建国神話というものがあります。建国史ではありません。
その国を建国したとされる神、あるいは神の血筋を引くとされる指導者がその国を作ったという神話であります。史実を反映したものもあるようですが、その多くは誇張や脚色、あるいは創作(※いっそ、でっちあげ)が少なくないともされます。
オオカミの乳を飲んで育ったとされるローマ建国者・ロームレスとレムスの兄弟
ヨーロッパにおける、王権は神より付与されたものだとする王権神授説を思い出させます。
日本の天皇もご多分に漏れず、「天皇が日本という国を支配するのは当然のことなのだよ」なんてことを『古事記』や『日本書紀』などの記紀神話をもって示そうとしたのであります。
まあ、別に誰が何を言おうと自由であります。
「オレは天才だ」、「我こそは神だ」、「あたしは絶世の美女よ」なんて言おうが、ありがたいことに日本の憲法ではその第21条にて表現の自由が認められております。
これが中国あたりだとどうなんでしょう。
問題は他人がそれを認めるか否かです。して、
認めぬなら、いやでも認めさせてやるぞ、ホトトギス
ということになりますと、これは力づくなり、権力なり、洗脳(?)なりによって強制するものとなります。
『古事記』を編纂したとされる太安万侶(おおのやすまろ)はその序文におきまして、
「偽りを削り、実(まこと)を定める」、つまり、いろんな人たちが勝手気ままに適当なことを、まことしやかに言ってれるけどさー、ここら辺りで正しい史実なるものをきちんと整理して記録しておくことが必要なんだよね、なんて書いておりますが、『日本宗教史』を書いた末木センセなんぞは「これは天皇支配の正当性を示すために、それまでの神話を改変、創作したことを意味する」なんて皮肉っております。
あのなー、おまーら、ここに書いてあることこそが史実なんなんだよ
これを受け入れないような奴は非国民だぜ
旧ソ連だったら、んな奴は、おまい、強制収容所送りだよ
なーんてねえ。
ちなみに、明治以降、終戦まで、これと全く同じことが日本の教育として行われておりました。
「信じるものは救われる」ならぬ「信じない者は非国民」だったのであります。
「歴史は勝者によって書かれる」とはイギリスの首相を務めたチャーチルの言葉だとされますが、これをもじって言えば「歴史は(その時の)為政者によって書かれる」ということになりますかねえ。
立志伝、偉人伝なんかを読みましても、都合の悪いことなんかはみな削除し、いいことしか書いてなかったりもします。(たぶん・・・)
イエスだって、あーた、新約聖書(福音書)では謹厳実直にして、慈悲深く品行方正なジェントルマンのように描かれてますが、「大酒飲み野郎」なんて言われていたようですし、姦淫したという女性を前に「おまーらの中で、一度として女性に対し助平心なんか持ったことがないという人から、この女に石を投げろよ(オレなんか、そんな自信はねーけどなー)」なんて言ってますからねえ。
人並みに助平心があったと考えていいでしょう。
なんてことを言いますと、あっしが、真面目なクリスチャンから石を投げられそうな気もしますが。