あやしいキリスト教 創世記・天地創造 ① 言葉による創造 言葉が万物を創り出す? すごいです | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

創世記』は元々ユダヤ民族の、言うところの「創世神話」というものであります。日本なら『古事記』に該当するでしょう。

 

 

 

『古事記』 国作り神話

 

 

 

ユダヤ民族による、世界観の表明であります。キリスト教はこの世界観をそのまま受け継いでおります。

 

 

かつて、この世界観に基づき、人間や動物、植物、そして大地や天体などが説明されてきました。やがて科学の発達ににより、その世界観はことごとく否定されてゆきますが、しかしその基本的な考え方はキリスト教の中に流れているように思います。

 

日本においての『古事記』の世界観も、終戦までは史実(!)として教えられておりましたが、現在では神話という扱いです。

 

 

こんなものフィクションだろう、と言えばそれまでですが、そのフィクションによって西洋世界の文化的基礎が作らたといっても過言ではないのでナメてもらってはいけないのであります。

 

 

この『創世記』が作られたのは、紀元前550年の頃、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていたころだとされます。当時、既にエジプトメソポタミアという巨大文明があり、恐らくはそういうものの影響を受けながらも、ユダヤ民族は彼ら独自の神話を創造することで、自分達のアィデンティティーを構築しようとしていたのかもしれないです。

 

 

旧約聖書の中に「モーセ五書」という根本聖典がありまして、これを「律法(トーラー)」とも言いますが、この最初にあります。

 

 

この原初の物語から始まり、やがて人類の祖であるアダムとイブ、アブラハム、モーセ、さらにはダビデ、ソロモンといった人々が織りなす歴史書という体裁をとっております。

 

『古事記』もまた、始原の神から始まり、いくつもの神々が生まれ、その最後に後に神武天皇となるカムヤマトイワレビコノミコトから、現代にいたる天皇への系譜が作られております。

 

 

言うまでもなく、これらの神話が作られた当時においても、そんな昔のことは誰も知らないわけですから、これはもう先に言った方が勝ち、というか、誰しもが「ふーん、そうだったんだ」と思うしかなかった。

 

これに対抗するというなら、それよりももっとずっと内容の濃い話、もっともらしい話を作るしかない。

 

 

 

さて、いそいよ「天地創造」であります。

 

講釈師、見てきたような嘘を言い」ではありませんが、そもそも、そんな太古の昔のことが、どうしてわかるのだと思いたくもなります。

 

この『創世記』の著者(※ それぞれ異なった幾つかの話を一つにまとめ上げたともされます)が、それこそ預言者のごとく神より、その経緯を教えてもらったとでもいうのか?

 

 

 

はじめに神は天と地を創造された

 

 

この世界が誕生するにあっては、自然発生するという神話も少なくありませんが、『創世記』はあくまで、唯一の神の創造によります。つまり神は、既に存在していたのであります。

 

ならば、この世界が神によって創造される前はどうなっていたのか?さらには、神は何をしていたのか?

 

いっそ、昼寝でもしていたのか?

 

 

 

地は形なく、むなしく闇が淵のおもてにあり

神の霊がその水のおもてをおおっていた

 

 

 

ということは、水は最初からあったということでしょう。ということは水は神の創造物ではないのか?また「地は形なく」ということは、やはり、地のもとになる「」もまた最初にあったのか?同じく、これも神の創造物ではない?

 

 

思うに、何か液状の、言うなれば泥海のようなものを想像します。

 

ギリシア神話の始原の神であるカオス、中国神話の混沌などと似ているようにも思います。

 

 

いっそ、栄養たっぷりの泥状のスープのようなものが最初にあったのか。

 

 

神は「光あれ」と言われた。すると光があった

 

 

 

 

 

 

神が言葉を発すると、それが誕生する。これを「言葉の創造」と言いましょう。

 

これが『古事記』なんかですと、伊邪那岐伊邪那美の似2柱の神が、矛(ほこ)をもって泥状の海をかき回して陸地(島)を作っており、これは「行為の創造」となるでしょう。

 

 

ここが、ヤハウェの神のすごいところです何かして創造するのではなく、口にしただけで創造してしまう!

 

 

これについては新約聖書の『ヨハネの福音書』の冒頭の言葉に示されております。

 

 

 

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった

この言葉は、初めに神と共にあった

 

万物は言葉によってなった

 

 

 

さて、「言霊(ことだま)」という考え方がありまして、声に出した言葉が現実の事象に何らかの影響を与えるというものであります。結婚式などでは縁起の悪い言葉、忌み言葉は使ってはいけないともされます。

 

 

言葉は建設的なものと言えます。

 

あるいは見方を変えて言うなら、「言葉が、あるものを作り出す」ともいえます。

 

 

例えば、地にあった固形状の塊を「」と呼んだ時、それはその瞬間に、それがあったから分節、つまり区分されて鉱物質のかたまりである「石」となります。

 

 

 

 

「石」と呼ばれて、初めて「石」になります

 

 

喧嘩なんかしていて、何か武器になるものはないかと思ってみた時だと、それは「石」ではなく「武器」になります。

普通であれば「木の棒」もまた、同じく「武器」になるはずです。

 

 

広場に大勢の人がいたとしても、それは「群衆」でしかありませんが、そこに知人を発見すれば、この知人はもはや「群衆」とは区分された特別の存在というもの、つまり「知人」になります。

 

 

こう考えれるなら、「」と呼ばれるものが、忽然と、つまり例えばいきなりスポットライトが当たるというよりも、元々光はあった、明るかったが、それを表現していないため、そもそも「」も「」もなかった、ということになります。

 

 

少し先走りますが、第二章において神はアダムの肋骨からイブを創り出したという話を考えてみましょう。

 

最初に作られたアダムは、なんせ、一人しかいなかったわけですから、あえていえば「」でも「」でもなかったはずです。

アンドロギュノス、つまり雌雄同体、あるいは男女に分化する以前の無性の人間ということになるはずです。

 

 

 

「男」ではありえなかったアダム?

 

 

 

イブという、この人間は「」という設定となっておりますが、彼女の誕生において、アダムは初めて「男」になったということになるはずです。

 

 

第二の性』という、今日のフェミニズムの魁(さきがけ)ともなった本を書いたボーヴォワールの名言である「女は女に生まれない。女になるのだ」をもじって言えば「男も、男に生まれない。男になるのだ」ということにもなるでしょう。

 

 

このように言葉には「分節」という作用があり、それは「意味」を作り出すともいえます。

 

 

 

つまり、神が「光あれ」と言った場合、それまで区分されていなかった、それこそカオス状態の中に、「光」と「闇」の区分が生じたといえるでしょう。

 

 

じゃあ、おまい、「闇」とも、「明るい(光)」とも言えない、薄暗い時はどーなるんだ?

 

 

その時は、また、それこそ「薄暗い」と言葉を作ればいい。

 

 

ちなみに、アフリカの原住民の中には色の違いを示す言葉は二つしかない、という方々がいるとされます。

これは彼らの目に異常がある、それこそ色盲だというのではなく、生活上の必要において、色をそれ以上にわける必要はなかったがゆえだとされます。

 

同じく、ファッションセンス及び知識なんぞはほとんどと言っていいほど持ち合わせていないあっしなんぞに、「今年の流行色はコーラルレッド」なんて言われてもピンときませんし、そもそも「コーラルレッドって何だよ」ってもんですからねえ。

 

 

 

 

 

 

『創世記』における天地創造の話なんぞ、神話であり、いっそ荒唐無稽なものだと思いますが、しかし、シンボリックで、なかなか深い哲学(?)があるようにも思います。

 

 

この著者は、そんなことなど考えてもいなかったでしょうが、こう言う点からしてもなかなか面白い話ではあります。

 

 

 

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かつて、ピンクレディーが歌った『UFO』の歌詞の中に、

 

 

 

飲みたくなったらお酒 眠たくなったらベッド

 

次から次へと差し出すあなた ♪

 

 

なんてのがありましたが、これなどは口にすることなく、思っただけで出てくるというんですから、もっとすごいです。

 

アラビアンナイト』のアラジンの魔法のランプの大男だって、口で言わなきゃ何も出してくれないはずですから。

 

 

 

例えばの話、あっしが、

 

 

『若い、きれいなおねーちゃんといっしょにお酒が飲みたいなー』

 

 

 

なーんて思っただけで、

 

 

 

 

はーい、ねずみ男さん。お待たせ―

 

 

 

なーんてなる!?

 

たまりませんなー。

 

 

 

んでも、最後に、

 

 

はい、お会計

 

なんて伝票を渡されて・・・。

 

 

 

えっ” !? じゅ、じゅうまんえん!!??

 

 

 

世の中、そんな旨い話があるわけがない、と。