資本主義の発達とプロテスタンティズムによる個人主義(個人が神の前に立たされる)ことで、共同体としての「一次的な絆」(自然や地域共同体)が失われ、人は自由になったが、その分だけ人は孤独を恐れ、不安になってしまいました。
資本主義の勃興前は、商業者はギルドという規制・団体の中で、ある程度守られていました。競争は少なく、そこそこ稼いで生きていくことができました。
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中世の人間は孤独ではなく、孤立してはいなかった。生まれたときからすでに明確な固定した地位をもち、人間は全体の構造のなかに根をおろしていた。こうして、人生の意味は疑う余地のない、また疑う必要もないものであった。人間はその社会的役割と一致していた。かれは百姓であり、職人であり、騎士であって、偶然そのような職業をもつことになった個人とは考えられなかった。社会的筒所は自然的秩序と考えられ、社会的秩序のなかではっきりした役割を果たせば、安定感と帰属感とがあたえられた。そこには競争はほとんどみられなかった。
しかし、資本主義の発達で、大きく稼ぐチャンスととともに、没落する可能性も出てきました。競争が激しくなりました。豊かな人は一層の資本蓄積のために努力し多くの人を雇いました。弱者は貧困に陥る可能性のために努力しなければなりません。これは、ある意味で、「お金が主人公になった」ともいえるものです。お金を増やすために働き、お金が増殖し、人間はそのための「手段」となっていきました。
商業の世界では、「自由」が得られると同時に、人間は一次的な絆から疎外されました。
プロテスタンティズムも、一次的な絆からの疎外を促進しました。
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カトリック教会では、個人の神に対する関係は教会の一員であるということに基礎を置いていた。教会は個人と神とを結ぶ媒介であり、一方に人間の個性を制限しながら、他方個人を集団の構成部分として、神に立ち向かわせた。ところがプロテスタンティズムは個人をただひとり神に立ち向かわせたのである。ルターの意味における信仰は、全く主観的な経験であり、またカルヴァンにおける救済の確信もこれと同じ主観的な性格であった。個人は神の前にひとりで立たされると、圧倒感に襲われ、完全な服従によって救済を求めざるをえなくなった。この精神的個人主義は経済的個人主義とそれほど異なったものではない。どちらの場合にも、個人は完全に孤独であって、孤立した状態であって、神とか競争者とか、また非人間的な経済力とかいう、優越した力に立ち向かうのである。
こうして、一次的な絆からどんどん疎外されていった人々は、新しい権威を求めます。強いものにすがろうと、依存しようとするのです。こうして生まれたのが、ナチスです。ナチスは、民主主義のドイツで、人々が選挙で選んだ体制です。
さらに、人は、権威にすがるだけでなく、「画一化・没個性化」に陥ります。不安で孤独な個人は、没個性化することで、周囲の人と同じになることで、安心感を得るのでしょう。
・・・なんだか、安倍信者と似ていませんか?
安倍信者は、安倍晋三という権威にすがり、安倍晋三を盲目的に支持して、韓国や左翼を猛烈に批判して、「自分の考えを捨てて、集団に溶け込んで」いるのです。サディズム的な韓国批判や左翼批判は、マゾヒズム的な安倍晋三への盲従と表裏一体なのです。
自由からの逃走は、他にも色々な場面で見られると思います。日本中を巻き込む流行だとか、カルト宗教だとか、権威的な上司に服従してワーカホリックになったりとか。偏差値だけがとりえの受験生などもそのように思えます。
自由からの逃走を回避するには、確固とした強い自分を持つことです。疎外を感じない自分です。しかし、これは相当に精神的に屈強な人しか無理であると思います。
もうひとつは、失われた共同体に復帰することです。カルト宗教や会社ではなくて、地元の地域活動や、家族といった絆です。トラブルなどが無いならば、友人とのシェアハウスなども良いのかもしれません。
参考文献
自由からの逃走(エーリッヒ・フロム 著、日高六郎 訳)
