悪魔学 楽しい聖アントニウスの誘惑 そもそも、その悪魔とは何だったのか? | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

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思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

聖アントニウスという聖人をご存じかどうか。

 

3~4世紀に活躍した、後の修道院の基礎を作ったかたであります。二十歳の頃、両親と死別すると、全財産を貧しい人々に分け与え、出家ならぬ、厳しい修行生活に入ります。彼らを「隠修士」と言います。イエスが、荒野で修行したことを真似たのでしょう。彼を慕って集まってくる人々がおり、彼らとの共同生活が、いわゆる修道院になったとされます。

 

 

さて、イエスもまた荒野で修行中に、悪魔が現れ様々な誘惑をしておりますねえ。

 

 

 

 

 

 

イエスの大将、駅前にいい居酒屋が出来たんですよ。行きましょうよ

 

えーい、いくら俺が大酒のみだからってなー。人は酒のみで生きるに非ずだ

 

 

 

さてさて、このように、悪魔なるものが言葉巧みにイエスを誘惑したと聖書には書かれておりますが、これを鵜呑みにするのは頭の固いクリスチャンだけでしょう。

 

心理学を少しでもかじった方なら、これはどう考えても、イエス本人の中の心の葛藤だと思うでしょう。

 

 

 

ちっくしょう、酒飲みてーなー。しっかし・・・、修行の身だからなー

 

 

 

という心理を、妄想的に外部投影いたしますと、それこそ天使と悪魔の戦いというイメージとなります。

 

 

 

 

 

 

いいんだよ、少しぐらいなら飲んだって。誰かが責めるわけじゃなし

 

いけません。修行の身にあっては絶対にダメです

 

 

 

して、このような外部投影は、自己防衛心理とされます。

 

そもそも、その欲求は己の内から生じたものであるはずなのに、これを外部からの悪しき誘惑のゆえと、言うなれば責任転嫁するわけであります。

 

 

もっとも、イエスの名誉のために書いておきますと、このような悪魔の誘惑があたっとするのは福音書を書いたマルコなどの著者の推量であり、イエスその人は、ちゃんと自分自身の心の中の葛藤だと、冷静にして客観的判断をしていたのかもしれませんが。

 

 

さて、このような悪魔の誘惑は、聖アントニウスにおきましては、さらに楽しい展開になってゆきます。

 

 

『聖アントニウス伝』を書いた4世紀の司教アタナシオスによれば、悪魔は天使や修道士、さらには畏れ多くも神に姿を変え、彼をそそのかしたとされます。

 

さらには、魑魅魍魎、妖怪、セクシーな女性にまで化けて登場したようです。

 

 

このエピソードは多くの画家を刺激し、好んで描かれました。

 

 

 

 

 

 

まずは、ヒエロニモス・ボッシュのものですが、何とも凄い魑魅魍魎が好き勝手し放題です。

 

 

 

続きましてはパティニールのもので、

 

 

 

 

 

 

こちらは美女軍団が取り囲んでます。

 

いやー、たまりませんなー。小悪魔、美魔女軍団の洗礼です。

 

 

 

最後はフェリシアン・ロップスのものです。

 

 

 

 

 

 

なんと、磔刑のイエスが、セクシーな女性(娼婦?)になって、いらっしゃい、してます。

 

 

実は、釈迦もまたその修行中に、魔王の娘達に誘惑されるという幻覚を見たとされます。

 

 

 

むろん、これは、そういう外在的なものからの誘惑というよりは、やはり釈迦も人の子、男の子ですから、彼自身の内面の葛藤だと解釈すべきです。