レオナルドが研究した科学や工学、芸術、人体解剖、建築の成果を記した手稿(手書きノート)は、その約3分の2が失われ、現存するものは下記3722紙葉+素描類(合計約8000ページ近く)と言われている。
これらの手稿を最も多量に所蔵するのは、ミラノのアンブロジアーナ図書館、その次はパリにあるフランス学士院であり、次がイギリスのウィンザー王立図書館、次がマドリッドの国立図書館、次がロンドンの大英博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート美術館である。
<レオナルド・ダ・ヴィンチの主な手稿リスト>
アトランティコ手稿 1119紙葉 アンブロジアーナ図書館所蔵
パリ手稿A~M及びアッシュバーナム手稿Ⅰ~Ⅱ 1113紙葉 フランス学士院所蔵
ウィンザー紙葉及び解剖手稿 589紙葉 ウィンザー王立図書館
マドリッド手稿Ⅰ~Ⅱ 342紙葉
アランデル手稿 154紙葉 大英博物館所蔵
フォースター手稿Ⅰ~Ⅲ 298紙葉 ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵
トリブルツィオ手稿 51紙葉 トリブルツィアーナ図書館所蔵
鳥の飛翔に関する手稿 20紙葉 トリノ王立図書館
レスター手稿 36紙葉 ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団所蔵
レオナルドは晩年になってから、フランソワ1世の庇護を受けてフランスのアンボワーズに暮らした。1517年10月のアントニオ・デ・ベアディスの記録によれば、「レオナルドの画室で3点の絵画(モナ・リザ、聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ)と、解剖図や機械工学に関する膨大な手稿を見た。それらは俗語で書かれているので、もし出版されるなら、大変有益で人々の興味をひくだろう。」と書かれている。
レオナルドの手稿は、レオナルドのが他界した1519年5月2日に、弟子フランチェスコ・メルツィに遺贈された。メルツィは他の遺品とともに手稿をたずさえて家郷に帰り、ミラノ近郊のヴァプリオ・ダッタの館に収めている。
1570年にメルツィが他界した時から、手稿は散逸の歴史をたどる。ミラノ生まれのアンブロージオ・マゼンタは、ピサで法律の勉学をしていたとき、レオナルドの手稿を大量に持ち歩く不審な人物に出会う。この男はかつてメルツィ家の家庭教師をしていた人物で、メルツィ家からレオナルドの手稿12冊(1冊の単位は不明)を持ち出し、換金しようとしていた。マゼンタは男から手稿を取り上げてメルツィ家に届けたが、レオナルドの手稿に興味を持たなかったメルツィの息子オラーツィオは、それらを全てマゼンタに与えてしまう。
レオナルドの手稿を初めて意図的に集めたのは、ミケランジェロの弟子であり、スペインのフェリペ二世に彫刻家として仕えたポンペオ・レオーニである。レオーニは宮廷彫刻家としての地位を利用して、かつてメルツィ家からマゼンタに贈られた手稿を取り返させた。
レオーニは蒐集したレオナルドの素描や手稿を226紙葉からなる「レオナルド・ダ・ヴィンチの素描集」と、405紙葉からなる「レオナルド・ダ・ヴィンチの機械、秘技、その他の諸技に関する素描集」という2冊の本に分類した。主に芸術的なデッサンを集めた前者は後のウィンザー素描集であり、そして主に機械工学的なデッサンを集めた後者は、後のアトランティコ手稿である。
レオーニの死後、手稿は再度散逸する。いつ頃どのような経緯でドーヴァー海峡を渡ったかは、明らかではないが、イギリスにあるレオナルドの手稿は何れもレオーニから出ていることは確かである。チャールズ一世を初め、イギリスの富豪・貴族が美術品や貴重本を競って蒐集しており、一説ではチャールズ一世がまだ、プリンス・オブ・ウェールズだった頃、スペイン王女との縁談があってマドリッドに渡ったが、彼は王女の代わりにレオナルドの手稿を携えて帰国したとも伝えられている。
レオナルドの手稿の一部は、レオーニの弟子クレオドール・カルキを通じてマドリッドの名門ドン・ファン・デスピーナが購入。その後この2冊は行方を絶っていたが、1967年にマドリッドの国立図書館で発見された。
レオーニの編集した機械工学的な一冊は、レオーニの死後、やはりカルキの手を経て、1625年ガレアッツォ・アルコナーティ伯に売却。アルコナーティはそれをミラノに持ち帰って、他の手稿(パリ手稿やトリヴルツィオ手稿等)とともに1637年にアンブロジアーナ図書館に寄贈した。1674年にはK手稿、1790年にはD手稿が加えられ、トリヴルツィオ手稿はカルロ・トリヴルツィオの手を経て同じミラノのスフォルツェスコ城に入っているが、この後およそ150年間はアンブロジアーナ図書館に静かに保管されていた。
1796年、ミラノに進駐したナポレオンは、国宝級の文化財を「保護管理」という名目でパリに送らせており、手稿は2個の木箱に梱包されてアルプスを越え、1個は国立図書館に、もう1個はフランス学士院に届けられた。戦後、オーストリアの大使は、押収された文化財の保護管理を解き、それぞれの場所に返還することを要求したが、1815年にアトランティコ手稿のみがイタリアに返還され、他は今なおパリにある。フランス学士院に留まった手稿は、B・ベントゥーリによってAからMまでの12グループと、アッシュバーナム手稿に分類されて、今に至っている。
アトランティコ手稿~レオナルドの遺稿小史~裾分一弘著 ㈱文流より抜粋