▲『みなみ北海道 最後の武士達の物語 榎本武揚・黒田了介~五稜郭跡~』▲ | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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城巡り・史跡巡り・サッカー観戦etc…

興味の有る事について書いて行きたいと思います!


『みなみ北海道 最後の武士達』プロジェクト


【激動の箱館戦争、戊辰・己巳の役】

登場人物/ 榎本武揚 榎本対馬 黒田了介

設置場所/ 特別史跡五稜郭跡

住所/ 函館市五稜郭町44


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一八六七年の大政奉還、王政復古の大号令ののち、一八六八年一月二六日(慶応四年一月二日)、日本が近代国家へと変わって行く激動の時、生みの苦しみとも言える日本人同士(旧幕府軍と新政府軍)の戦争、「戊辰戦争」が京都の鳥羽伏見で勃発。

その後、錦旗を掲げた新政府軍の躍進により、江戸無血開城、東北戦争、会津戦争と各地での敗戦を続けた旧幕府軍は十二月四日(明治元年十月二一日)に蝦夷地に上陸、函館へ進軍し五稜郭は一時的に榎本武揚率いる旧幕府軍の拠点となる。その後、松前、江差と進軍し瞬く間に蝦夷地を平定し、榎本を総裁とした箱館政権が誕生。

翌一八六九年五月二十日(明治二年四月九日)、新政府軍は乙部に上陸し、函館奪還に向け進撃を続け、函館総攻撃が始まると、六月二七日(明治二年五月十八日)、ついに旧幕府軍は降伏し、京都の鳥羽伏見で勃発した「戊辰戦争」は、函館で終結を迎えた。

それは正に二百六十年の歴史を誇る徳川幕府の武士(もののふ)達の最後の戦いとなった。


時を紡ぐ 歴史が繋ぐ

みなみ北海道の歴史を紐解き、

ゆかりの地を訪ねる旅へ。

幕末、激動の時代を生き、闘い、

日本の礎を築いた人々に想いを馳せて。

さあ、みなみ北海道を巡ろう。


戊辰戦争終結150年記念

プロジェクト

このプロジェクトは戊辰戦争(箱館戦争)に関わった歴史上の人物に焦点を当て、統一企画、統一デザイン、統一ルールによるモニュメンタルな歴史展示物を製作、戊辰戦争の歴史、人物や物語を通して紹介する歴史群像をみなみ北海道の11市町 32スポットに展開、戊辰戦争に関わる函館・南北海道の歴史や文化の魅力を広く全国に発信します。

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という事で、北海道函館市に有る『特別史跡五稜郭跡』で《榎本武揚》《榎本対馬》《黒田了介》のモニュメントを見学して来ました音譜


こちらに設置されたモニュメントは《榎本武揚》《榎本対馬》《黒田了介》『箱館戦争 戊辰・己巳の役』についてのモニュメントですね音譜


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◆榎本武揚(1836-1908)◆

通称は釜次郎。

1854(安政元)年、蝦夷御用掛堀利熙の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。

1856(安政3)年に長崎海軍伝習所に入所し、後に築地軍艦操練所教授に就任した。

1862(文久2)年、オランダ留学に派遣され、兵制・法律・器械学を修め、1867(慶応3)年、幕府がオランダに発注した開陽丸で帰国し海軍副総裁に任命された。

大政奉還後、1868(慶応4)年8月、旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出し仙台で旧幕府陸軍と合流、10月20日(旧暦)に蝦夷地へ上陸した。

明治新政府へ蝦夷地開拓の嘆願を出すが叶わず、五稜郭占拠や松前方面を攻略し蝦夷地南部の平定を果し、旧幕府軍の蝦夷地仮政権総裁に選出された。

翌2年5月18日に新政府軍へ降伏し、東京で投獄された。

1872(明治5)年に特赦で出獄した後、開拓使へ出仕し、二年後には海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。

この後、逓信、農商務、文部、外務の各大臣を歴任して子爵となった。1908(明治41)年に死去。

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◆榎本対馬(1833-1882)◆

1866(慶応2)年、幕府目付に就任。

1868(慶応4)年8月に旧幕府軍に加わり蝦夷地に渡り、箱館戦争へ従軍した。

蝦夷島政権では川村録四郎とともに会計奉行を務め、1869(明治2)年5月18日の旧幕府軍降伏、五稜郭明け渡し時には、新政府軍監前田雅楽へ五稜郭の目録を渡して引継きを完了させた。

謹慎後の明治3年に静岡藩へ帰参し、その後、開拓使に出仕した。

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◆黒田了介(1840-1900)◆

薩摩藩士。通称は了介。

1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いに小銃第一隊長として従軍の後、北陸道鎮撫総督参謀として、長岡藩、新発田藩、秋田藩、米沢藩などを降伏・帰順させた。

1869(明治2)年、箱館戦争開戦により陸軍参謀に就任、4月19日に江差に上陸、戦闘の総指揮をとった。

5月11日(旧暦)の箱館総攻撃により旧幕府軍の敗北が決定的となり、部下の村橋直衛、永山友右衛門(田島圭蔵)、池田次郎兵衛らに降伏勧告受入れの説得工作を進めさせた。

5月17日、旧幕府軍の降伏申し出により、翌18日には五稜郭が明け渡されて箱館戦争の終結となった。 

箱館戦争終了後、1870(明治3)年に樺太専任の開拓次官となり、翌年には次官のまま開拓使の頂点に立った。

この間、榎本武揚らの助命運動を行い、赦免が決定すると旧幕府軍幹部らの多くを開拓使に登用した。

1874(明治7)年に陸軍中将となり、参議兼開拓長官を務めた。

1876(明治9)年に朝鮮交渉の全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。

また、1887(明治20)年に農商務大臣、翌年には第二代内閣総理大臣に就任。

首相辞任後は、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任したが、1900(明治33)年、死去。

葬儀委員長は榎本武揚が務めた。

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