教育勅語であります。
かつて森友学園の幼稚園で、園児にこの教育勅語を暗唱させていたという話がありました。また島根県にあった松南高校では、教育勅語の暗唱の他、君が代に軍歌まで歌わせていたとか。
思い出すのは宮下あきらの『魁(さきがけ)!!男塾』に出てくる、もう、そのまま硬派ですという男塾なる学校です。ここで歌ってはいいのは、やはり君が代と軍歌だけでした。
極端に物事を突き詰めてゆくと、いっそパロディ化するのではないか、なんて思いました。
さて、今回は『教育勅語と日本社会』(岩波書店編集部・岩波書店)という本の中の、教育史が専門の高橋陽一の執筆による「教育勅語の構造」というものに沿って考えてみたいと思います。
教育勅語なんて、戦前までのカビの生えた代物に、何をいまさら、なんて声もありますが、この教育勅語を復活させようという動きが一部財界人、政治家、知識人、神社関係者の中に少なくないのだとか。
あっし自身、日本史の授業でその名を知り、存在自体は知っておりましたが、その内容なんて全く知らずにおりました。しかし、この教育勅語、終戦までは日本における教育の基本方針ともされ、これを暗唱させられたという方も少なくなかったとされます。
話は、明治初頭の大日本国憲法(明治憲法))成立に遡ります。
この起草の中心人物は井上毅(こわし)であります。して、この井上毅と、明治天皇の側近であった儒学者の元田永俘(ながざね)が共同して作り上げたのが、明治憲法の公布の翌年に発せられました。
井上毅
この教育勅語ですが「君主の著作」つまり、明治天皇が自ら書いたという形となっておりますが、正規の法令や大臣の副署が求められる詔勅とは異なります。
もともとは儒学者であった元田が、儒教を重んじる教育方針として、明治天皇の意志を受けたとして「教学聖旨」なるものを提起しますが、政府としては西洋をモデルとして近代化を進めており、元田の、そのままのものではその方針にそぐわないとして、これを井上との協力のもと、新たなものということになり、教育勅語の完成となったとされます。
日本は近代化するにあたって「和魂洋才」、つまり、日本の精神と西洋の知識を持って行うことが目指されていたとされますが、この教育勅語もまた、儒教道徳と西洋近代思想の複合的な産物というものとなったようです。
して、この教育勅語、勅令のような強制力を持ったものでもなく、法というものでもなく、あくまで明治天皇の著作であるわけですが、以後、これは神聖不可侵の権威を持つものとなってゆきます。
以下、本文に入ってゆきます。
なお、原文をもとに高橋が意訳したものを引用します。
「朕思うに」とありますが、むろん、実際に起草したのは井上でありまして、トップの文章はゴーストライターがしたためることは少なくありません。
天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたことは宏遠なことであり、道徳を樹立したことは深厚なことである
この辺りは、『古事記』や『日本書紀』のような記紀神話に基づいたものであります。
むろん、現在では天皇の祖先は神であるというような神話的な歴史観は否定されておりますが、この時代は当然の史実だとみなされておりました。
こういう神話に基づく歴史観、世界観は、何も日本に限ったことではなく、例えばキリスト教、厳密に言いますとユダヤ教にも見られるものでして旧約聖書は『創世記』に書かれた内容こそが、その後の歴史と繋がっております。
なお、現在では天皇の祖先は神ではなく、その神に仕える、神を祀るシャーマン(祭司)ではなかったかとされます。このシャーマンは豪族でもあり、祭政一致という形での統治者であったとも考えられます。卑弥呼などもそうでした。
その統治者を神格化するために記紀神話が作られたのでしょう。
この時代、日本各地には様々な豪族がおり、それぞれ自分達の神々を祀ってその地を統治していたと思われますが、そういった豪族を圧倒する、いっそ支配下に置くためにも、天皇を頂点に置く最も有力な豪族が、自らを神格化していったように思います。
まだ、神と人間が混然一体化していたのかもしれない時代、日本と言う国を支配することとなった最有力の豪族は、その支配の正当性を示すためにも、このような神話を構築したのでしょう。
しかし、こんな神話は、政治の実権が天皇から公家や武士に移っていた段階から、天皇そのものと同じく、もはや形骸化し、それこそホコリを被ったものとなっていたわけですが、江戸時代末期から国学者らが、再びここに脚光を浴びせ、表舞台へと登場してきたのであります。
さらに、既存社会の変革を行った新たなる統治者、支配者によって、言うなれば天皇という歴史的な権威が利用されたというべきでしょう。
我が臣民は、よく忠にはげみ、よく孝にはげみ、皆が心を一つにして、代々その美風を作り上げてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ
「臣民」というのは明治憲法の時に作られた言葉で、それ以前には天皇が、臣民と呼ばれる国民を直接的に統治していたとは考えにくいのですが、そうだというのですから、そうしておきましょう。
なお、著者の高橋に言わせますと、この文章を読むと、「忠孝」なる倫理道徳観は天皇の祖先である神々から発したものとなるが、そもそも、これは儒教を創始した孔子や孟子の思想ではないか、と。
汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲良く、夫婦派睦まじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛を皆に施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させて、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、非常事態の時には大義に勇気をふるって国家に尽くし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである
これこそが、教育勅語の根幹とも言うべきものでしょう。
武者小路実篤の言葉
前半は儒教道徳からはじまり、さらには博愛とか公共の利益と言うのは、西洋思想からのものでしょう。
実業を重視するというのも、富国強兵を目指した当時の日本の指針と重なります。
「非常事態の時には大義に勇気をふるって(一旦緩急あれば義勇公に奉し)」というのは、国難が降りかかってきたら迷わず、お国のために戦え、と。
また、博愛や公共の利益と言うのは、むろん、西洋思想のわけで、これが「皇祖皇宗の遺訓」と言うのは無理があるのではないかと、高橋は書いております。
まあ、あまりツッコミを入れますと不敬罪になりかねません。
以下、省略しますが、要は臣民たるものは、この勅語に黙って従いなさい、ということになるようです。
「皇祖皇宗の遺訓」かどうかはともかく、倫理道徳、国民道徳として捉えるならGHQもまた、この内容そのものは悪くないと評価しております。
ただ「無限に続く皇室の運命」なるものはどうか。確かに国歌である「君が代」にも、そのような旨が示されてはおりますが、この世界に無限に続いてゆくものがあるのか否か。
墓における「永代供養」だって、この「永代」は「永久」ではなく、「永(長)い間」という意味です。
ちなみに、墓の場合「金の切れ目が縁の切れ目」ではありませんが、例えば墓地管理料といったものが払えなくなると、墓は壊され更地にされてしまうのだとか。
さて、このような教育勅語が、終戦までは、それこそ神聖不可侵のものとされ、さらにはGHQが言うように軍国主義に利用されたともいえるでしょう。
国難にあっては戦え、というのはわかりますが、例えばロシアに侵略されつつあるウクライナの人々がそうするというのならまだしも、同じことをロシアでも言ったらどうか。
そもそも、ウクライナへの侵略戦争は、あれはロシアという国に対しての国難なのか。
プーチンさんは、ウクライナへの侵攻を祖国防衛だと言っております
日本という国も、なるほど最後は祖国防衛という形になっておりますが、当初は満州事変をはじめとするアジアへの侵攻、及びアメリカへ喧嘩を仕掛けたのもまた祖国を守る、というものであったのか。
確かに「攻撃は最大の防御」とは言いますが、そこまでして、日本は何を守りたかったのか。
教育勅語は、あえて言えば、その内容から言って過去の歴史的な遺物でしょう。そして、その内容がいかにまっとうなものであったとしても、それが悪用(?)されたという事実があります。
世の中が乱れているがゆえに、教育勅語こそを復活させるべきだ、なんて声もあるようですが、これを復活させたからと言って乱れがなくなるというのはあまりにも安直すぎるように思います。