衆議院総選挙が終われば本格的にGoToキャンペーンが再開されるかもしれず、そうなると観光地はまた混雑するかもしれないので、その前に、わたしたちにとっては懐かしい思い出の地、木曽路を訪ねることにしました。

 中山道六十九次のお江戸日本橋から第四十三番目の宿場町、馬籠(まごめ)宿の家並みと石畳の坂道。35年ぶりに、またふたりでここへ戻ってくることができました。

 

 午前7時に家を出て圏央道八王子ジャンクションから中央道に入り、馬籠を目指します。下り線八ヶ岳PAからの眺め~音譜。空気が澄んで、とても気持ちのよい秋晴れの朝です。

 

 同じく中央道下り線の諏訪湖SA。ここも必ず降りて休憩をしたくなるところですラブラブ

 

 中央道中津川ICから国道19号線を経由して、休憩しながらゆっくり走ってちょうどお昼に馬籠宿到着。県道7号線沿いに立つ新旧の道標には、「江戸へ八十里半、京へ五十二里半」と記されています。日本では一里は約3.9kmなので、馬籠から江戸へはおよそ314km、京都へは205kmくらいでしょうか。

 

 県道をはさんで道標の向かい側が馬籠宿の下入口で、この先は車両通行止めとなり、“車屋坂”という上り坂のつづく宿場町の通りに入ります。わたしたちは今夜お世話になる宿の駐車場に停めましたが、道標のすぐ横には広い無料の駐車場(一部有料)があります。

 

 上の写真の突き当たりから、細い車屋坂は二度直角に近く曲げられていて、石畳の標識にもあるとおり、ここは敵の侵入を遅らせるための軍事的な要塞ともいえる“桝形(ますがた)”になっています。今は右側の坂を上るようになっていますが、おそらく左側に見えるさらに細い階段状の道が本来の道だと思います。地形を活かし、急な坂道につくられた桝形はとても珍しいです。

 

 さらに上って、常夜燈の左手に大きな水車が見えてきました。

 

 “車屋坂”の名の由来にもなったといわれるこの水車小屋の中には、総務省の後援を受けて小水力発電設備が設置され、ここで発電された電気はライトアップや常夜燈の電気などに使われているそうです。坂道の脇の水路を流れるゆたかな水は、今もむかしもひとびとの暮らしを支えているのですね。

 

 振り返って見る下り坂の景色もまた格別ですラブラブ

 

 代々馬籠宿の役人を務めていた清水屋原家の建物が資料館になっていて、親交の深かった藤村ゆかりの品々や、当時の文化や暮らしを伝える各種資料等が展示されています。

 

 ちょうどお腹もすいたところで、食事処“ますや”さんのホカホカ蒸したての栗こわめし(上)と鶏わっぱめし(下)をいただいて腹ごしらえニコニコ。ほかにも信州そばと名物五平餅のセットなどがありました。手づくりの素朴な味わいが五臓六腑に沁みわたります。

 

 食事をしているとリュックサックを背負った背の高い外国人のお客さんが4人見えて、長いおみ足を折り曲げながら窮屈そうに囲炉裏端に座り、江戸時代にタイムスリップしたような趣の店内を珍しそうにながめておられました。

 

 さて再び馬籠宿散策に戻ります。

 

 1kmに満たないほどの馬籠宿の通りのちょうど中ほどに、文豪島崎藤村の生家である中山道馬籠宿旧本陣跡に建てられた“藤村記念館”があります。藤村(本名:春樹)は馬籠宿の本陣および庄屋を務めた旧家、島崎家の四男です。

 

 真っ黒い冠木門(かぶきもん)をくぐると正面の築地塀には、窓のようにも見える赤錆色の扁額がかかっています。 近づいてみると、「血につながるふるさと 心につながるふるさと 言葉につながるふるさと」と刻まれていました。

 

 築地塀の裏側は砂利を敷き詰めたひろい庭で、見学者はチケット売場からそのまま右手の藤村記念堂へ入るようになっています。

 

 珍しい回廊型の展示室入口。土壁に渡した木板にはびっしりと年譜が刻まれています。わたしの目の錯覚でなければ、これは書かれたものではなく、木板に直接彫られているように見えました。細かい~目。そして土壁の下半分が抜けているのでくぐってみると、

 

 その外は、防火用水用の池になっていました。

 

 回廊から見るこの庭は庭園ではなく、本陣だったときの礎石を遺して往時を偲ぶように考えられているそうで、あとで知ったのですが、この藤村記念堂は東宮御所やホテルオークラなどを手がけられた有名な建築家、谷口吉郎氏の設計によるものだそうです。

 

 回廊の突き当たりには藤村座像と、左の壁には「木曽路はすべて山の中である。」ではじまる『夜明け前』の添削原稿が掲げられています。

 

 回廊を抜けると、本陣の母屋は1895(明治28)年の大火で焼失したそうですが、唯一焼け残った藤村の祖父母の隠居所があります。案内板によると、陽当たりのよい二階の部屋は幼少期の藤村の勉強部屋にもなっていたそうです。あの縁側にもたれて本を読んだら、さぞや気持ちがいいだろうなぁ~照れ

 

 この井戸も焼失を免れて、当時の面影を伝えています。

 

 藤村記念館の第二文庫。こちらは企画展示室で、このときは「あのころの馬籠」という写真展と、藤村のお孫さんの作品展が開催されていました。

 

 さらに石段を下りたところには常設展示の第三文庫があり、藤村の処女詩集『若菜集』から絶筆『東方の門』までの各種原稿や愛用の品々、そして最期の日々を過ごした神奈川県大磯町のご自宅の書斎を移築して再現してあります。開架式の第二文庫と第三文庫の館内は、ともにすべて撮影禁止です。

 

 庭に置かれたベンチに腰かけて見る全景。

 

 チケット売場で、未完のためここでしか販売されていないという『東方の門』(全116ページ)を求めました。展示室で見てきた最後の一行「和尚が耳にした狭い範囲だけでも、」のあとにつづく文章も、きっと藤村の頭の中では出来上がっていたのだろうな・・・と思うと、その余白に印刷された“昭和十八年八月二一日午前九時擱筆(かくひつ)(※筆を置くこと)”の文字がよけいに胸に刺さります。

 

 藤村記念館を出て、さらにつづく坂道を上ります。

 

 馬籠脇本陣資料館の入口に植えられた“木曽五木(きそごぼく)”。江戸時代、尾張藩は木曽の人びとが檜(ひのき)、椹(さわら)、高野槇(こうやまき)、翌檜(あすなろ)、鼠子(ねずこ)の五種の木を伐ることを固く禁じ、破れば死罪となったことから、“木一本首一つ、枝を落とせば腕を斬る”と恐れられたのだそうです。

 

 馬籠宿、上の入口に向けて上りがつづきます。

 

 石畳の道が県道とぶつかった先に高札場(こうさつば)が見えてきました。

 

 高札は宿場の出入り口付近に設置され、幕府や藩が定めた法をひろく周知するための掲示板の役目をするものですが、伝達方法が限られていた時代、右下のお触れのように風雨にさらされて字が薄れ、見にくくなった場合でも、勝手に加筆修正したりすることのないよう厳重に管理されていたのだそうです。

 

 高札場の裏手はひろい展望台になっていて、正面に標高2,192mの恵那山が見えます。美しい景色をながめながらひと休み、ひと休みお茶

 

 少し戻って、馬籠宿の通りからは一本入ったところにある永昌禅寺へ行ってみます。ここは島崎藤村のご先祖さまが開祖され、代々島崎家の菩提寺になっているところだそうです。

 

 藤村は神奈川県大磯町の自宅で亡くなられたのでその地のお寺さんに葬られ、故郷のこの菩提寺には御遺髪と御遺爪が埋葬されているそうです。

 

 永昌禅寺の御本堂。『夜明け前』に登場する万福寺はこの永昌禅寺がモデルになったと言われています。障子がぴったりと閉まっていたので、静かに外からお参りしました。

 

 観光マップを見て、少し離れたところにある“馬籠城跡”へも行ってみたのですが、“丸山の坂”の横に案内板があるのみで、明確な遺構は残っていないようでした。案内板の右上の竹やぶが小高い丘になっていて、上ってみると、いくつかそれらしい礎石がありました。

 

 来た道を戻って、今日の宿“但馬屋(たじまや)”さんに入ります。

 

 今回の木曽路の旅は、こちらの但馬屋さんに泊まることがいちばんの目的だったのですが、じつはここ、35年前、わたしたちが新婚旅行で泊まった最初の宿なんです。

 

 新婚旅行といえば海外が当たり前の時代に、木曽路から信州安曇野へ、車もない文字どおりの貧乏旅行だったのですが(笑)、当時の但馬屋さんのご主人が結婚の祝いにと、この囲炉裏端で木曽節を歌ってくださったのでした。そのご主人は平成26年に亡くなられたそうで、わたしたちにとっては何よりの餞(はなむけ)となった先代の木曽節が今も忘れられないとお話しすると、あとを継がれた息子さんがとても喜んでくださり、この日こうしてふたたびわたしたちのために木曽節を歌ってくださいました。走馬灯のようにと言いますが、目を閉じて聴き入っていると35年のときが一瞬で巻き戻るようで、息子さんと先代のご主人の思い出話をしながら、ひとの情の有り難さをしみじみとかみしめる思いでした。

 

 陽が翳って行灯にあかりが入るといっそう風情を増す民宿、但馬屋さん。たしか当時は総檜のお風呂は家族風呂でふたりで一緒に入りましたが、今は男性用と女性用に分かれていたり、トイレがウォシュレットになっていたりと便利さも兼ね備えながら、宿の雰囲気もアットホームなもてなしも、あのころのままでした。

 

 ふたりではじまって、いっとき賑やかだったけれど最後はまたふたりに戻って、はんぶん御礼参りのようなこころもちで訪れたわたしたちを、馬籠の宿は変わらぬ姿で迎えてくれました。つぎの35年後はふたりとももうこの世にはいないと思うので、そこは年数にはこだわらず(笑)、足腰の丈夫なうちにまた来たいとこころから思います。

 

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