※2025年7月28日訪問※

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幕末の箱館開港を機に、乙部村以北と木古内村以東の和人地と全蝦夷地(北州)が再度上知され、安政3年(1856年)再び箱館に箱館奉行が置かれる。
開港地箱館における外国人の応対も担当した。定員は2 - 4名で、内1名は江戸詰となる。
役高は2,000石で、役料1,500俵、在勤中の手当金700両が支給された。
支配組頭に任ぜられた向山源太夫は樺太の調査を行い、その帰途に病死している。
このとき配下の松浦武四郎も同行。
安政4年(1857年)には、村垣範正が着任、桑田立斎ら種痘の出来る医師が派遣され、アイヌの間で蔓延する天然痘の対策をおこなった。
また、村垣は樺太における国境の交渉に備え、日本の行政の北限の確認をおこなっていたが、安政2年(1855年)締結された日露和親条約では、国境は棚上げ先送りとされている。
奉行所は、最初は前回同様宇須岸館跡に置かれたが、元治元年(1864年)奉行所を五稜郭へ移転した。
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函館の一大観光地である元町公園⛲

基坂から元町公園に入り、階段を登った左手に【箱館奉行所跡】の標柱が建てられています


箱館の街の防衛の為この地に置かれた箱館奉行所でしたが、海に近すぎる為、最終的には五稜郭内に移転する事になってしまいます
遺構などは見られず、標柱が建てられているだけなので、当初箱館奉行所がこの場所に有った事を知る人は少ないようですね