あやしいキリスト教 ツッコミどころ満載で楽しいイエス生誕の謎 よくもまあ、こんなでっち上げを | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

あっしが通っていたミッション系保育園では、して恐らくミッション系の所はどこでもそうだと思いますが、12月に入りますとクリスマス会があり、そこでイエスの生誕劇が行われました。

 

 

あっしは、なぜかイエスの(義理の?)父であるヨセフの役をやりました。いや、やらせられました。

 

 

セリフは「宿屋さん、空いている部屋はありますか」というものでしたが、この「宿屋」なんて言葉は知らず、「やおや(八百屋)」と何度も言い間違えて、保育士たちの失笑を買い、なんでこんな屈辱を味合わねばいけないんだと思ってました。

 

 

ヨセフというのは、確かにイエスの父親なんですが、登場する間もなく、すぐに退場(?)してしまうような影の薄い存在でして、なんと言いますか、あっしの将来を暗示していたような気もします。

 

 

 

ベツレヘムという町の近くにいた羊飼いたちの上に天使が近づき「今日、ダビデの(生まれた)町で、あなたたちの救い主であるメシアがお生まれになった」なんて言ったかと思うと、突如、天使軍団(?)コーラス隊が加わって、夜空も割れんばかりの讃美歌を大合唱。

 

 

 

 

 

 

さあ、ものどもみなベツレヘムの町に行きメシアを崇めよ

ほら、ほら、ぐずぐずしてーねーで、羊も連れて。嫌がるんだったら担いで行くんだよ

混み合ってるから、整理券を配ってるはずだぞ

 

 

 

なんて彼らに言います。

 

 

して、なぜ、天使は羊飼いの前に現れたのか。

 

深夜便の夜行トラックの運ちゃんの前とか、深夜営業のお店とかではいけなかったのか。

 

 

 

 

それはねえ。

 

このメシアの最後は、神に捧げらる生贄だからねえ。生贄と言ったら、子羊でしょう。

 

まあ、豚とか鶏でもいいんでしょうが、ユダヤ民族は元々遊牧民でしたから羊なんでしょう。

 

 

ヤマタノオロチなんかだと若け~娘で、人柱(人身御供)なんかだと、厄介者のねずみ男なんかがそうなるようですが。

 

 

 

ねずみ男先輩、先輩はこの職場で一番の古株なんですから、あの部長にひとこと言ってくださいよ

そーですよ、部長のあの強引な仕事の進め方には、もう我慢できません

俺達も後から付いてゆきますから

 

そ、そーか。じゃあ、あっしが切り込み隊長で

 

 

 

部長、部長のやり方は強引すぎるんですよ

みんな、そう言ってますよ

なあ、みんな

 

・・・、ってあれ

なんだよ。なんでみんな下向いてんだよ

 

 

 

くそー、てめーら裏切ったな

 

 

 

話がずれました。

 

他にも、遥か東の国で星の動きを絶えず見守って来た博士たちが、かつてない星の動きを発見します。

 

なお、もしこの話が史実といたしますと、実は紀元前6年、木星と金星がほぼ一つに接して見えたとされまして、つまりイエスの生誕年がずれてしまいます。

 

 

もっとも・・・。

 

 

現在、一般的に言われております、イエスの生誕の年(紀元)なるものは、6世紀のローマの修道僧ディオニュシウス・エグシグウスという方が、自ら信じるところによって算定したものなのでありまして、つまりは、いい加減なものなのであります。

 

ついでに言えば、イエスの誕生日は12月25日なんてのは、何の根拠もないデタラメでしょう。

 

 

 

それまでは、イエスの生誕年は正確にはわかっていなかったようです。

 

 

なお、様々な資料に基づきますと、イエスの生誕は、紀元前7~4年頃ではなかったか、とされます。

 

 

ついでに言いますと、史実としては紀元66年、ペルシアの博士たちが、星の予言により、ローマ皇帝ネロを「世界の王」として拝した後、別の道を通って帰ったという話があります。

 

 

マタイ書が描かれたのが80年代とされますから、マタイは、このような話を組み込んだのではないかともされます。

 

なお、この時代には、一国の王が生まれる時には新星が現れるという民間伝承があったとされます。

 

 

 

また、ダビデ王が星に象徴されるという事実や、星は暗闇を歩く人々の足元を照らし、道しるべとなるということも関係しているのではないかとされます。

 

 

 

 

イスラエルの国旗の、あの星こそはダビデの星と言われます。

 

イエスもまた、ダビデと同じと言いたかったのでしょう。

 

 

 

さて、マタイ書にあっては「ユダヤ人の王が生まれる」と占星術の博士たちが言っていたとされ、これを聞いた、当時のユダヤの国の統治者であるヘロデ王が不安を抱き、ベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男の子を全て殺させます。

 

 

して、この話は旧約聖書の『出エジプト記』にあります、エジプトの王がヘブライ人を恐れ、男の子が生まれたら全て殺させた、という話を元にしたものでしょう。

 

いえすはモーセと同じくユダヤ民族の救済者であると言いたかったのか。

 

 

 

どうも、マタイの話は嘘くさいです。

 

 

ルカだって負けてはいません。

 

ローマ帝国の人口調査は紀元6年に実際に行われておりますが、それではイエスの生まれたとされる年と食い違います。

また、そもそもナザレに住んでいたとされるヨセフ一家が、なぜ、その調査のために、わざわざベツレヘムまで行く必要があったのか。

 

 

ヨセフがダビデ王の血筋であったとはありますが、これは「メシアはダビデの子孫にしてベツレヘムに生まれる」という民間伝承があったがゆえに、あえてヨセフ一家をベツレヘムまで行かせ、そこでイエスが生まれたことにしたかったからでしょう。

 

また、ヘロデ王の治世は紀元前4年頃までであったとされ、これまた食い違います。つまり、これだとイエスは紀元前4年以前の生まれということになってしまいます。

 

 

 

おもしろいことに、マタイ書にあっては、ヨセフ一家は最初からベツレヘムに住んでいたことになっております。

 

して、ヨセフは天使からヘロデ王が生まれた男の子を殺そうとしていると聞き、一家はエジプトに逃れたとあります。

 

 

すると、ルカの言う、あえてベツレヘムにまで来て、混み合っていたために旅館が取れず、その馬小屋でマリアはイエスを産んだという話はどーなるのか。

 

 

 

 

 

田川建三センセに言わせますと、これらの話はいずれも紀元80年代、つまりイエスが死んで50年ほどたった後に作られた伝説だと切って捨てております。

 

 

50年代頃に書かれたマルコ書パウロの手紙には、これに関するような話は一切ありません。

 

まあ、その内容からして、もし事実であったならば、この両者に何らかの言及がってもいいはずです。

 

 

 

最後に笑えるのがイエスの系図とされるものです。

 

新約聖書の冒頭、マタイの福音書の初めにある、あの長ったらしい系図と、ルカ書の系図を比較してみますと、両者には微妙な相違があることに気づきます。

 

 

 

まず、マタイはその創始をユダヤ民族の祖であるアブラハムとしておりますが、ルカではアダムとなっております。

 

また、マタイではヨセフの父はヤコブとありますが、ルカではエリとなっております。ついでに言えば、前者はダビデの子ソロモンの家系ですが、後者はダビデの子は同じですが、こちらはナタンの家系となっております。

 

 

さらにダビデからヨセフに至るまでの血筋にあって共通する名前はサラテルゾロベルのみです。

 

 

それ以上に笑えるのは、そもそもマリアが処女懐胎によってイエスを産んだというならば、イエスとヨセフとの間に血縁関係はあり得ず、つまり、ヨセフはイエスの義理の父親ということになります。

 

 

義理という関係であっても、イエスはダビデの子孫ということになるのか?

 

 

素直に(?)イエスがヨセフとマリアの子であるというのなら話は単純なんでしょうが、イエスを神格化し、神の子にしたいばっかりに、あえて処女懐胎なん嘘くせー話をでっちあげるから、さらに嘘(?)で取り繕うしかないのではと思います。

 

 

 

なお、マリアの処女懐胎は旧約聖書『イザヤ書』にある、

 

 

見よ、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産む」

 

 

という一文は、ヘブライ語で書かれており、ここでいうその「乙女」とは「若い女性」という意味で、それなら、若い女性が身ごもって子を産むということで、ごく当たり前の言い方なんですが、この言葉をギリシア語に翻訳する時に「処女」としてしまったことから、それこそ「マリアの処女懐胎」伝説が生まれたとされます。

 

 

 

まあ、その誤訳の方が、それこそイエスを神格化するのにちょうどいいということで、そのまま用いたのではないかと思います。

 

 

さてさて、こんな作られた伝説なんてもなー、どーでもいいものなのであります。

 

 

また、当時のユダヤ社会においては、同じような名前の方がいた場合、その父親の名前を冠した言い方が普通でして、例えば父親がゼベタイなら「ゼベタイの子ヤコブ」なんて言っていたようですが、イエスの場合「ヨセフの子イエス」ではなく「マリアの子イエス」と言われております。

 

 

イエスはマリアの連れ子(?)で、それこそイエスは父(てて)なし子ではなかったか。そして、妻に先立たれて、何人もの子供を抱えた寡夫であったヨハネと再婚した、なんて説もあるようです。

 

 

もっと言えば、イエスはローマ兵士とマリアの間に出来た子だった、なんて説もあるようですが。

 

 

 

しかし、こんなことも、どーでもいいことなのであります。

 

 

いっそ、どこの馬の骨だろうが構うこたーないのであります。

 

大事なのは、そんな生まれではなく、何を言い、何をしたかでしょう。

 

 

こういうつまらん話に拘っていると本質を見失います。