ヴァティカン~サン・ピエトロ大聖堂 | レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの活躍を紹介していきます。

「1513年9月24日、私はミラノからローマに向けて出発した。連れはジョヴァン、フランチェスコ・デ・メルツィ、サライ、ロレンツォ、ファンファイオである。」ローマにいたジュリアーノ・デ・メディチからの誘いに応じたレオナルドは、パリ手稿Eの最初のページにこう書いている。

ロレンツォ・デ・メディチが43歳で死去した後、メディチ家は18年間フィレンツェを追放となっていたが、1512年の夏にハプスブルグ家の支援を受けたジョヴァンニ・デ・メディチを筆頭にメディチ家がフィレンツェに戻ってきた。

1513年3月11日、教皇ユリウス2世の崩御によってジョヴァンニは新教皇レオ十世となりローマに戻り、その弟であるジュリアーノもローマに呼び寄せられた。そしてヴァザーリの言うところ「自然哲学の熱心な研究者であり、特に錬金術を好んだ」ジュリアーノは、レオナルドをローマに呼び寄せたのである。ジュリアーノはレオナルドを気の合う友人というよりも、兄弟のように扱ったと言われている。

ジュリアーノはラファエロや、モナ・リザのモデルの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドの友人でもあり、モナ・リザ誕生にも一役買っていると思われる。



$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-ローマ教皇レオ10世
教皇レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)と枢機卿達
ラファエロ・サンティ

$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-ジュリアーノ・で・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチの肖像
ラファエロ・サンティ


教皇レオ10世となったジョヴァンニは、前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設を引継ぎ、ミケランジェロやラファエロ等のパトロンともなって、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えるのである。聖堂や広場、洗礼堂の修復を行い、前教皇に続きラファエロをひいきにし、自らの肖像画やシスティーナ礼拝堂の壁掛け、バチカン宮殿回廊の天井画・壁画などを制作させた。

このように父ロレンツォ譲りの豪華さ(イル・マニーフィコ)を発揮したジョヴァンニだが、サン・ピエトロ大聖堂建設資金の為にドイツ(当時の神聖ローマ帝国)での贖宥状販売を認めた事が、結果的にマルティン・ルターによる宗教改革のきっかけとなってしまったようだ。

1514年に大聖堂の主任建築家であったブラマンテが死去、後任ははラファエロとなり、その後アントニオ・ダ・サンガッロ、バルダッサーレ・ペルッツィ等が担当し、最終的に1547年1月にミケランジェロが就任、現在のドームの設計が決まった。ドームが完成したのはミケランジェロの死後30年が経った頃である。






大きな地図で見る