園内は図のように“西ゾーン(ブルー)”、“センターゾーン(オレンジ色)”、“東ゾーン(ピンク色)”にわけられているので、パンフレットを見ながら西ゾーンから東ゾーン方向へ向かうことにします。

 

 ビジターセンターを出てエントランス広場から西ゾーンの“山の手通り”を眺めます。

 

 こちらは西ゾーン[W1]の“常盤台(ときわだい)写真場”。園内の建物のほとんどは内部へ入って見学できるのですが、改修工事中のため外観しか見られない建物が三つあって、まず一番最初のこの写真館がそうでした。残念~笑い泣きあせる

 

 案内板によると、1937(昭和12)年ころ健康住宅地として開発された板橋区常盤台にあった写真館で、照明の設備が不完全だった当時、安定した照度を得られるよう、2階スタジオの大きな窓には採光のための摺り硝子がはめ込まれているのだそうです。

 

 写真館の横には[番外編]のボンネットバス。レトロ感、満載ですラブラブ

 

 [W2]は“三井八郎右衞門(はちろうえもん)邸”。その苗字からもわかるとおり、三井財閥の総領家、三井八郎右衞門高公(たかきみ)氏が第二次世界大戦後にお住まいになっていた港区西麻布のご本邸だそうです。門構えからして風格があります。

 

 どう見ても継ぎ目のない大きな一枚の石でできているくぐり門を通って庭に出ます。

 

 案内板によるとこの本邸の主屋は、日本の各地にあった三井家に関連する施設から部材を取り寄せて1952(昭和27)年に建てられたものだそうで、往時の財閥家の格式や裕福なご様子が伝わってくるようなお邸です。

 

 一階のこの食堂と襖を隔てた応接間は、1897(明治30)年ころに建てられた京都油小路(あぶらこうじ)にあった三井邸の奥書院の一部を移築したものだそうです。今見ても豪華な襖絵など、贅を尽くしたつくりになっています。

 

 家庭のキッチンというよりも、まるでレストランの厨房のように設備の整ったお台所。白で統一されたインテリアもとても清潔感があります。ここでどんなおもてなし料理が作られたのでしょうか飛び出すハート

 

 財閥家のお邸から一転して[W3]は、旧武蔵野郷土館の所蔵品だった“奄美の高倉(たかくら)”。これは屋根の部分に穀物などを保管する高床式の倉庫で、梯子をかけて穀倉へ上るつくりになっています。湿気や小動物から穀物を守る生活の知恵ですね。

 

 ここから三軒農家がつづきます。[W4]は江戸時代後期、野崎村(現在の三鷹市野崎)にあった“吉野(よしの)家”。農家とはいえ、式台つきの玄関を持つとても大きな家です。

 

 土間もお勝手もひろびろとしています。

 

 奥座敷は付け書院のある格式の高いつくりになっていて、農家と呼ぶにはもったいないほどのお宅です。

 

 つぎは[W5]“八王子千人同心組頭の家”。案内板によると千人同心(せんにんどうしん)とは、江戸時代、八王子で隣国甲斐との国境を警備するために配備された徳川家家臣の武士団で、千人ほどの規模だったことからそう呼ばれていたそうです。

 

 武士団といっても平時は農業を生業とする半農半士の暮らしだったそうですが、千人をまとめる組頭ともなると、立派な家にお住まいだったのですね。

 

 いかにも農家らしく軒先で干し大根が揺れているのは[W8]の“綱島(つなしま)家”。江戸時代中期に多摩川をのぞむ台地(世田谷区岡本)にあった民家だそうで、茅葺屋根がとても美しいです。

 

 見上げると天井がなく、屋根の構造をそのまま見ることができました。

 

 西ゾーンの農家のエリアを抜けると、つぎは山の手通りに面した洋風のお邸がつづきます。こちらは[W10]の“デ・ラランデ邸”。もとは平屋だったものを、1910(明治10)年ころ、ドイツ人の建築家ゲオルグ・デ・ラランデ氏がこのような明るくかわいらしい3階建ての洋館に増築されたもので、1999(平成11)年まで新宿区信濃町にあったそうです。

 

 デ・ラランデ邸には園内のカフェ『武蔵野茶房』が併設されていて、邸内や庭のテラス席でお茶や食事(※2021年12月現在、コロナ感染予防のため限定メニューになっています)が楽しめるようになっています。邸内の写真を撮りたかったのですが、多くのお客さんが食事やお茶をしながらくつろいでおられ、カメラを向けることは叶いませんでした。

 

 そのお隣の[W9]“小出(こいで)邸”。案内板を見てもパンフレットを読んでも、施主の小出収(おさむ)氏がどのような方なのか説明がないのですが、こちらのお邸は1925(大正14)年、文京区西片に建てられて以降1996(平成11)年まで、代々ご家族によって大切に住みつづけられていたものだそうです。

 

 わたしの写真の撮り方が悪く、外から見てとても目をひく屋根の形が写っていなかったので、パンフレットよりこちらの写真をお借りしました。今でいう和モダンな雰囲気がとても素敵ですラブラブ

 

 玄関を入ってすぐ左手の応接間。こちらの小出邸はパンフレットによると、日本のモダニズム運動を主導した建築家堀口捨己(すてみ)氏の事実上のデビュー作でもあるそうです。

 

 和室の土壁やガラス戸の様子が、むかし住んでいた実家ととてもよく似ているのが懐かしくて、つい何枚も写真を撮ってしまいました。

 

 まるでログハウスのようなウッディな温かみと切妻屋根、格子状の窓が印象的な“前川國男(くにお)邸”[W6]。東京文化会館、東京都美術館など数多くの公共建築を手がけられた著名な建築家の前川國男氏が、1942(昭和17)年に自邸として品川区上大崎に建てられたお邸だそうです。木々の紅葉にもとてもよくマッチした外観です。

 

 吹き抜けのあるひろい居間を真ん中に、その両脇に書斎と寝室を配しただけのシンプルな間取りはとても機能的で、今回見た邸宅のなかで、今わたしが一番住んでみたいと思うお邸がこちらでした。燦燦と陽のふりそそぐリビングルームの気持ちのいいことといったらビックリマーク

 

 書斎のクローゼットにはつくり付けの棚があり、これならわたしにも整理整頓ができそうビックリマークと思います(笑)。シンプル・イズ・ベストのお手本のような住まいですねラブラブ

 

 洋風平屋建てのレモンイエローのお宅には“田園調布の家(大川邸)”[W7]の案内板が立っています。大田区田園調布といえば今や超のつく高級住宅地ですが、案内板によると、田園調布は渋澤栄一氏によって設立された田園調布株式会社が開発した郊外住宅地のひとつなのだそうです。

 

 1925(大正14)年にその田園調布に建てられた大川邸は、このリビングルームを中心に食堂、寝室、書斎が配置された家族型の間取りなのだそうです。ほかのお邸は畳敷きの和室に絨毯を敷いて洋風にしてあるところが多いのですが、大川邸は当時としては珍しく全室洋室で、部屋ごとに違うその床の意匠もまた見どころのひとつでした。

 

 山の手通りの洋風のお邸を過ぎ、ここからセンターゾーンに入ります。まず最初は“旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)”[C2]。案内板によると、尾張藩二代藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(おふりのかた・三代将軍徳川家光の側室)を供養するため、新宿区市ヶ谷の自証院内に建立した霊廟だそうです。豪華絢爛な装飾がとてもきれいです。

 

 山の手通りから来ると、センターゾーンは武蔵野の面影をのこす緑深い木立に囲まれて、とても気持ちのよい空間です。

 

 その木立のなかにひときわ大きな日本家屋が見えてきました。“高橋是清(これきよ)邸”[C3]です。高橋是清氏はいうまでもなく、明治から昭和のはじめにかけて国政を担った政治家であり、第20代内閣総理大臣ほか数度にわたり大蔵大臣等を歴任された財政家でもありました。

 

 このお邸は1902(昭和11)年、港区赤坂に建てられた高橋是清氏の住まいの主屋部分だそうで、玄関を入るとすぐにお座敷がいくつもあり、その広さにまず圧倒されます。

 

 コロナ禍の今は、階段の上り下り時に見学者同士が接触しないよう、ほかのお邸はすべて一階部分しか見学できなくなっているのですが、こちらの高橋是清邸だけは階段がふたつあり、それぞれ上りと下りの専用にできるということで、唯一二階へ上がることを許されていました。嬉しい~音譜

 

 高橋是清氏はこの二階の庭に面した座敷を書斎として使っておられたそうで、床の間にはお孫さんと一緒に撮られた柔和な笑顔の写真が飾られていました。

 

 是清氏は6度目の大蔵大臣を務めていたとき、軍事予算を抑制しようとして軍部の恨みを買い、1936(昭和11)年2月26日、反乱軍の陸軍青年将校らに暗殺されますが(二・二六事件)、その現場となったのが赤坂のご自宅のこの二階だったそうです。誰もが知る日本の歴史の舞台となった場所だと思うと、胸が震えます。

 

 高橋是清邸と庭つづきの場所にあるのが[C4]の“西川家別邸”です。江戸時代から盛んに行われていた多摩地域の養蚕業が大正から昭和初期にかけて最盛期を迎え、当時北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家の西川伊左衛門(いざえもん)氏が、東京都昭島市に隠居所兼接客用として1922(大正11)年に建てた邸宅だそうです。

 

 玄関を入るとすぐに六畳のこの“玄関の間”があり、その右に応接間と家族の居間が、左にふたつの客間が並ぶ横長に配置された和風邸宅です。

 

 ぐるりに広縁が設けられたお邸は明るく開放的で、ふたつある客間も仕切りの襖を取り払うと大広間として使えそうです。

 

 西川家別邸は、隣の高橋是清邸の土蔵があった位置に移築されているそうで、並んだ両家の前には港区赤坂の高橋是清邸の庭園の一部が復元されていました。

 

 組井筒(くみいづつ)を水源にした水の流れや、雪見燈籠の配された風雅な庭園から見る高橋是清邸。

 

 西川家別邸にぴったりと隣接するところに、“会水庵(かいすいあん)”と書かれた離れがありました。上の写真では生垣を入った左手の建物がそれです。

 

 敷地内に入るとすぐに、躙(にじ)り口と飛び石の向こう側に待合が見えて、予想どおりお茶室のようです。

 

 案内板によると、会水庵は宗徧(そうへん)流の茶人山岸宗住(そうじゅう)が大正時代に建てた茶室で、1957(昭和32)年に劇作家の宇野信夫氏が買い取り、杉並区西荻窪に移築したものだそうです。室内は本畳三畳と台目(だいめ)畳一畳からなる三畳台目のお茶室です。

 

 会水庵の庭からは、瓦葺の壮大な門の一部が見えます目

 

 行ってみると、“伊達(だて)家の門”[C5]という案内板が立っています。伊達家といえば仙台藩主伊達政宗がすぐに思い浮かびますが、こちらの伊達家は政宗の子秀宗(ひでむね)を祖とする宇和島藩(愛媛県西部)の伊達家で、明治以降華族に列せられ、東京に移住するにあたり港区白金に新たに建てた邸の表門なのだそうです。

 

 総欅造りの門はもちろんのこと、すぐ脇に設けられた番所までが瓦屋根の堂々たるもので、その拵えの見事さからはやはり、大名屋敷の面影が偲ばれます。

 

 伊達家の門を過ぎると、お濠を模したような小さな川があり、そのたもとに“皇居正門石橋飾電燈(しょくでんとう)”[番外編]が建っています。案内板によると、皇居前広場から皇居へ向かって左手前に見える石橋に設置されていた6基の飾電燈のうちのひとつだそうです。確かに皇居の二重橋にも、同じような飾電燈が載っていますねビックリマーク

 

 お濠を渡ったところから東ゾーンに入り、まず最初がこのクラシカルな“万世橋(まんせいばし)交番”[E8]です。パンフレットによると、千代田区神田須田町の万世橋のたもとにあった交番を、トレーラーでそっくり運んできたのだそうですビックリマークすごいビックリマーク明治時代に建てられた煉瓦造りの建物なので、解体して運搬することは不可能だったのですね。

 

 ぱっと見遊園地の遊具のようにも見えるこちらは“上野消防署(旧下谷消防署)の望楼上部”[番外編]。望楼とは火見櫓(ひのみやぐら)のことで、たしかに半鐘(はんしょう)も見えますね。これは1925(大正14)年に台東区東上野に建てられた望楼の上部のみで、実際の高さは約23.6mあり、1970(昭和45)年まで使用されていたものだそうです。

 

 “東の広場”をすすんでいくと、“都電7500形7514号”[番外編]の黄色い車体が見えてきます。昭和30年代~40年代にかけて渋谷~新橋間を走っていた電車だそうで、停留所も併せて復元されています。コロナ以前は電車の中に入ることもできたそうですよ。

 

 そして都電の停留所から振り返ると、目の前には昭和レトロな街並みがひろがっていますラブラブ。早速その風景のなかに入っていきたいのですが、ちょっと歩き疲れたところでもあるし、まずはお昼をいただいてから、ゆっくり散策することにします。

 

 園内東ゾーンの真ん中あたりに“うどん”の暖簾が揺れているので行ってみると、ここは店蔵(みせぐら)型の休憩棟で、

 

 1階は無料の休憩スペースになっていて、2階に『たべもの処 蔵』があるようです。

 

 名物の手打ちうどんもとても美味しく、食後にいただいたひと口笹大福のやさしい甘さに疲れも吹き飛ぶ思いです。元気回復ビックリマークさて、これから東ゾーンを歩きます。

 

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