同志社大学に入学して間もない一年生のある日,合唱や山学同好会,天体観測をする同好会など,いろいろとサークルを見て回った末に,人形劇団「阿呆加座」の部室のドアを叩きました。男女半々くらいの和気藹々とした雰囲気でした。

 

 4月半ばまで入部するかどうか迷いましたが,一時帰省して京都へ戻る新幹線の2階グリーン席で「よし!人形劇しよう」と決心しました。そうなると,週に3回程度は拘束されます。稽古やものづくりなど,定期的に集まるのが大事だとされていたからです。メンバー同士の繋がりは深く,家族に近い感じもありました。お兄さんとお姉さんがいて,同じ歳の子どもがいて,来年になれば弟や妹ができる・・・。

 

 この時点で山岳同好会にお世話になっていました。が,人形劇をやることに決めた時点で掛け持ちが難しいと言う結論に至り,やめさせていただくことにしました。その時の先輩方,かっこよかったです。「人形劇を一生懸命やる,と約束してくれ。そうすれば気持ちよく送り出してやる」と言ってくださいました。その後も山岳同好会のメンバーと会うことがありました。先輩と一緒に並んで24時間営業のミスドで勉強したこともあります。

 

 学業以外では人形劇サークルを第一にして動くことになりました。ゴールデンウィークの日曜日に,奈良教育大学にイベントで行くことになりました。周辺の人形劇サークルなどが集まって,1日子どもたちと触れ合うというものでした。結論,ものすごく楽しかったです。何回蹴っ飛ばされたかわかりませんが(苦笑)。

 

 それ以上に背中に乗っかってきてくれたり,ハグしてきたり,「ママと結婚してや〜」などと言う女の子まで出てきたり(笑)。別の女の子は背中に乗ったきり離れなかったり(笑)。かわいい。今頃そのお子さんも30歳くらいかなぁ。女子大の方もイベントにみえていたし,結構色々お話しできたなぁ。同じ年くらいか・・・。今から会いにいけばワンチャン・・・おっと,人形劇センターからメールが・・・。

 

 どうも子どもに好かれるようです。というか,若い頃の私は子どもにずいぶん遊んでもらいました。今もか・・・。一昨年前の夏から秋にかけて,新作を演じていました。私のやっているキャラが子どもたちに受けて,ずいぶんいじってもらえました。写真にも何回一緒に入ったことか。そういえば,塾でアルバイトを始めた頃,中・高生よりも小学生の授業の方がうまく行っていました。

 

 毎年夏に長野県飯田市で「いいだ人形劇フェスタ」という日本最大級の人形劇の祭典が開かれます。初めて行ったのは阿呆加座の一年生の時。このころは「人形劇カーニバル飯田」と言う名称でした。

 

 初めて行った夏,阿呆加座座員10人くらいで公民館に泊まり込んで,一週間ほどいろいろなところに公演を見に行ったり,自分たちの公演をしたりしました。当時は「学生サークル共演」と言うものがあり,通常はプロしか使えないメイン会場「飯田人形劇場」で公演をさせていただけました。この時に演じた劇が極めて難解だったのもありますが,本当にいい経験になりました。飯田入りして二日目に自分の劇団の公演が終わったので,それ以降はよその公演を見に行く日々でした。

 

 当時は大学の人形劇団が結構方々にありました。同じ公民館に岐阜県の聖徳学園大学,茨城県の筑波大学の方がいらっしゃいました。なんと,男子も女子も同じ部屋で雑魚寝。今では考えられないでしょう。よくぞ何か起こらなかったものです。同じ公民館に泊まっているものどうしで,夜な夜な酒盛りをしたものです。若いからできたのですね・・・。我々の食事は阿呆加座のメンバーが揃って用意します。女性陣が料理,男性陣が買い出しと後片付けをしていたかな。そして家族のように全員揃って「いただきます」「ごちそうさま」をしました。本当にずっといっしょにいる,限りなく家族に近い関係でした。

 

 ある早朝,私は寝言で自分のセリフを大声で叫んだそうです。それで阿呆加座の座員はみんな起きたとか。私は一人お構いなしに寝ていたとか・・・。まったくもう。

 

 その歳の夏の終わり,サークルの夏合宿で鳥取県は米子市の皆生温泉に行くことになりました。私はその秋の公演で主役に抜擢していただき,合宿中に人形を作ることになりました。私はお裁縫のセンスが皆無で,女子の座員に助けてもらいました。一緒に徹夜をしてくれてありがとう。日本海のすぐそばにある旅館でした。朝夕は割と穏やかなのですが,ときに思い出したかのように荒れます。日本海の荒波,とよく聞きますが,まさにそのイメージ通り。台風でもきているのかと見紛うような波でした。

 

 合宿中のある夜,「何も荷物を持たないで」一緒に海に行こう,と座長が呼びかけるではありませんか。その日は快晴。星がどれだけ綺麗に見えるか楽しみでした。人の話を聞かない青年だったこの阿呆(=私です)は,双眼鏡を忍ばせて砂浜に向かいました。

 

 阿呆加座では,夏合宿で一年生は全員海に放り込まれることになっていました。それが伝統なのです。知らなかったでは済まされません。何も持ってくるなと言われていたのに,結構高級な双眼鏡を忍ばせて行ってしまいました。予定通り海に放り込まれた私は,もはや文鎮にしかならなくなった双眼鏡を泣く泣く持って帰りましたとさ。あー◯ー。劇団名もそんな名前ですし。

 

 最終日の朝,砂浜で黄昏ていたら同じ作品に出る同級生(女子)がやってきました。大山「だいせん」がよく見えます。その朝は海も穏やかで。女の子とサシでお話をするのはどれだけぶりでしたでしょうか。いいムードになっていたようです。あの頃はわかりませんでしたが(爆)。この頃は人の心を察すると言う言葉が頭の中の辞書にありませんでした。残念という言葉を何回言っても足りません。私は一浪して同志社に入っており,話し相手の子は現役で同志社に入っています。同級生ですが,ある意味妹のように見てしまっていました・・・。同じ歳のようなものなのに。勘違い甚だしい。

 

 その後,秋の終わりまでこの作品をしっかりと演じ切りました。一番のメインは同志社大学の大学祭,「EVE祭」でした。今出川キャンパスにある「クラーク記念館」と言う建物(重要文化財)の二階で公演をしました。三日間公演をして,最終日が三年生の先輩方の引退の日となります。公演をした後,お客様を送り出して,先輩方の公演が始まります。私たち後に残る人間のために,いつの間にか稽古をされていたのですね。それぞれの先輩が私たち後輩のことをどれだけ大事に思ってくださっていたか,芝居の中で語ってくださいました。座員は全員号泣です。私は涙脆くて・・・。公演をしてくださる先輩方も涙声です。三年間,家族同然に一緒に過ごしてきた先輩方とお別れ・・・。

 

 その日の打ち上げは東山区の旅館で開かれました。夜通し飲んでしまおう。語り明かしてしまおう。そんなノリだったと思います。で,翌朝それぞれ家路につかれる先輩方を見送り,私たちは公演の後片付けです。一つの大きな公演を終えた安堵感と,心地よい疲労感が体を包んでいます。実は私,この瞬間のために人形劇をやっているのだと思っています。また公演をするチャンスがあればまたやりたいと思います。

 

 先ほども書きましたが,当時の私は人間関係が不器用でした。そんな私でも,恋愛をそれなりにしたことがあります。天体観測のサークルの同級生と付き合ったことがあります。サークルの飲み会のあと,二人だけで南禅寺の境内を歩いて,どこかの公園のベンチで喋っていました。口をついて「付き合わないか」という言葉が出てしまいました。何の脈絡もなく・・・。それでOKしてくれた彼女もどうかと思いますが・・・。

 

 こう言うのを抜け駆けと言います。先輩を差し置いてこんなことをしでかしたら,大変な目に遭います。若いみなさんは気をつけましょう。

 

 彼女は,このサークルの先輩方も狙っていた子だったらしく,私は「サークルの秩序を破壊した人間」だと名指しされることになりました。その影響があってこのお付き合いはすぐに終わってしまいました・・・。嵐山と高雄に一度デートに行ったきり。そのあとこのサークルを辞めることになります。

 

 あー,すっきりした。まぁ,一番下の学年だと言う自覚がなかったと言われれば何も返す言葉はありません。先輩を立てなければいけないと言われれば,何も言えません。そのルールを破ってしまったのだから,相応の制裁を受けることになったのでしょう。

 

 若い頃の私は終始こんな風でした。何か言われると時には「猛犬」になりました。誰彼構わず噛み付いていました。

 

 人形劇サークル阿呆加座での話に戻ります。

 

 飯田で人形劇の公演をした時に,講評してくださった高名な人形劇評論家の方がいました。毎日出版されていたかわら版に,この評論家先生のお名前で,私たちの劇の出来が残念だったと書かれていまして,納得がいかない私。ちょうど評論家先生を囲んでお酒を飲む機会がありました。ビールの瓶を片手に評論家先生のところに行きます。私の性格を熟知している阿呆加座の座員は私を止めようとしました。でも,私の暴走は止まりませんでした。噛み付いてやる・・・猛犬モードスイッチオン(笑)。

 

 評論家先生にお酌をして,先生からご返杯をいただき,お話を切り出しました。どストレートに(苦笑)。どこか私たちの劇でご満足いただけなかったようですが,教えていただけないでしょうかと。先生はきちんとお話ししてくださいました。ぐうの音も出ませんでした。自分では会心の出来だと思った公演でしたが,まだまだだと言うことをこれでもかと教えていただきました。

 

 相手の方が数枚も上手でした。あっという間に大人しくなってしまう私。マジでこの人には敵わない,と思ったのです。

 

 この時に色々な劇団の人形劇が見られたことは,ものすごくいい勉強になりました。東京の「空中分解」という,今は本当に空中分解してしまったプロの劇団さんがありました。そのお芝居を見る機会に恵まれました。題名は「サンカクくん海を行く」。極めてシンプルな人形で,観客の想像力をそそります。この演出家の方がものすごく有名な方らしく,3年生の先輩方が私たち低学年にどうしても見せたいと思っていたそうです。

 

 果たして25年後にこの演出家の方と再会することになります。今所属している人形劇団の創立30周年公演で,何と手弁当同然で友情出演をしてくださいました。

 

 化学の勉強だけでなく,人形劇にも燃えていた若い頃の話でした。この頃にうまくやっていたら私は独身ではなかったかも・・・。まぁ,そんなに甘くはないと言うことは十分に知っています。と負け惜しみを言ってみます。あかん。だんだん惨めになってきました。

 

 この時代があったからこそ,いま生徒の前に立っている私がいるのだと思います。確信すらしています。芝居が私の講義を作るのです。

 

 ここまで取り留めのない長文をお読みいただき,本当にありがとうございました。心からお礼を申し上げます。ご意見やご感想などをお聞かせくださると幸いです。

 

ONゼミナール代表 長田 俊将