フェティシズムであります。
日本では「フェチ」なんて言うこともあります。
脚(足)フェチ
まずもって、多くの方は、こっちの方向に行ってしまうと思いますが、元々は宗教学の用語でして、そこから人類学、哲学、経済学ときて、最後に精神病理学に行き、いわゆる「性的フェティシズム」という概念も生まれますが、本来は、かなり難解なものなのであります。
そーやって、自分の助平心を正当化する男って、最低!
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「女子と小人は養い難しですよ」、やっぱり孔子先生はわかってます。
屁理屈で言い訳する男も最低!
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この、アマー!
だから、真面目に、って言ってるだろうが!ごちゃごちゃ言ってると、東京湾に沈めるぞ。大阪なら南港かー!?
(※ なに、本気で言ってるわけじゃありません。根は善良というか、いっそ小心者です)
さて、宗教学の用語としては「呪物崇拝」と訳されます。
なんじゃ、それは?
でしょうねえ・・・。
「呪物」とは「呪術」の対象となるものです。んで、呪術とは何か、といいますと、おまじない、信仰というものです。
日本では、節分に「鰯の頭」を厄払いとして玄関などに飾りますねえ。「鰯の頭も信心から」という言葉もありますが、しかし、これは、鰯の頭に厄除けの効果がある、パワーがあるということでして、鰯の頭そのものが尊いわけではない。
言うなれば、鰯の頭は「厄除けのシンボル」なのであります。
ところが、宗教というものは面白いもので、時として、この「鰯の頭こそが尊い」、ということになってしまう場合があります。
はー?
ですかねえ・・・。
もう少し、わかりやすい例で行きますと、
クリスチャンが崇める、この十字架ですが、これはあくまでシンボルであって、尊いのは、そもそもイエスその人が説いたことでしょう。ところが、彼が磔刑となったこの刑道具としてのシンボルこそが、偉大なるパワーを持つ、と考えられてしまう。
その事例が、吸血鬼ドラキュラに対する十字架であります。
つまり、このように、本来であれば、イエスの説いたこと、あるいは、イエスが磔刑となったことをパウロは、全能の神に対する人類をイエスに代表させての贖罪と考えましたが、イエスをシンボライズさせる、その十字架という「モノ」自体には、本来、何の意味も、価値も、パワーも、なかったのに、あたかも、ものすごいパワーを秘めた道具になっていますねえ。
ここでの十字架こそが、「呪物」であり、そこに何らかの力を認めること、崇めることをして「呪物崇拝」というわけです。
続いて仏教において言いますと、
そもそも、尊いのは釈迦その人が説いたことでしょう。ところが、こういった偶像を造ってはいけない、と釈迦自身が言っていたにもかかわらず、釈迦の像が作られるようになり、さらには、これを崇めるようになってゆきます。
あるいは、釈迦は、「自分の墓は作るな」と言っていたにもかかわらず、その弟子たちは、釈迦の骨(仏舎利 - ぶっしゃり)をありがたがり、これをもって墓を造り、さらには、これを崇拝するようになってゆきます。
本末転倒ですねえ。
経済学におきましては、あのマルクスが貨幣や、商品としての「モノ」が、神の如く扱われるとしました。
貨幣、つまり、物質的な「お金」自体は、ただの紙や金属でしかないわけですが、それが、あたかも、「何でも手に入れられる魔法の道具」
になってますねえ。
このお金さえあれば、時と場合によっては、愛も買えますし、幸せだって買えるかもしれない。
人間そのもの、いや、人間の命だって、これで等価交換されることもあります。
ゆえに、この「モノ」のとしてのお金の方が、場合によっては、その人間の命よりも尊い、価値あるものとなりうるのであります、
して、マルクスは、このような社会システムをして「人間疎外」ということが起こると警笛を鳴らしたわけです。今でこそ、マルクス思想はあまり評判が良くありませんが、しかし、こうい考えを呈示したという点では、偉いと思います。
次回は、いよいよ「性」に絡んだものを取り上げます。
「乞う、御期待」、ってとこですか。