【精神崩壊】私が経験した虐待の後遺症 対人恐怖症、自己批判、 私が経験した虐待の後遺症 | 脱綺麗事ブログ

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【精神崩壊】私が経験した虐待の後遺症 対人恐怖症、自己批判、 私が経験した虐待の後遺症

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精神崩壊
私が経験した
虐待の後遺症



このチャンネルは、AIの凄さを伝えて利用者を増やすことを目的としておりますが、私の一番の望みは、虐待の被害を減らすことです。
本当は、全て自分の言葉で動画を作りたいのですが、無理をすると情緒が不安定になり、言動が攻撃的になってしまうので、AIの力を借りてきました。

AIは非常に優秀ですが、私の過去の代弁まではできません。
なので今日は、また私自身の言葉で、私自身が経験した、虐待の後遺症について話したいと思います。

実体験を語る時、人はどうしても主観的になってしまい、自分に都合のいいように、記憶を捻じ曲げることがあるため、これから書くことが全て真実だとは限りません。
虐待を本当に克服したいのであれば、個人的な意見よりも、統計データや精神医学を参考にした方がいいと思っています。

また、人間の行動には、遺伝の影響も含まれるため、私が思う後遺症の全てが、環境要因だと言い切ることもできません。
人間の認識の範囲内で、できる限り客観的に、書いていきたいと思います。



まずは、私が生まれ育った環境について、話したいと思います。
私は1980年代に東大阪で生まれました。

父からは、精神的虐待と軽い暴力を受け、母からは、宗教的虐待を受け、そして治安の悪い地域では、イジメを受けながら、生きてきました。
その中で、最も強く影響を受けたのは、父親だと思っています。

父は母に比べて頭が良かったので、父の言う事を聞いていれば、自分も幸せになれると信じていました。
ですが実際は、父は精神的に大きな問題を抱えており、子供が最も関わってはいけない危険な人物でした。

父は、愛情のかけらもない、冷酷な人間でした。
私は父から全てを否定され、自己肯定感を完全に失いました。

父の印象は、殺意を感じさせる睨みつけ、事あるごとに舌打ち、突然キレて理不尽に怒鳴りつけてくるといった感じで傷つけられた思い出しかありません。。
父には当然敬語で話し、叱られる時は1時間近く正座をさせられ、ずっと責め続けられました。
基本的に無口で、普通の家族の会話はできず、感情の起伏の激しさから、おそらく境界性人格障害を患っているのだと思います。

母には愛情がありましたが、宗教に依存しており、家族へも押しつけてくるような人でした。
宗教が原因で、よく母と父が怒鳴り合いの喧嘩をしていました。
また、怒ることは因縁を作る悪い行為だと言いながらも、私が目の前で父から理不尽に怒鳴られている時も、ただ見ているだけの人でした。
優しさはあっても、とても頼りなく鈍感で、非科学的な思想を押し付けてくるような人だったので、心から信頼することができませんでした。



そのような両親に育てられた私は、会話も勉強もまともにできない、落ちこぼれだったため、学生時代、よくバカにされイジメられていました。
自分には知的障害があると感じながらも、高すぎるプライドと、自分の欠点は誰にも知られたくないという気持ちから、誰にも相談できず、必死に隠しながら生きてきました。

私が思う虐待の後遺症を、発症した順にまとめると、
対人恐怖症、場面緘黙、完璧主義、自己批判、八方美人、無条件の許し、回避性人格障害、自己愛性人格障害、発達障害、学習障害、人間不信、学習性無力感、不眠症、ゲーム依存症など、多岐にわたります。

対人恐怖症は、幼稚園児の頃から見られ、小学生の頃から、ほぼ全ての症状に悩まされており、これらの症状は、無条件で自分の価値を受け入れて、自己肯定感を回復する25歳まで続きました。
これらの症状について、解説していきたいと思います。



対人恐怖症・場面緘黙
父から理不尽に怒鳴られ過ぎたため、嫌われることや怒られることに、過剰に怯える子供になりました。
物心がついた3~4歳頃から、人がなにをきっかけに怒るのか分からず、他人を怒らせないよう気を使いすぎて、普通の会話ができず、悩んでいました。

場面緘黙とは、あがり症のようなもので、家族とは話せるのに、家族以外の人とは上手く話せなくなる症状のことです。
人前で上手く話せず、過度に緊張してしまう、自分の弱い性格が嫌いで仕方ありませんでした。
恐怖と恥の感覚が強すぎて、自分の意思ではコントロールができませんでした。

小学生前期は、自分の努力次第でなんでもできると強く信じる子供でしたが、
どれほど努力しても、対人恐怖症を克服できなかったため、小学生後期からは、人間の自由意志に疑問を持つようになっていきました。



完璧主義・自己批判
親の言う事を聞くのがいい子供だと言われて育った私は、父の言動から全ての善悪を判断していました。

父は本当に些細なことで怒鳴るので、指先一本の動かし方にまで気を使い、常に気を張って生きてきました。
父からの愛情に飢えていた私は、父から認められるために、絶対に失敗をしない完璧な人間になるために、努力をしてきました。

また、自己批判も徹底し、一度でも父を怒らせた言動については、今後二度と行わないために、毎日毎日、その言動を行った自分は最低だったと、自分を責め続けていました。
例えば、私が自分の意見を言った時に、父から黙れと怒鳴られた時には、意見を言う事は、人を怒らせる悪いことだと思い、二度と自分の意見を言わないために、自分を責め続けるといった感じです。
その後も、私のあらゆる言動に対して、父から怒られ続けたため、最終的に、私は何もできなくなり、なんのために生きているのか、わからなくなっていきました。
私としては、人を怒らせない人間になるために、努力していたのですが、なにもしゃべらず、なにもしない私は、学校の同級生からすれば、なんの努力もしない人間だと映っていたと思います。

また、父はプライドが高かったため、私が父の能力を超えると、そのせいで父を怒らせる可能性もあったため、どこまで自分を成長させればいいのかという悩みもありました。
私の背が父を超えた時も、「背ばっかり伸びて、偉なったのう」と睨みつけられた記憶があります。



八方美人・無条件の許し
母は私に、人から好かれる子供になって欲しいと望んでおり、私も人から好かれることに幸福を感じていたため、母の期待を超えて喜ばせようと思い、全ての人から好かれる人間になろうと心に誓いました。
人間には共通する絶対的な善が存在し、全ての人が好む完璧な善人になることさえできれば、全ての人から好かれるだろうと信じていました。
具体的には、常に明るく真面目で優しい人間であり続け、周りに優しさを配り続ければ、与えた分だけ返ってくるはずだと勝手に思い込んでいました。
大人が作った様々な綺麗事、「子供を愛していない親などいない」「話し合えばどんな人ともわかりあえる」「優しい人間が幸せになれる」「努力すればなんでもできる」などの言葉を真に受けたバカな私は、生地獄を味わいました。

父がどれほど冷たい人間だとしても、私が愛情を注ぎ続ければ、いつかはきっと優しい父親に変わってくれるはず。
そんな期待を抱いていましたが、どれほど父に愛情を注いでも、怒られるばかりで愛情は一切返ってきませんでした。
普通は喜ぶようなことをしてあげているのに、怒鳴られるという経験は、とても辛いものでした。

また、学校でも同様に、人に気を遣ってばかりの気弱な私は、ただなめられてバカにされるだけでした。
ですが、当時の私には、もっと優しくすれば、相手も優しい人間になるはずだという思い込みがあり、地獄のループにハマっていきました。

また母から、怒ることは悪だと教わったため、父や同級生からの暴言や暴力で傷つけられた時にも、無条件で相手を許してきました。
男子生徒のほとんどは、周りの迷惑など考えず、自分がやりたいことをやるといった、自己中心的なタイプでした。
そして、自分を傷つけた相手を無条件で許すという行為も、子供の私にとってはとても辛く、ずっと心の中で怒りがくすぶっていました。
内心では、なぜこんな奴らを、無条件で許さなければいけないんだと思いながらも、いい人でありたかったので、我慢をしてきました。
こんな奴らを許せる自分を、いい人間だと思うことで、自分に価値を感じていたんだと思います。
最終的に、人といると、気を使いすぎて疲れるため、人と関わらないようになっていきました。



回避性人格障害・自己愛性人格障害
回避性人格障害は、対人恐怖症とほぼ同じで、とにかく傷つきやすかった私は、傷つく可能性のある人間関係を全て避けてきました。
ただでさえ、自己無価値感で生きるのが辛いのに、友人からのからかいやブラックジョークを受け流すことはできませんでした。
私の生真面目な性格と、大阪というボケとツッコミやノリの良さを重視する社会との相性は、最悪だったと思います。
私にとって一番楽だったのは、初対面で気を使い合っている時だけで、徐々に仲良くなってきて、相手から気を使われなくなってくると、ストレスを感じるようになっていきました。
このように感じたのは、常に相手に気を使い続け、謙遜や卑下をし続ける人間こそが、本当の善人だと、勝手に思い込んでいたためです。

自己愛性人格障害とは、私の場合、自分が誰よりも優れていると思い込むことで、自分に価値を感じようとする精神状態のことです。
私は傷つきやすかったくせに、他者を見下したくて仕方ない衝動に駆られることがあり、無意識に小馬鹿にする言動をとっては、多くの人を怒らせてきました。
父からバカにされすぎていたので、他人のちょっとしたミスを馬鹿にせずにはいられない状態になっていました。
また、大阪のテレビ番組などの、バカにし合うコミュニケーションを、雑に取り入れてしまっていたことなども関係していると思います。



発達障害・学習障害
小学生の頃から、先生の話を聞き続けることが難しいと感じており、ノートに書き写しはしていたものの、頭に一切入っていないことが多くありました。
真面目系クズと呼ばれるネットスラングがありますが、私がまさにこれで、一見真面目なバカでした。
父が厳しかったので、教師にも怒られないよう必死にノートを取るのですが、恐怖心が強すぎたせいなのか、思考が停止しているといった感じです。
常に頭がボーッとしている感じで、ADHDの注意欠陥障害のようなものだと思います。
また、本を読むのも苦手で、意味が頭に入ってこないという感じもありました。
友人間との会話も、知らないことが多すぎて、会話がスムーズに進まないことが多々ありました。
発達障害の原因はまだはっきりとしていないそうですが、遺伝が原因であると言われています。
ただ、虐待によって、発達障害のような症状が引き起こされることもあるとされているようです。
成人してから知能検査を受けたのですが、IQは正常で、異常は見られないと告げられました。
20歳頃から本を読み始めた習慣のおかげで、知能が平均へと近づいたのだと思っています。



不眠症・ゲーム依存症
夕食時に疲れて寝ているところを父親から蹴飛ばされたことで、寝ることは悪いことなんだと思うようになり、不眠症になりました。
この時の私は、意地でも父から努力を認められようとしていたため、頭がおかしくなっていたのだと思います。
例え健康を失ってでも、父から愛されるのであれば、それでいいという考えでした。
父はここまで冷たく振る舞うんだから、恐らく本当の父親ではないとも考え、母からカミングアウトされることを想定し、本当の父じゃなかったとしても、父を愛し続けようと思っていました。
愛する価値のない人間に、なぜあそこまで執着してしまったのか。
今考えると、気持ち悪くて仕方がありません。
人を嫌うことも悪いことだと考えていたことや、遺伝的な生存戦略により、親から愛されようとしていたんだと思います。

また、対人恐怖症により、イジメで悩んでいた頃、父に、やり返したいから空手がやりたいと相談したことがあります。
すると、父はテーブルを叩きつけ、空手は、人を傷つけるための道具じゃない!と怒鳴り、自分の部屋に帰っていきました。
この経験から、父には愛がないのだと確信し、それまで好かれようと必死だった私が、父に殺意を抱くようになっていきました。
その後、母にも人間関係で悩んでいることを伝えると、相手の幸せを神に祈るよう言われました。
私の両親は、自分の子供より他人の子供を大事に思っているんだと受け取り、両親の愛を疑うようになっていきました。
それまでも、父から、人に聞かずに全て自分の頭で考えろと怒鳴られて育ってきた私は、今後は絶対に他人に相談せずに、一人で考えて乗り越えて行こうと心に誓いました。

それからは、父に無言で反抗するようになり、長時間ゲームをし続けるようになっていきました。
元々ゲームは趣味でやっていたのですが、イジメと虐待のストレスが重なり、暴力的なゲームにのめり込むようになっていきました。
この頃は、すでに人間関係で幸せになることを諦めていて、ゲームで幸福になろうとやっきになっていました。
当時の私の幸福論とは、自己満足的なものではなく、他者と比較して、より多く楽しんだ人間こそが、本当の幸せ者なのだと思い込んでいました。
そのため、ゲームを楽しむというよりも、ゲームを誰よりも長時間やっている自分は、幸せなんだと思い込もうとしていました。
そうして、小学生の中期頃から、目に酷いクマを作るようになっていき、どんどん体調を悪化させていくことになりました。
不良からのイジメは、小学、中学、高校、専門と、20歳になるまで続きました。



人間不信・学習性無力感
父の虐待は、中学生の中頃まで続きました。
私は父親をコロしたいほど憎みながらも、心のどこかで愛されたいという思いをまだ持っていました。
そして、私は父がやっているスポーツ競技と同じクラブに入り、父は嬉しかったのか、高価なラケットをくれました。
練習に励み、成績は悪い方ではなかったと思うのですが、ある時、偶然ラケットに傷をつけてしまい、折れそうになってしまいました。
そのことを父に相談するか、とても悩みましたが、正直に話せば、父もわかってくれるはずだと、淡い期待を抱いて、修理してもらうため、相談することにしました。
案の定、父の逆鱗に触れ、わざとぶつけたわけじゃないと何度言っても、話を信じてもらえず、また殺意を感じさせる異常な剣幕で怒鳴りつけられました。
この時に、私の心は完全に壊れ、人間不信と、学習性無力感の状態となり、全てのことがどうでもよくなり、なにをする気力もなくなってしまいました。
それまでも、家の物が無くなったり壊れたりすると、どうせお前がやったんだろと、なんども父から疑われ、傷つけられてきましたが、この一件のダメージは特に大きかったと思います。
何を言っても親から信じてもらえないことが、何百回も続けば、どんな子供でも、人格になにかしらの異常が出るのだと思います。
また、そんな時に限って、クラス中の男子が怯えるようなイジメっ子から、執拗に嫌がらせを受け、自分がシぬことはもちろん、相手をコロすことも本気で考え、学校にナイフを持っていくこともありました。
母親や兄弟がいたから、ギリギリで持ちこたえることができたのだと思います。
それからは、不眠症も悪化し、不規則な睡眠生活のせいで毎日のように金縛りにあい、女の声が聞こえるといった奇妙な体験もしました。
それほどまでに、心身とも疲れ切っているのに、ゲームはやめられず、視力も落ち、学力も落ち、本当に、人生のどん底状態でした。
一人の中学教師は、私の異常さに気づいていましたが、担任ではないから、相談には乗れないと去っていきました。
中学生の頃から、酷い眼精疲労に悩まされ、底辺高校生の頃から、目を使うと心臓に圧迫感と倦怠感を感じるようになり、Fラン大学卒業後は、目を開けるだけで心臓に痛みが出るようになり、手足が痺れたり、呼吸困難になることもあり、その後はほとんど寝たきりのような生活を送ってきました。
この病気は、症例があまりないためか、医者の中にも理解者がおらず、途方に暮れています。
数年前に眼瞼下垂というまぶたの手術をしましたが、症状は変わらず、今も目と心臓の後遺症に苦しみ続けています。

その他にも、眼精疲労が悪化するたびに、便秘と腹痛を引き起こす、過敏性腸症候群が酷くなり、S字結腸で激痛がおき、脳の血が大腸に奪われて、失神しかけたり、目や耳が機能しなくなったり、痛みのあまりシんで楽になりたいと思うことも度々ありました。
今は、酸化マグネシウムなどのおかげで、かなり楽になりました。



無価値感・自己否定感の克服
私が長年苦しんでいた根本的な原因は、一言で言えば、無価値感、本当の自分を受け入れられないことで起きていました。

父親の厳しすぎる精神的虐待により、
誰よりも優れていなければ、自分には価値がない
誰よりも好かれていなければ、自分を愛してはならない
根拠もなく自信を持つことは、甘えであり、自惚れに繋がる
そのような思い込みがあり、ありのままの自分を受け入れられませんでした。

また、過去の私は、父同様、他人を認めたり、自分のミスを認めることが全くできず、そのことが原因で何度も人間関係でトラブルを起こしてきました。
他人の優秀さや、自分の失敗を認めてしまうと、自分が無価値であることを認めてしまうことになると思っていたからです。

私が抱えていた多くの精神的な問題は、心理学的な正しい知識を得ることと、信頼できる他者から肯定される経験、そして、自分の価値を無条件で受け入れられるようになったことで解消していきました。
自己肯定感が完全に回復したのは、人間関係にシぬほど悩み、人に頼らないというプライドを捨て、心理学の本を読み始めた5年後の、25歳の朝でした。

それまでの私は、誰のことも信じることなく、自分一人の力だけで、自信を得ることを目標に、持病と闘いながら図書館で答えを探し続けていました。
勉強し続けて他の人たちよりも賢くなれば、自分で自分の存在価値を受け入れることができるようになり、自信が持てて、対人恐怖症も克服できると考えていました。

ですが、どれだけ知識を得ても、安定した自信を得ることができなかったため、一人で自信を得る方法を探すのをやめると決めた次の日の翌朝、目が覚める直前に、無条件で自分の存在価値を受け入れることができるようになり、それから一週間、ずっと探し求めていた自己肯定感が回復した感動で、泣き続けました。

目に見えない現象なので、上手く言葉に置き換えることはできないのですが、能力によって自分の価値をはかることをやめたことや、母との信頼関係が回復しかけていたこと、また無条件の自己受容は、決して成長を止めるわけではないことに気づいたことなどが、自己肯定感の回復に重要だったのだと思います。

無条件で自分を受け入れるという行為は、母の神を無条件で信じる行為に似ていたため、そんな宗教的な行為を、私ができるわけがないと思っていました。
私の無意識は、私自身を受け入れようとしていたのに、私の意識はそれを拒み続けていたんだと思います。
この時の私は、心身がボロボで、過労シしそうな状態だったので、本当の自分を否定しながらシぬか、無条件で受け入れて生きるかの二択しかなかったのだと思います。

ここでいう自己肯定感とは、自分を大好きになるということではなく、自分らしさを欠点も含めて、そのまま許して受け入れるという感覚に近いものだと思います。
この精神状態になったことで、精神的ストレスは誇張なしに、100分の1程度まで下がりました。

対人恐怖はもちろん、顎関節症や、不眠症、自己愛性人格や回避性人格、人間不信、ゲーム依存症など、あらゆる精神病が、劇的に改善しました。
その後は、しばらく躁うつ病のように、ポジティブとネガティブを行ったり来たりしていましたが、徐々に安定していきました。

他人の目が気にならなくなり、自分の欠点を受け入れられるようになるのは、本当に楽で、恵まれている状態だと思います。
生きているだけで幸福を感じられるとは、このような感覚をいうのだと、初めて知りました。
ですが、もし、私が父から虐待を受けていなければ、今も持病に苦しむことなく、はじめから本当の自分を受け入れることができていたと思います。

両親を別れさせる時の最後の家族会議の時でさえ、父は終始無言でした。
結局、一度も謝罪をされることはなく、父との縁を切りました。



親たちが、自分の子供を無条件で愛し、あなたがいてくれるだけで、私は嬉しいというメッセージを伝えていれば、日本の子供がここまで自シすることもなかったのではないでしょうか。

誰か一人でも、父や母の問題に気づいて、注意してくれる人がいれば、私の人生はもっと変わっていたのではないかと思ってしまいます。
もっと、私が小さい時に、誰かが父に、行き過ぎたしつけを反省させ、謝らせてくれていたら、私はどれほど救われていたか。

また虐待をする親の中にも、過去に虐待を受けて精神を病んでいたり、どうしても自分の子供を愛せないといった方もいると思います。
そのような人たちが、本音で相談できる場所も、また必要なのだと思います。

私の父もそうでした。
母と結婚する前に、父は、自分は上手く話すことができず苦しんできたと、泣きながら母に話したそうです。

日本は世界的に見て、自己責任論が強い傾向があります。
それにより、犯罪が減るといったメリットもありますが、同時に、自シやうつ病などの、精神病の増加にも繋がっていると言われています。

虐待をする親だけに全ての責任を背負わせるのではなく、人間は皆、遺伝と環境から多大な影響を受けているという事実を受け入れて、あるのかないのかはっきりとはわかっていない、自由意志の力に頼りすぎることをやめるべきだと、私は考えています。

人間は成功した途端、すぐに自分の努力に自惚れて、自分よりも不幸な立場の人たちの存在を忘れ、努力すれば誰でも成功できると言いがちです。
そこには、生存者バイアスという思い込みがあり、それは、失敗した人たちを見ようとせず、成功した人だけを見ようとする人間の誤った認識のことです。
綺麗事で頑張れるのは、恵まれた人たちだけです。



苦しみのあまり、自らシを選択した人たちの声は、私たちには届きません。
難しいことですが、そのような、目には見えない人たちの存在を想像することが、より現実を正しく認識する上で重要なのだと思います。

成功者がすべきことは、上から目線で努力の大切さを語ることではなく、努力する気も失せるほどの、劣悪な環境で苦しんでいる人たちのために、誰もが努力したいと思える環境を提供することではないでしょうか?

子供たちの環境をよくするためには、なによりも、大人たちの育児や教育の質を上げることが重要だと思っています。
国はお金を配るだけではなく、親の意識の向上にも、励んでいただきたいと思います。
子供を不幸にする、歪んだ考えを持った大人の考えを、変えられる人間が、この国には必要なのだと思います。

虐待という目には見えない苦しみを、少しでも理解して頂ければ幸いです。
ご視聴ありがとうございました。