※2024年8月6日訪問※
天下御免のかぶきもの【前田慶次郎の墓所】を訪ねます
阿弥陀堂の裏山に墓所が有るとの事なので、山の中へ向かう獣道を進んで行きます
【月見平】への石碑が建てられており、こちらを目印に登って行きます
【月見平】は、前田慶次が交流の有った上杉家の家臣達と、その名の通り月を眺めた場所のようで、物見の役割を果たしていたのではないかと考えられています✨
夏場の藪に阻まれた為、今回は月見平への訪問は見送り
阿弥陀堂の裏手を登り山道を進んで行きます🚶
息を切らしながら、そして大量の虫達に襲われながら登って行くと、山の中に少し開けた平場を発見
ここが【前田慶次の墓所】と推測されています✨
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2021年、前田慶次の墓所とみられる場所が米沢市内の山中に見つかった。
前田慶次ゆかりの堂森善光寺(同市万世町堂森、酒井清秀住職)が、調査の結果をまとめて発表した。
墓所と推定されているのは、寺の裏にある堂森山の中腹。
整形された平坦地で、コの字形に溝が掘られており、大きさは南北に16・6メートル、東西に13・8メートル。
調査を担ったのは、米沢市教育委員会文化課の元副主幹で、考古学研究者の手塚孝氏。
市内には同様の形状をした中世末期から江戸時代初期の墓所がある。
この近くには慶次の知人の墓所があるほか、江戸時代に堂森山を描いた絵図には、慶次を悼んだとみられる供養塔も描かれている。
こうしたことを踏まえ、手塚氏は「山の中腹を人工的に整形した墓所で、ここに埋葬されたのは前田慶次以外に考えられない」と説明する。
慶次は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍し、現在も人気の戦国武将の1人。
加賀の前田家ゆかりの人物だが、前田家を出奔し、上杉家に仕えた。
慶次に関する歴史資料は少なく、「生没年は不明」とされている。
米沢市に残る郷土資料では、慶次は関ケ原の戦い(1600年)の頃に上杉家に仕え、戦後、上杉家が米沢に移されたのに従い、米沢近郊の堂森で暮らした。
「慶長17(1612)年6月4日に堂森で死去し、墓と碑は善光寺にある」という趣旨の記載もあるという。
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残された資料や、確認された平場の構造から、この場所に前田慶次が眠っている可能性が高いと判断されたそうですが、発掘などは行われていないので、『慶次の墓所である可能性が高い』というニュアンスのようですね
そんな前田慶次の墓所とされる場所に、2024年6月4日、新たな墓石が建立されました
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毎年6月4日に行われている前田慶次の供養祭、2024年は新たに建立された「慶次の墓」の開眼供養が行われた。
墓石を建てたのは、大阪府堺市で石材店を営む慶次ファンの桜井融さんや、市内の有志。
墓石は高さ約180センチで重さは約600キロ。
同じく慶次のファンで、米沢市の観光大使を務めるタレントの角田信朗さんが「前田慶次郎之墓」と揮毫。
角田さんは「感無量。今回はずっしりと重い大役だった。命を削って書いた」と話した。
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墓石の開眼供養には多くの方々が訪れたそうで、改めて前田慶次の人気の高さを伺いしれますよね✨
麓の阿弥陀堂や前田慶次供養塔から、山の中腹の慶次の墓石まではそこまでの距離では有りませんが、山道は途中からは整備されておらず、夏の時期は藪の中を虫に襲われながら、そして野生動物に脅えながら登らなければならなかったので、その点だけは注意して下さいね✨
紫陽花が美しい綺麗なお寺さんでした