昨日の話ですが,私が通勤で使っている近鉄名古屋線で人身事故がありました。
すべての被害に遭われた方に心からのお見舞いを申し上げます。
今週に入って近鉄名古屋線で人身事故が三回も起きています。
どれくらいの方が事故にあったのかわからないのですが,若い人が命を絶っている記事を見るたびにやりきれない思いがします。
本当にね,きついのです。
もう生きる気力がない,どうしようもないと言っている人に対して,
「死ぬな,人生生きていれば楽しいことがある」
などと偉そうに言う気はありません。
自分にはそこまで言う資格はないと思っていますから。
ただ,ちょっとだけ話を聞いてください・・・。
私もこう見えてもうすぐ半世紀生きたことになります。
長生きしたなぁ・・・。
アラフィフですよ?
信じられない💦
そんな私の人生ですが,順風満帆とは真反対の人生でした。
子どもの頃は「知能が低い」と言われて。
中学校に上がってからは「こいつは何もできない」と言われ。
中学三年生でやっといい成績を残せるようになり,クラスで一目置かれるようになりました。
しかし,それは「三日天下」で,高校に進んだら周りも同じかそれ以上の子ばかり。
一応名古屋市立のトップ校といわれていたところに進んでしまったので・・・。
あっと言う間に深海魚になってしましました。
何かを始めようと思っても,途中で困難にぶつかり,逃げ出す習性が身についてしまいました。
何もかも中途半端,何かをやり遂げた経験ってなかったなぁ。
友達を作ろうと思っても,その時の距離の詰めかたを知らないでドン引きされたり。
だから高校時代は恋愛経験はほとんどなし・・・。
そんなのはどうでもいいのですが,何かしようと思って始めたことを何一つ最後までできなかったのです。
それがとても嫌でした。
いつも途中で投げ出してしまうのかなぁ,最後までやり抜くことができないのかなぁと思うと,本当に辛かったです。
なんのためにここまで生きてきたのか,わからなくなることも多数。
結局今の自分は空っぽなんだと,自分を卑下することが増えてきました。
そんなことを言っているものに誰が好んで近づいてくれるでしょうか。
・・・でも奇特な友人たちはいまして,彼らとは30年以上連続して忘年会をしています。
基本的なメンバーは誰一人欠けることなく・・・これはかなりすごいことだと思います。
なぁなぁで文系に進もうと思った高校三年生に進級したとき。
クラス担任の先生に半ば強制的に理系に進まされました。
「君は勤め人は向いていない」
そう言われてしまいました・・・「研究者になった方がいい」とも。
しかしわからないことからは目を逸らす性分だった私。
勢いで目の前にある障害を吹き飛ばすエネルギーなどなかった。
何も考えないで学校に通い,予備校に行き,案の定浪人することに。
だって,微分積分なんてできなかったし,物理や化学だってほとんど真っ白・・・。
有機化学だけは分子名と構造式の対応を何回もやっていたので,なんとかちょっとはできるように。
それでも,元素分析を絡めた構造決定問題になると・・・もうダルマさんです。
手も足も出ません。
浪人した年の夏休み。
勉強で中学卒業して以来初めて一つのことをやり遂げました。
夏期講習でやった化学の計算問題(青い看板の予備学校の「化学特講1」)のテキスト。
あとは数学や物理の講習のテキスト。
覚えることを避けていた公式を覚え,できるまで繰り返して。
それをしたら急にある程度の成績が取れるようになって。
あぁ,こんな簡単なことだったんだって思ったものです。
そりゃ知識がないと考えられませんが,知識があればどうしたら答えが見つかるか探すことができますから。
確実な知識を持っていれば,問題が解ける可能性は上がります。
さて,運良く京都の大学に進みました。
京都大学には入れなかったけれど,憧れの京都市内に住めることになりました。
京都御所と相国寺の山門の間あたりにあった同志社大学の寮が住まいでした。
その名も「同志社アーモスト館内『同志社大学アーモスト寮』」。
そこで集団生活の中で自分の意見を発信していくことを学びました。
・・・結局思い通りにいかないことも多かったのですが,世の中はそう言うものなんだと言うことを学ぶことができたのは収穫でしょう。
大学で始めたのが「人形劇」。
これまで何かをやり切ることがなかった私。
いや,勉強だけは,教科・科目によってはやり切った部分はありましたが,まだまだ中途半端でした。
そんな私が新作をみんなで作り上げて,それを秋以降京都府下の色々なところでお客様に見ていただきます。
当初の台本とは全く別物になってしまった原稿・・・。
望み通り主役をいただきましたが,明らかにキャラ変している主人公・・・。
描き直された台本を見た時の反応・・・「おめ,誰?」状態でした。
それでも腐らないで最後まで演じ切ることができました。
何度か夜を徹して先輩方と話し合いの場を作れたから。
とことん話し合って,どうしてそのような台本にせざるをえなかったのかを伝えていただきました。
そして,180度変化した主人公を演じ切ることができました。
最後の公演は同志社大学の学園祭である「同志社EVE」。
重要文化財である「クラーク記念館」で行われました。
二日間の公演を終え,その後で現役生徒と引退する先輩方だけが会場に残りました。
先輩方が後輩に劇を見せてくださいました。
登場するのはこの同志社EVEのために作ってきた劇に出てきた人形たち。
たまにそれ以外の人形が出てきたこともありましたが。
その日を最後に引退する先輩方が,座員一人一人のキャラクターを見事に表現しながら,笑いあり・涙ありの特別ステージを見せてくださいました。
もちろん,送る方も涙・涙・涙。
そのあとは速攻でバラシをして,打ち上げです。
東山の方で一晩夜通してみんなで語り合っていました。
取り止めのない話から人形劇の話。
恋の話から将来の夢の話。
夜明けごろまで尽きない話が続きました。
この時の私は,「やりきったぞ!」という充実感に包まれていました。
劇そのものの出来は・・・どうなのでしょう。
今の私が見てどう思うのかわかりません。
おそらく今の私から見ても「へったくそ」な芝居かもしれません。
それでも,一つの大きな舞台を終えることができたことは大きかったのです。
ここまでやり切ってきてよかった。
劇ですから,観てくださる方の拍手が何よりのエネルギーです。
京都府内や飯田市で多くの公演をしてきましたが,その度にたくさんの温かい拍手をいただきました。
どれだけ大変な時でも,この拍手が私の背中を力強く押してくれました。
人に観て頂いて,さらに楽しかったと言ってくださる。
拍手までいただける。
お客様の前で劇をさせていただく者として,これ以上の幸せはありません。
自分には夢がありました。
道半ばで一旦人形劇から離れることになってしまいましたが,夢を夢のままで終わらせることができなかったのです。
何かをしたければ行動をしないといけません。
勉強をしなければいけないのはもちろん,大学の再受験を控えていたので,センター試験や二次試験のための勉強をまとまった時間をとってしなければいけませんでした。
これも中途半端で終わりたくなかったのです。
第一志望は叶わず,滑り止めで仮面浪人をしようと思って入学したのはいいのですが・・・,私が入った名古屋工業大学は,当時「在籍のまま他の大学を再受験することはできない」という規則がありました。
・・・何と言うことか,入学式から帰る途中の電車の中で,学則の冊子の中からその文言を見つけてしまいました。
入学式だけ行って,後は仮面浪人だぁと思っていたのに。
これで名工大に行く気が起こらなくなりました・・・。
半年間引きこもりをしていたことは何度か書かせて頂いていると思います。
しかし,同学年の女子学生に小学校時代のご近所さんがいて,その子に何度も外に連れ出してもらいました。
おかげで名工大で友達を作ることもでき,秋以降は真面目に通うようになりました。
・・・あのまま引きこもりをしていたら,また中途半端な人生を繰り返していたような気がします。
しかし,化学が面白いことがわかり,この際とことん勉強していこうと思うに至りました。
残念ながら素晴らしい師匠に恵まれたにもかかわらず,研究は不完全燃焼で終えることとなってしまいました。
先生にはお詫びをしても仕切れません。
でも,その気持ちを吹き飛ばす勢いで受験勉強をしました。
・・・結果,また落ちました・・・。
でもこの時は悔いはなかった。
燃え尽きた,という感じでした。
まだ受験をする道もあるのですが,もう十分戦ったと思った私は小さな塾に入植します。
地元でとても熱い信頼を集めている塾でした。
しかし,いろいろと行き違いがあり三ヶ月で退職。
そのあとは三ヶ月ほど本物の「引きこもり」に。
引きこもりもとことんやり尽くしたかな?
何の自慢にもならないけれど!
その間に大手三大予備校の講師採用試験を受けていました。
まさか受からんだろうなぁ・・・って。
しかし,なぜかあれよあれよと試験を通してくれた予備校がありました。
デビュー先の代々木ゼミナールでした。
10人くらい候補の方がいましたが,最終的に合格したのは私一人・・・。
役員面接で今の理事長先生とお話ししました。
その後,結構長い間予備校講師をさせていただくことになりました。
受かるなんて思っていなかった,夢のまた夢の職業,「予備校講師」。
ついになっちゃったぜ!!!
仕事を始めてから。
まさかなれるとは思っていなかった三大予備校の講師。
なったときが地獄の始まりでした💦
最初の週は教室に満員の生徒がいたのに,翌週は半分に減っているという・・・。
これはきつかった。
生徒が自分を受け入れれくれるのかどうかわからない。
2年目以降になってだんだん仕事が増えてきて,受け持つ授業が増えてくると・・・。
どれだけやっても一週間の講義の準備がしきれない。
どれだけやっても授業が全部終わらない。
予備校ですから,生徒たちは一定の期待をしてきます。
この人の授業を受けると,どれだけ面白いのかな?点数を上げる方法を教えてくれるのかな?
生徒がそんなことを考えながら,こちらを値踏みしてくるように見えました。
・・・まぁ真実は闇の中ですが。
この人は自分に何を与えてくれるのだろう,この人って自分よりできるのかなぁ。
この人の授業を受けて何かメリットがあるのかなぁ。
景気悪い顔を見ているとこっちまでテンションが下がるから,他の先生のところに行こう。
2ちゃんねるに何度か書かれたことがあります・・・「長田以外の化学の先生っていつどこの教室で授業していますか?あいつの授業はわからん」。
あの時期,毎週のようにエゴサーチをしていました。
そんな私も数年やっているうちに仕事量や質が安定してきました。
ありがたい話ですが,出講先の予備校から期待していただけるようにもなりました。
ある年,当時の出講先が新しい業態の予備校を立ち上げました。
私はその新業態の予備校の化学科のメイン講師となることになりました。
・・・しかし,そのやり方が私に合わなかったのです。
言うまでもないことですが,予備校は何一つ悪くありません。
これは私の我がガマです。
それでも,やりたくない仕事を我慢してやり続けることはできませんでした。
体が壊れてきたからです・・・。
ある日予備校に向かおうとした時,足が動かなくなりました。
崩れ落ちてしまいました。
その場で予備校に電話しました。
「急に体調が悪くなって動けなくなりました。休ませてください。申し訳ありません」
その日はホテルを取り,お昼から翌日までのんびり外の景色を眺めて過ごしていました。
ソファに座り,窓から見える名古屋城天守閣を眺めていました。
一晩だけ休んで,かなり立ち直ることができました。
しかし,先述の新業態の予備校の仕事は私には合いませんでした・・・。
そんな私の授業を気に入ってくれて受け続けてくれた生徒はもちろん,職員の方やその後を引き継いでくださった講師の先生に申し訳なかったです。
あぁ,また中途半端で終わってしまった。
逃げるその時は,もう続けられない,と逃げるのに必死でした。
このままやっていると,また通勤時に体が動かなくなる!
それが怖かったのです。
どうしてもこれは合わない,という仕事だけはお断りして,それ以外の仕事は可能な限り受けていました。
その後,予備校の移籍があり,ONゼミナールの先代塾長がなくなったり。
いろいろとありました。
特に・・・塾の経営を始めてからも,大変なことばかりでした。
自分一人ではやりきれない授業を人にお願いしているのに,自分が見に行かないと心配で。
予備校で講義していても浮かんでくるのは自分の塾のことばかり。
講義のレジュメを作っていても,自分の塾で何が起きているのか心配で。
何かトラブルが起こったと聞けば,休日だろうとすぐに津に直行していました。
その後,塾の経営はみるみるうちに傾いて行きました。
新型コロナウイルス禍がどうのこうの言う前から経営はめちゃくちゃ。
毎月出てくる赤字。
合計を計算するのが本当に怖かったです・・・。
経営できるか?これからもやっていけるか??
もしやるのなら,どうしていくのかをきちんと考えないといけません。
講師室で生徒に質問を受けていてもONゼミナールの生徒の顔が浮かんできます。
まぁ,一度乗りかかった船ですから,最後まで見届けないと気が済まない性分なのです。
決断をしたらそのあとは行動あるのみ。
「動けないんです」,などと言っている暇などありませんでした。
経営をしていると苦しい思いを添ることの方が多いものです。
しかし,やるべきことをリストアップすれば,案外やることが少なかったりします。
集中していればいつの間にかできているものです。
何かを成し遂げたと言う記憶は,その人を元気にします。
きっかけ一つで人生はかなり変わると思います。
せめて普段の表情を明るくしてみませんか。
あなたがどうしようと,私に止める権利はないし,どうなるかわかりません。
でも,最後の最後の前に行政の人に助けをもとめるの猛者です。
どうにもならなかった「生活保護」と言う制度があります。
せっかく使えるのですから,水際対策と称して役所に生活保護の申請に来た人を追い返す人がいるようです。
事情が分かり大人を一人連れて行けば,かなり話しやすくはなるでしょうし。
さて,明日は歯医者さんなので早めに寝ます!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ONゼミナール 代表 長田 俊将