ニュースで鉄道の「廃線危険度」なるリストが公表されています。
僕も鉄道ファンでしたので、「廃線」という言葉を聞くと、沈んだ気持ちにもなります。
これが、平成の世なれば、廃線となったあとは、バスが代替輸送を担うだろうけど、本数は少なくなるだろうし、マイカーを持たない高齢者には死活問題にもなりかねないといった暗い未来しか思い浮かばないでしょう。
しかし、令和の世は夜明けの時代です。従来の闇夜の時代であった三次元的発想のままでは何も解決策は浮かばないでしょう。
昨今、「空飛ぶクルマ」も開発中ですし、それよりも、重力の影響を受けない乗り物(UFOがそう)も登場するであろうし、将来は明るいのです。
ちょっと過去に遡ると、江戸時代での移動手段は徒歩か駕籠でした。この時代に生きていた人たちに、「新幹線」や「飛行機」の話をしても、「アタオカ」(「頭がおかしい」)だと思われたことでしょう。
そう、江戸の発想では現代が思い浮かばないように、現時点での発想のままでは次世代のことは思い及ばないのです。
話を元に戻して、今後、鉄道の整備を行っても、次世代の乗り物が続々と登場してくれば、鉄道は無用の長物となってしまいます。
今は時代の過渡期として、しばらくの間、整備新幹線くらいは建設するとしても、それ以外はもう不要なのかもしれません。
さらに、「アタオカ」な話をすれば、地球が完全に五次元世界に移行すれば、場所の移動に、乗り物すら不要になり、誰にでも「テレポーテーション」(瞬間移動)が可能になるかもしれません。こうなれば、最早、「物流」の概念すらなくなるかもです。
江戸末期から平成、令和まで百五十年程度掛っていますが、今は時の歩みも加速しており、次世代までさほど時間は掛らないのかもしれません。というより、この時の概念も三次元の産物なのでしょうけど…
ただし、従来の重たい波動の三次元世界に固執する人は、「テレポーテーション」は夢のまた夢の話であり、「廃線」後の不便なタイムラインでガックリと肩を落としているかもしれません。
しかし、それもまた本人の選択の結果です。