戦国時代から安土桃山時代、ポルトガルなど外国人の宣教師が日本を訪れて、九州なかでも今の長崎県には、仏教からキリスト教(カトリック)へ改宗する人が増えました。ところが、江戸時代になって幕府はオランダと清朝以外との交易を禁止して、さらにキリスト教への信仰を禁止しました。
江戸幕府は「踏み絵」(聖母マリアなどの絵を踏ませて、キリスト教徒でないことを確認させる)などの厳しい措置をとりました。しかし、それでも、仏教を信仰していると見せかけて、キリスト教信仰を隠れながら続けていた人たちが長崎県には多かったのです。
これを、「隠れキリシタン」と呼びます。
上記の画像は、仏教の慈母観音像ですが、隠れキリシタンは、聖母マリアに見立てて信仰の対象としていました。
ここからは、Wikipediaの引用です。
江戸時代潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教や神道、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするものに変化していった。
このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず、今なお独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する。現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」などと呼んでいるが、学術的には、これを「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)と呼ぶ。
これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「カクレキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している。
少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があったり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。
最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や五島列島、さらに平戸市の平戸島や生月島(旧北松浦郡生月町)などの地域が挙げられる。
興味深いことに、明治以降にカトリックが解禁されても、仏教や神道などと混交した独自の信仰を守り続ける人の方が多数派だったようです。
日本の仏教は、インドから支那・朝鮮半島を経由してもたらされました。しかし、日本古来の神道の影響を受けて、日本独自の仏教となりました。
それと同じように、隠れキリシタンのキリスト教も、仏教や神道の影響を受けてしまい、先祖代々伝わってきたものを今さら「正統なカトリックへ戻れ!」と言われても、戻れなかった・・・ということなのだと思います。
ここでのポイントは、
①日本は、外国文化が流入しても、日本風にアレンジしてしまうパワーを持っている
②先祖代々守ってきた独自のキリスト教を守った隠れキリシタンの方々は、保守的である
ということです。
また、長崎県は、江戸時代に出島として指定されるよりもっと前から、中国や朝鮮半島との関わりが多かったのです。もちろん、戦国時代以降はヨーロッパとの関わりも多いです。
これは、江戸幕府の指定もあったことはあったのですが、どちらかというと、地理的な影響による「偶然」のものです。
藤本隆宏教授による定義ですが、これは、あらかじめ長崎県が「グローバル化せよ!」と予定されていた・・・定められていた・・・のではなく、あくまで偶然の結果として海外文化が流入した「進化」である・・・ということです。
安倍晋三総理は、無理やりTPPへの参加などグローバル化を目指していますが、これは明らかに「進歩」のほうだといえるでしょう。「グローバル化するべき運命なのだ」と安倍氏の頭の中にはイデア(理想)があって、それを日本や日本国民に押し付けるものです。
もちろん、反発しない日本国民と世論にも問題がありますが。