【はじめに】

自分の「文学論」とまでは言わないけれど、本に対する考え方を深掘りしてみたいと思ったので、今まで読んできた作品の中で「傑作」と呼びたいものをランキングにしてみます。

小説や文学などで、「どうしてこの作品がこんなに評価されてるの??」と思う事が、私は多いです。読書の幅が狭いせいなのか、ただの逆張り人間なのか。まだ大学生なのに、頑固じじいのような厳しすぎる視線を、文学作品に向けてしまいます(笑)。本が好きで、こだわりがある証拠かも知れませんね。友人と本に関することで議論になる事も多々あります。

よく友人には「小説は人によって好みがあるから」と言われます。確かにそうなんですが、「好きな作品」≠「よい作品」だと思うんです。※ここからとても抽象的な話になるかもしれません。読み飛ばしていただいてもよいです(笑)。

「好き」いうのは、とても特殊で、個別的ですよね。言うなれば、ある時代・ある個人の性(さが)に合っている、性癖に刺さっている、といった状態でしょう。それが悪いと言うのでは無く、自分の直感で好きと感じた作品は愛せばいいんです。推せばいいんです。しかしそれを「よい作品だ、神作品だ」と主張されると、違和感を覚えてしまうんです。

一方で「よい作品」とは、「傑作」なんです。一般的で、普遍的なんです。いつの時代、誰が、どこで読んでいたとしても刺してくる。これが傑作です。ここで注意たいのは「全員を刺す作品」と「全員に刺さる作品」の違いです。前者は物理法則のように皆の心を刺す傑作です。後者は「人気作品」とはいえるかもしれませんが、あくまで「人々に共有された好み・特殊」であり、傑作とは違います。

私の使う傑作という言葉と、世間一般で言われる「傑作」の言葉のズレを説明しておきたかったのです。私の言う傑作とは空想上のもので、実際にある訳ではないです、恐らく。世間の「傑作」は、私の言う傑作に近しい物のことです。完璧な文学は有り得ないでしょうから。

だから本当の意味で完璧な傑作というのは無さそうですが、それでも傑作に近しい物はいくらかあります。今日は、私が読書の中でみつけた「傑作」を、ランキング形式にしてみようと思います。

 

【第5位】

第5位は、シェイクスピア(1564-1616)の『リア王』。

 

イングランド国王であるリア王は、三人の娘に国土を相続しようとしていた。最も王を愛している物に、最も大きな土地を与えるという条件を示し、父親への愛を娘たちに訊いていく。長女ゴネリルと二女リーガンは美辞麗句を尽くし、王への愛を宣言する。王はこれを大変気に入り、遺産を与える約束をしていく。三女コーディリアは、王からの質問に "Nothing, my lord." と答える。意味は「別段何もございません、王様。」といったところだろうか。王は激怒し、コーディリアとの縁を切る。実は、コーディリアがこのように答えたのには理由があった。彼女には、本当の愛は言葉で表せるものでなく、また、愛は言葉にされる必要もない、という信条があったのだ。本当に父親を愛しているのは誰なのか。愛をテーマとしたシェイクスピア四大悲劇のひとつ。

 

『リア王』はまた別の記事を作ろうと思います。シェイクスピアの他の作品には、『マクベス』『ハムレット』『オセロー』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』などなど、有名なものがたくさんあります。また、色々な作品でオマージュされていたり、現代でも上演がされていたり、世界中に研究者がいたりと現代でもその魅力は衰えません。古典だからといって読みづらいわけでもなく、純粋にプロットが面白いのでむしろ読みやすいと思います。おすすめはちくま文庫の松岡和子 訳です。シェイクスピアの『オセロー』は過去に記事にしているので、リンクを張っておきます。

 

 

 

 

 

 

【第4位】

第4位は、ショーペンハウアー(1788-1860)の『読書について』。なんと、哲学書です。普段哲学書は読まず、この本を手に取ったのも本当に偶然の出会いだったのですが、面白い主張がされていました。この本の主張を一言で言うなれば、「哲学書なんか読むな」という事です。この本は二作品を前提として書かれた一連のものだったと思います。もう忘れてしまいましたが。それぞれ『思索』『著作と文体』『読書について』という翻訳がされていました。『思索』で主張されていたことをざっくり書くと、「よく考える事、すなわち思索をすれば、ほとんどの人は同じ答えにたどり着く。だからといって思索をショートカットして他人から答えを得ようとしてはいけない。他人の思索を記憶することは化石を調査するようなものであり、本当に大切なのは自分の中に生きた考えを持ち続ける事、思索し続ける事だ」ということ。他の二部もこれらに関連するような内容で、非常に論理的で明快な主張がされていました。

内容が詰まっている割にページ数が少なく、エッセイのように読めます。哲学書であるにもかかわらず「哲学書を読むな」という主張をする、といったような自己矛盾が所々見られますが、概ね誤りがなく、専門用語が一切なく、そしてなにより面白い本でした。「哲学すること」とは何かを教えてくれる一冊です。

 

 

 

 

【第3位】

第3位は、宮沢賢治(1896-1933)の『やまなし』。小学生の国語の教科書にも載っている作品ですね。文章が簡単で読みやすいからと言って侮ってはいけません。宮沢賢治は生と死をテーマに扱う作品が多いですが、『やまなし』はそのテーマを感じさせないほど自然にそのことが表現されています。利己と利他、時間の流れ、命の循環、そもそも命とは何か、といったことを真っ直ぐに問い直す作品です。

 

 

【第2位】

第2位は、夢野久作(1889-1936)の『ドグラ・マグラ』。日本三大奇書とも言われる作品の一つで、この本を読んだものは必ず精神に異常をきたす、と言われていますね。この作品はグロテスクな表現や文体、プロットの分かりずらさ・分からなさに焦点が集まりがちです。そういった文章の技術的な点もこの作品の魅力ですが、この作品の本質はそこではないのではないのかなと私は思います。これはまた今度一つの記事にします。語れない事が多すぎる、そんな作品です。歌の部分はかなり読みづらく苦戦しました。私はyoutubeの朗読チャンネルからリズムを聞き取り、何とか読み切れました。ですが、読んでよかったです。まあ、また別の記事で。

 

 

 

 

 

【第1位】

堂々の第1位は、ドストエフスキー(1821-1881)の『カラマーゾフの兄弟』。言うまでもなく、傑作です。バイブルと言ってもいいです。長いことが唯一のが欠点かも知れません。途中に出て来る異端審問官の挿話の部分が最重要です。翻訳者は誰がいいのかという議論があるそうですが、私は原卓也さんの翻訳が好いかなと思いました。最初に手に取ったのがこの方の本だっただけですが、評判は良いようです。要約でも何でもいいので、死ぬ前に是非、何かしらの形で触れて欲しい作品です。

 

 

 
 
 

 

 

 

【あとがき】

今回は傑作という事で、客観的に多くの人を「刺す」であろうおすすめ本を紹介しました。自分の好みにぶっ刺さった本たちも、いつか紹介できたらなと思います。