7
帰国後、僕は出発前とさほど変わらない日々を送っていた。
バイトをし年に1回春休みに海外への貧乏旅行に行くのが恒例になり、なんとなくその為に生活するようになっていった。
翌年にはヨーロッパを回り、その翌年には中国の南部へ行った。
どこへ行ってもそれなりに楽しくはあったのだが、最初のタイ・インドに比べると刺激は無かった。
大学最後の春休みにもどこかへ行こうと思ってはいたのだが、就職先が3月から来てくれとのことでその計画も無くなり。そのままズルズルと社会へ出ることになった。
僕とは別にタケシ達は最後の休みも楽しんだようで、タケシはマレー半島を縦断しに行き、トコロに至っては探検部の一員としてアマゾン川に向かい、見事遭難して新聞に載っていた。
僕の就職先は子供服のメーカーで、一つも興味は持て無かった。
ちょうど僕らが大学の在学中にバブルが弾け、就職先なんていくらでもある状況だったのが突然就職難に陥ったのである。
ある程度不況の中で学生生活を送っていれば在学中でもそれなりに対処していただろうが、僕らはなんせバブル崩壊1年目で何の用意もしておらず、とりあえず内定をくれるところがあればどこでも良いから入社するような年だった。
つまらない日々が続いていた。
朝起きて会社に行き、ただただ業務をこなし、夜帰る。
5日行って2日休んで、、、それの繰り返しだった。
そんな生活が続いた2年目の夏、久しぶりにタケシから連絡があった。
「元気?仕事どう?」
「別に、相変わらずだよ。タケシは?」
「毎日外商に回って、ノルマノルマで、」
「そうだよなぁ」
そんな近況というかお互いの仕事の愚痴を言い合っているとタケシが明るい声で切り出して来た。
「そういえばさぁ、ワーキング・ホリデーって知ってる?」
「聞いたことあるけど、、、」
「どう?一緒に行かない?」
「えっ?」
「オーストラリア!」
正直僕は複雑だった。つまらなくはあったが仕事を辞める勇気も無く、ヨーロッパ旅行で欧米諸国に対してはあまり興味を持てなかったからもある。
僕は暫く考えさせてくれと電話を切った。
それから3ヶ月考えに考え、僕はオーストラリア行きを承諾すべくタケシに電話した。
「やっぱ行くよ!オーストラリア」
「ご、ごめん、、俺行けなくなっちゃった」
「はぁぁ?」
見事に肩透かしをくらった。
それでも僕はスイッチが入ってしまった以上、オーストラリア行きに向けて計画を立てて行った。
オーストラリアに対してはやっぱり興味を持てなかったが、海外で1年間生活出来る、それも働きながら。そこに引っかかったのだ。
そんな準備をしている頃、同じ会社の後輩イイダにその計画のことを話すと
「僕も行きたいです!」
ひょんなことから相棒が出来てしまった。
イイダは僕の2つ下で異常にブルースギターが上手い奴だった。
家も近かったので仕事の後飲みに行ったり、休みの日でもたまにスタジオへ一緒に行ったりして遊ぶこともあった。
音楽好きではあったが、英語はさっぱりだった。
いつかは英語をしゃべれるようになりたいと漠然と思っていたようで、それには僕の計画は彼にとって好都合だったようだ。
それからの数ヶ月はあっという間だった。
ヴィザの申請や必要なものの調達で毎週の休みは見事につぶれたが楽しくてしょうがなかった。
会社としてはいっぺんに二人辞めることで迷惑をかけただろうが意外と快く送り出してくれた。
6
バンコクでの刺激的な5日間はあっと言う間に過ぎ、僕たちはインドのデリーへと飛び立った。
到着したのは現地時間の深夜、空港のロビーへ出ると見たことも無い光景が目に入って来て僕は思わず後ずさりしそうになった。空港の周りを無数の群集が取り囲んでいたのである。黒い肌のせいもあり暗闇の中人々の目だけが異常に際立って見え、その眼光には鋭さも感じるのだが虚無感のようなものも感じられ、異様としか言い表せられなかった。それが何百、何千と無造作に連なっていたのである。タイでの数日間で海外はこんなもんかと思っていた僕は味わったことの無い恐怖を感じていた。
もちろん公共交通機関など動いている時間では無かったので空港の前で客引きをしていた人に誘われるがままマイクロバスに乗せられデリーの市内へと向かった。正直それからホテルに着くまでのことはあまり覚えていない、それほど空港での風景がショックだった。わかってはいたが僕たちの乗ったバスはホテルに雇われているらしく、連れていかれたホテルでは恐ろしく高額の宿泊料を提示された。時間的にもそれから他の宿を探す術がある訳で無し、しょうがなく僕たちはその宿で1泊することにした。
翌朝、部屋の窓から外を眺めるとそこには見たことの無い風景が広がっていた。
「石の文化」である。
今思うと同じアジアでもタイの風景は日本に近いものであった。木造の建物が多く、顔つきもさほど日本人と似て無くは無い。でもインドは違っていた。建物は削り出した石や簡素なレンガなどで組まれてあり、行きかう人の顔もどちらかというと黒く目鼻立ちもはっきりしていて日本との違いを強く感じていた。
僕らは宿を早々にチェックアウトしまたもやガイドブックたよりに目当てのゲストハウスに向かった。
1時間ほどかけデリー駅近くの「ミッキー」というゲストハウスにたどり着いた。
タイではタケシとトコロとの3人部屋だったが、今回僕らはドミトリーという大部屋に泊まることにした。10人程の相部屋で日本のガイドブックに載っている為か宿泊している人のほとんどが日本人だった。
拠点を決めた僕らは早速デリーの街に繰り出した。
チャイを飲み、ターリーを食べ、夕食にはタンドリーチキンを食べた。そんな中タケシとトコロはインドからネパールへ向かう行程について楽しそうに話し合っていた。
そんな中僕は話を切り出した。
「ネパールには行かない」
二人には言わなかったが旅に出る前から決めていたことだった。
日本にいるときから旅のことだけでなく、いつも二人に着いて行くのが当たり前になっていた。自分なりにいつまでもこのままではいけないと思っていて、どこからとは決めていなかったが途中から二人と別れて一人で行動しようと決めていたのだった。
二人の反応は対照的だった。タケシは一緒に旅することを勧めていたが、トコロは逆で僕が一人になることに賛成した。というのもトコロからすると金魚の糞のように着いて来るだけの僕に不甲斐無さを感じていて、ここで一人での行動を決めた僕を初めて認められる存在になったという嬉しさがあったようだった。
自分の中でも賭けだった。初めての海外でまだ1ヶ月近く期間が残っている、しかもインド。不安しか無かった。でもここで変わらなければいつまでたっても変われない。そう思っていた。
そして僕はタケシ達とは間逆の南へ、インド南部の主要都市マドラスに向かった。特に見たいものとかがあった訳でもなく、一人になるには寒いとこより暑いとこの方が楽かなという安易な理由からであった。
ここからが地獄の始まりだった。
デリーからマドラスへは列車で3日間。僕は奮発して1等の寝台を取った。あとあと、この選択は正解となるのだが。別れの夜に僕ら3人はささやかな宴会を開いた。どうやらその中の何らかの食べ物が良くなかったのか僕は見事に食中毒にかかってしまったのである。それでも旅を止める訳にはいかず、フラフラになりながら列車へと乗り込んだ。
1等の寝台に乗る乗客は少なく重病の僕にとっては好都合だった。これが万一2等を選択し、ぎゅうぎゅうのインド人の中だったと考えるととても旅を続ける自身は無かった。まさに不幸中の幸いである。
抗生物質・正露丸・現地の薬、どれを試そうが効き目は無かった。食べることも出来ず水だけを飲みただただ横になっていた。それでも定期的に腹痛を伴う便意は襲ってくるもので、食べてない為出すことが出来ず、そうなるとおよそ便とは思えない白い色の物体がパラパラと数粒出るだけになるのである。
病状はマドラスに着いてもあまり良くなっていなかった。
僕は駅前でリキシャーに乗りガイドブックに載っていた海辺の宿に向かった。とりあえず急いでベッドに入りたかった。
結局そんな状態が1週間続いた。
病状も良くなり、起き上がれるようになると突然腹が減るもので、久しぶりにレストランでもと思い街に出た。ところが手持ちのルピーが少ないことに気付きエクスチェンジに行き両替をしようとしたのだが一切受け付けてくれなかったのである。それが1店舗だけでなく全てそうだった。窓口の人の大半は英語が通じず、英語が公用語の一つの国とはとうてい思えなく四苦八苦した。
それから数日間アメックスのオフィスや銀行など思いつくところ全て行くのだが状況は変わらず。僕の絶食は10日を過ぎていた。
3週間目に突入する頃。ダメ元で航空会社のチケットオフィスに行ったのである。
外国の客と外貨での取り引きもするだろうからもしかしてと淡い期待を胸に行ったのだったが、案の定取り合ってくれるはずも無く窓口で僕は「エクスチェンジ プリーズ」を連呼し続けていた。そんなドン底の状態のとき奇跡が起きた。
「どうしました?」
日本語である。振り返るとそこには20代半ばぐらいの女性がたっていた。
僕はその人に事情を説明すると、その人はかなり余分にルピーを持っているから両替してくれると言ってくれたのである。地獄に仏とはまさにこのことである。
何度も礼を言って僕は早速食事に行こうとするとその人が近くに美味しい中華の店があるから一緒に行かないかと誘ってくれたのである。ほんとにお釈迦様に見えた。食べれて無かったとはいえ若干インドの食べものは遠慮したかった僕にとってはもってこいのチョイスであった。
僕は誘われるがままそのお姉さんに着いて行った。
中華料理屋に入ると僕は堰を切ったように食べたいものをどんどん頼んだ。しかし、3週間もろくに食事をしていないとすっかり胃が小さくなっていて結局3分の1ぐらいしか食べれなかった。それでも僕は大満足していた。
食事中に僕らはお互いのことについて話したり、今までの旅やその他もろもろ話した。
それから数日僕らは行動を供にしていた。美術館にいったり市内を観光したり、僕にとってはやっと普通の旅行を味わっていた。
そんな中、お姉さんはそろそろカルカッタへ行こうと思っていたらしく、僕も一緒に行かないかとまたもや誘ってくれた。正直悩んだが、どっちにしても僕自身帰りの便はカルカッタアウトだったのでその話に乗ることにした。
まだまだ所持金に余裕があったので僕らは飛行機でカルカッタへ向かった。
機上で僕は考えていた、また同じだと。
タケシ達と別れたのに結局別の人に世話になっている。やっぱりこのままじゃいけない。
カルカッタの空港に着くと、僕は意を決してお姉さんに一緒に行けないことを告げた。せっかく世話になって裏切るようで心苦しかった。それにこのまま一緒にいたら男女の関係になりそうで、それが僕自身受け入れられなかった。マドラスでも最後の方はお姉さんと一緒の部屋だったし風呂上りのお姉さんの裸も見ていた。日本だったら間違いなくいっていただろうけど、なんとなくこの旅でそういうことはしたく無かったのである。
それからは普通に一人で旅を続けた。特に問題も起きず無事僕は日本に帰った。
そんなにたいしたことでは無いけれど少しは自信を持つことが出来るようになっていた。
余談だがこの旅から帰って来ると、体重が8kg落ちていた。
5
夕闇のカオサンロードは怪しい熱気に包まれていて、自然と興奮していた。
とりあえず急ぎ宿を決めたくて、ガイドブックに書いてあった宿へ僕たちは向かった。
メインストリートから一歩横道にそれると怪しさはより一層深くなり、恐る恐る目的の宿へ向けて路地を進んで行くと突然暗闇に中から男が現れ僕らに話しかけてきた。
最初は何だかわからなかったがよくよく見ると手に何やら白い粉末状の物が詰められたビニール袋を持ちそれを買わないか言って来たのである。
一瞬で如何わしい物であることはわかった。まさに刑事ドラマなどに出てくるそれである。一瞬にして再確認した。自分が今存在しているところがどんなところでどういう風に過ごしていくべきなのか今一度認識するには良い洗礼だった。
その夜は粉の一件もありそのまま外には出ずゆっくり休み、翌朝から本格的に行動することにした。
決して綺麗とは言えない部屋だったが僕たちは全く気にすることなく爆睡した。
翌朝、僕はかなり早めに起き、ぷらっとカオサンロードに行ってみた。
街は既に慌しく動き出していたが夜とは違い予想に反し健康的な朝の慌しさで僕は少しホッとしていた。少しカオサンロードを散歩し宿に帰ると既にみんなも起きていた。
僕は別にかまわなかったのだが、どうやら今の宿より安くて良い宿があるとの情報で移ろうと話し合っていたのだった。僕として特にこだわりなんかあるわけでも無くその提案を即快諾し早々に宿を移った。
その噂のゲストハウスは前情報通りで広い敷地にちょっとした中庭もありそこでは各国から来たバックパッカー同士で情報交換が行われていて申し分無い環境であったし、建物自体も品の良いウッド調でかなり綺麗だった。もちろん僕らは即決した。
荷物を部屋に置くと僕たち早速行動しだした。
まずは何よりもインド行きのチケットの手配である。その辺は事前にトコロが探検部の先輩に安いチケット屋がカオサンにあることを聞いていたので以外にあっさりと手に入った。5日後に出発の便でトコロは早くインドに行きたかったようでちょっとイライラしていたが、僕はタイという国に興味を持ち始めてしまったようでトコロに申し訳無かったが正直嬉しかった。それから僕たちは金は使わず移動はほとんど歩きでいろいろと見て回った。ワット・アルンやワット・プラケーオなど京都に住んでいながら行かなかった寺巡りをタイで行ってる自分がおかしかった。
毎日あちこち行く前にゲストハウスの中庭であーでもないこーでもないと相談するのが日課になっていた。そんなことをしていると各国の人たちと自然と会話するようになっていったのだが、ふと、あるとき気が付いたのである。中庭で集まるグループがはっきり二つに分かれていたのだ。ひとつは僕らのグループで一緒にいるのがイスラエル人やイギリスの黒人、もう一つのグループはフランス・ドイツ・イギリス・カナダなどの白人達。最初は全く意識していなかったのだが、気が付くと色んな面でショックだった。
日本にいたら全く意識しないのだが、自分が有色人種であるということ生まれて初めてはっきり認識させられた。
日本で生活する中で海外から来たひと達と話す機会があったとして、彼らはあくまでゲスト、僕らはホストという立場だったので意識せずにいられたのだが、同じゲストという立場同士になるとこうも関わってこようとしないものなのかとかなりのショックを受けた。
同じぐらいショックだったのがイスラエル人やイギリスの黒人が白人グループではなく僕らのグループに来たことである。イスラエル人は見た目白人と変わらなく思えるし、黒人にいたっては拙い英語の僕らより、はるかに白人グループの方が意思疎通できると思うのだが、彼らからすると居易さの基準は肌の色のようだった。それまでの僕の中でのボーダーが一瞬にして変わったのがわかった。「日本人」と「外人」と区別していたのが「白人」と「カラーズ」。そして自分は「カラーズ」なんだと理解した。
4
僕たちの乗った飛行機はビーマン・バングラディッシュ航空というかなりマイナーな航空会社でその知名度の低さを物語るかのようにビックリするほどみすぼらしい機内だった。なにしろ驚かされたのが、前のシートに備え付けられている酸素マスクが飛び出さないようにビニールテープで押さえつけられていたのである。弥が上にも緊張は高まっていた。
そんな機内を見回すとバックパッカーらしい日本人がけっこう乗りこんでおり、一般的にはマイナーでもインドを目指すバックパッカーにはメジャーな路線だったようである。そんな機内ではみんな進んで話しかけあい、お互いの情報交換をはかっていた。いろんなバックパッカー達と話しているとどうやら貧乏旅行には王道のステップがあるようで、1年目は中国、2年目もしくわ3年目にインド、4年目は南アメリカというふうにあらかた決まってるらしく、どうやら僕たちは第1ステップをすっ飛ばして来てしまっていた。会話したほとんどの人が僕たちを心配していた。
そんな話をしているとあっという間に飛行機は着陸態勢に入っていた。
窓を覗いて見ると、そこには目の前いっぱいに外国が広がっていた。
バンコクに到着したのは現地の夕方だった。
バスで市内に向かうのが一番安いのだが、同じ方向に向かう人たちを何人か集めて僕たちは「トゥクトゥク」に乗って空港を後にした。
トゥクトゥクというのは以前日本でも走っていた3輪の自動車とバイクの中間みたいな乗り物でタイでは普通に今も活躍していた。
バンコクにいればいくらでも乗れるのだろうけど、僕たちはどうしても真っ先に乗ってみたくてしかたなく、当初から決めていたのだ。
夕暮れのバンコクの街は生まれて初めての異国だというのになぜだか懐かしく感じていた。
目に映るもの全てが違う文化であること理解しているのだが、記憶の奥の奥を刺激されるような感覚に陥っていた。
3
トコロは愛知県の岡崎出身で僕たちと違い京都の有名大学に通う受験の勝者だった。
やはり変わり者ではあったが、思慮深くボキャブラリーも広く一緒にいて飽きることは無かった。
ただ彼らと付き合うにつれ、彼らに対して次第に劣等感をつのらせていっていた。
そんな彼らと付き合うようになって暫く経ち、1年のクリスマスが近い頃になるとタケシとトコロの間では一つの話題が中心となっていた。
「海外旅行」の計画である。
当時はバブル絶頂の時代で、海外旅行といえばハワイや香港あたりに買い物に行くツアーぐらいなもので、貧乏学生の僕たちには縁の無い話と思っていた。
そのころの僕はそういう先入観もあり、その話題になったときはほとんど会話に参加せずにいたので、彼らがいったいどういう計画を立てていたのか想像もしていなかった。
そんなある日、彼らは突然僕に言ってきた、
「一緒に行かない?」
「はっ?」
正直驚いた。全く興味を持っていなかったし、僕とは関係の無い世界の話と思っていたからである。
「行くって、金無いし、、」
「貧乏旅行だから大丈夫だって!」
「はっ?」
僕の頭の中は混乱していた。海外旅行と貧乏旅行が全くイコールにならなかったからである。
そして彼らは僕に計画を話し出した。それは当時の僕にとっては想像もつかないものだった。
期間は春休みに約1ヶ月半。目的地はインド。
タイのバンコクまでの往復の格安航空券だけを日本で購入し、バンコクからインドまでのチケットはバンコクで調達する。
インドではデリーから入り陸路でネパールを経由してカルカッタまで行くというものだった。
トコロは大学の探検部に所属しており、そういった情報には事欠かなかったようであった。
旅行期間にも行き先にも方法にも驚きっぱなしであった。
当時はまだ格安航空券というのはメジャーでは無く一般にはまだまだ認知されていなかったし、僕の知識の中での海外旅行の期間は4泊5日程度が関の山であった。
彼らの計画上での旅行代金の総額は30万に満たないものでそれでも余裕をもった額で計画されていた。
僕も直感的に面白いと感じ、一気に話しに引き込まれていった。
それからというものは旅行代金の工面の為バイトに明け暮れる日々が続いていたが、つらさは全く無かった。確かに不安もあったがそれ以上に期待のほうがはるかに大きく、それは僕の想像の全く及ばないものだった。
正直僕はインドもネパールもタイもそれほど興味を持っていなかった。ただ、知らない土地に1ヶ月半もの間身を置ける。それだけでじゅうぶんだった。
僕たちは着々と準備を進めていった。金銭的はもちろんだが、大使館にヴィザを取得しに行き、予防接種もかなりの数を打ちにいった。そのひとつひとつを自分達で消化していく、それだけでも楽しくてしょうがなかった。
2
京都での大学生活が始まりはしたものの、しばらくは平凡な日々が続いた。
僕が行っていた学校は京都と言っても市内から峠を一つ越えたところにあり恐ろしく喉かな田園風景の中にあった。東京で育った僕にとっては物足りなく思うところは多分にあった。
そんな三流大学に地方から入学する変わり者は極端に少なく、関西の独特なノリにもなかなか着いて行けず、孤独感を感じる日々が続いていた。
それでも1年夏休みが近づく頃には7・8人のグループができ行動を供にするようになり、正に類は友を呼ぶというところなのかクセがある連中が集う結果となっていた。
その中でも静岡出身のタケシという奴に僕は興味を抱いていた。
まず読書量がすごかった。。空いた時間は何らかの本を常に読み小説なら一日に一・二冊は毎日読んでいた
恥ずかしながら僕には全くそんな習慣は無く、どちらかというと進んで遠ざけていた方だったから、それを自ら好んで行うことが僕には信じられなかった。
非常に道徳的でもあった。
ある朝、駅で学校行きのバスを待っていたとき一人の友人がバスが来るのを確認しようと待合所のベンチに上がった途端タケシは激怒したのだ、
「ここは座るところで立つところじゃない」
タケシはその友人の行動が許せなかったらしく、その日はそのまま学校へは行かずに帰ってしまった。
僕にとっては衝撃であった。
友達であろうと間違ったことは間違いだというべきなんだと。今までの僕の周りにそんなタイプはいなかった。友達がちょっとおかしなことをやったとしても「まぁ良いっか」と流すのが当たり前だった。
僕はタケシのそういう実直なところを含め次第に尊敬していった。タケシにしても自分の真直ぐなところを認めてくれている僕といることが居心地が良かったのか、グループの中でも二人で行動することが多くなっていった。
入学当初からタケシはあまり学校には来ずバイトに行くことの方が多く、次第にタケシに会いたいときはタケシの自宅に行くことが多かった。
タケシの自宅というのが今時珍しく絵に描いたような学生寮で四畳半一間で便所と風呂は共同という代物であった。
僕らはいわゆる団塊ジュニアで受験でも倍率がすごかったのだが、受かったら受かったで京都のような学生の多い街だとちょっと出遅れると住むところもままならなく、タケシは見事に暢気に構えてたせいで60年代か70年代を思わせるようなとこに住まざるを得なかったようだった。
ある日、その昭和の学生寮でタケシと話していると、突然に
「そうだ、向かいの部屋の奴面白いんだよ。ちょっと会ってみない?」と、
誘われるがままについて行き、タケシはノックもせずにいきなりドアを開けると
そこにはパンツ一丁で大音量のジョニーBグッドをかけながらツイストを踊っている男がいた。
「おぅトコロ」
「おぅタケシ」
二人は普通に会話をしだした。もちろんトコロはツイストをやめなかった。
1
今、僕はオーストラリアのシドニーに近いキングスフォード・スミス空港にいる。
海外は今回が初めてでは無かったせいか落ち着いていた、というよりも
日本のわずらわしい生活から開放され晴れ晴れとしていた。
住むところも仕事も何も決まっていないというのに、、、
僕は今まで平凡に生きていた。
普通に学校に行き、そこそこ勉強も出来てそれなりに有名な高校にも行っていた。
ただ、満足することは何も無かった。
「このまま大学に行って何になるんだろう?」
漠然とそんなことを考えるようになっていると自然と高校に行かなくなっていった。
いつしか毎日バイクに乗ってふらふらするだけの生活をするようになっていた。
今思えば、周りからはいわゆる不良に見えていただろう。
僕自身としてはいたって落ち着いていた。
純粋に大学に行く理由が無く、専門行くか就職しようと決めていた。
そうなると進学校というのがやっかいになっていった。
そんな僕を親はずっと黙ってみていた。
時期が来れば自然と勉強し大学には行くものだと高を括っていたようだった。
それでも受験シーズンになってもいっこうに動こうとしないのを見て初めて僕が本気で大学に行く気が無いことに気付くと猛烈な説得が始まった。
僕は親の説得に負けた。
何年もまともに勉強していなかった為現役で受かるはずも無く、1年の浪人の後実家の近くの東京ではなく京都の大学に行くことに僕はなった。
どうしても地元の大学に行くのが嫌だったからだ。
適当にサークルに入り、コンパなんかに参加して面白おかしく、、、
そんなのだけはゴメンでだった。
1人になって考えたかった、それには京都という街は合っているように思えた。
そして僕の京都での大学生活が始まり、僕は変わっていった。
