「わが家は裕福ではない」の思い込み | 脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

2020年3月に脳出血を発症し左片マヒに。リハビリとスピワークを通して、全快復を目指すおじさんの手記。併せて半生を振り返る半生記をエッセイ風に綴っています。

こんにちは、デイヴです。

幼少のころから、わが家はずっと「貧乏ではないが裕福ではない」と思い込んでいました。

決してひもじい思いをしたことはありません。


が。


生まれたときからずっと借家住まい。

いわゆる大阪市内の「文化住宅」という

長屋チックな、部屋数2間ほどの小さな借家に住んでいました。

物心ついたときには、堺市に引っ越していて、やはり文化住宅。

すぐそばには南海高野線の線路が通っていて、

四六時中、行き交う電車を見て育ったので、

これが今の鉄道好きに繋がっています。


1970年の大阪万博の頃にさらに南の大阪府下に転居。

いわゆるニュータウンで、「都心のベッドタウン」と言われたところです。

昭和30年代から40年代にかけ、

中流階級の憧れの住まいだった公団住宅。

ま、言ってみれば5階建ての団地ですが、

当時は入居希望者が引きも切らず、

頻繁に抽選会が行われていました。

わが両親も団地族に憧れたのか、何度も抽選にチャレンジし、

ようやく当たったのが万博開催直前だったんです。

部屋数2間の文化住宅から3DKの団地住まいにアップデートしたものの、

引き続き借家住まいであることに変わりありません。

団地の周囲には戸建て住宅の建ち並ぶエリアで、

1区画が50~60坪ありそうな土地に

瀟洒な戸建て住宅が建ち並んでいました。

子どもの目には、そこに住まう人たちが

あたかも「上流階級」に属する人たちに見えました。

学校のクラスメートには、

大半が公団住宅に住んでる者に混じって戸建て住宅から通っている者もいて、

放課後には彼らの家に遊びに行くこともありました。

そのたびに、建坪の広さと、キチンと間取りが取られた

子ども部屋の存在が羨ましく、

戸建て住宅に対して強烈な憧れを持ったものです。

母はしょっちゅう

「ウチも戸建てでも建てようか!」

と笑いながら冗談めかして言い放っていましたが、

父はウンともイヤだも言わず、ただ苦々しい笑みを浮かべるだけ。

そりゃそーだ、ウチみたいな中の下みたいな層に、

一戸建てなんて建てられるものか。

中卒で社会人になった父は、

堺市内の鈑金工場に勤める鈑金工。

月収はわからないものの、

ブルーワーカーの給料なんて

たかが知れてる。

一戸建てなんて夢のまた夢。

そう思っていました。


ところが。


最近になって、意外な事実を

母から打ち明けられました。

確かに亡き父は鈑金工場に勤めてはいたものの、

決して単純な雇われ工員ではなく、

社長と共同で操業した、

言わば創業メンバーの1人だったんです。

鈑金工ですからステータスも高く、

けっこうな手取り収入があったようです。


2012年頃に、母が渋る父を諭して長年住み続けた団地を卒業し、

少し離れた場所に、URの分譲住宅を中古で取得、移住しました。

ただその取得経過で、

ローンを組むことなく、即金で仲介業者から取得したことを

当時聞かされて、

「えっ⁉︎ ウチってしがない中産階級じゃないの⁉︎

なんで即金で持ち家が買えるのっ⁉︎」

と不思議に思ったことです。

築40年近い中古物件ですが、建て付けも良く、

そこそこの価格だったはず。

それを、ニコニコ現金払い😊でせしめたわけですから、

かなりの預貯金があったはず。


考えてみれば、


学校通いの頃も、

欲しいものがあれば

親は嫌な顔せずお金を出してくれましたし、

聞けば親戚から借金を申し込まれたときも

ホイホイと貸していたそう。

わが家が一戸建てと無縁だったのは、

貧乏だったわけではなくて、

単に父が持ち家取得に消極的だった、ということ。


早く言ってよ〜〜😅


そういうわけで、

「わが家はけっこう裕福だった」

というオチは、

父が亡くなってから約10年後に発覚したとさ。


それにしても、

この世に生まれてから半世紀以上、

「わが家は裕福ではない」という自己暗示を

自分に課し、

潜在意識に強く刷り込んできたわけで、

それがベースとなって

これまでの自分の行動に繋がってきたと考えると、

潜在意識の奥深さ、というか

しつこさ、には

脱帽のほかありません。