▲出羽国・建勲神社(山形県天童市) 本殿▲① | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2024年6月22日訪問※



長い石段を登り、建勲神社の【本殿】が見えて来ました音譜


本殿の脇には【建勲神社の由緒】と書かれた案内板音譜


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建勲神社の由緒 

一、鎮座地 天童市城山1043の5

二、境内地 5531坪 

三、御祭神 正一位太政大臣織田信長命

四、由緒 

元和元年 (1615) 織田信雄(信長の二男)大和国五万石 松山城主 

明和四年八月 (1767) 織田信浮 羽前高畠に移封 

文政十一年五月(1828) 織田信美 村山郡天童に移る 

明治二年十一月(1870) 織田信敏 建織田社の宣命下賜 

明治三年十月 (1870) 織田信学 太政官に召され神号 建勲社と改称仰出

明治三年十月 (1870) 東京藩邸に勅使参向宣命を賜り 支配地天童藩知事信敏舞鶴の城山上頭に神城をトし神社を創立す 

明治六年五月 (1873) 県社に列す 

明治十七年九月(1884) 山上より現在地に奉遷 御祭神 参百年祭を斎行 

大正八年五月 (1919) 神饌幣帛料供進神社に指定さる 

昭和六年五月 (1931) 御祭神 参百五十年祭 斎行 

昭和五七年九月(1982) 御祭神 四百年祭 斎行

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【天童織田藩 織田氏宗家の系図】の案内板も建てられていますね✨


【建勲神社と天童織田家】と書かれた案内板は、天童と織田家の関係を解りやすく説明してくれているので、是非確認して頂きたいですね音譜


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天童織田家の歴史は、信長公の二男信雄に始まる。 

信長公は「 本能寺の変 」により四十九歳で世を去り、嫡男信忠もこの時京都妙覚寺で自害。

信忠の嫡男秀信(三法師)は関ヶ原の合戦後、高野山に入山し若くして世を去った。

ここで嫡流の血は絶え、二男信雄系の織田家が「天童織田家」に受け継がれた。 

信長公の死後、豊臣・徳川の世となるにつれ、織田家 は尾張・下野・ 大和・上野と国替えさせられた。

とくに徳川幕府は織田家が再び台頭す るのを恐れ、位は高く禄高は低くと冷遇した。 

また、追い打ちをかけるように宝暦八年(一七五八年)「明和事件」で藩士が倒幕に関与し、当時藩主の信邦がその責任を問われ隠居させられ た。

家督がその弟信浮に移ると、上野国(現、群馬県)小幡から出羽高畠に国替えされた。 

この時から天童は織田藩領となるが、次の信美の時、居城(館)を高畠から天童(現、田鶴町)へ移し天童織田藩となった。 

明治維新の際、天童織田藩は官軍に味方した功績で子爵に列せられ藩祖信長公には建勲神の神号を賜り建勲神社として明治三年に日本で最初にこの舞鶴山に祭られることになった。

なを、信長公を御祭神とした社は、 当建勲神社と京都船岡山にある建勲神社等の三社である。 

御祭神 贈正一位太政大臣 織田信長命

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恐らく日本の方のほぼ全ての方が知っているであろう《織田信長》という名前キラキラ

しかし、信長死後の織田家や、織田宗家が幕末に天童を治めていたという事はあまり知られていないですよねあせる


こちらは松尾芭蕉が詠んだ『原中や 物にもつかず 泣く雲雀』の句碑音譜


1857年(安政4年)雪山・文陽・閑斎・雪江・油静が城山(現舞鶴山)山頂に句碑を建立、1898年(明治31年)現在地に移転されたとの事です音譜

そしてこちらは【さざれ石】音譜


国歌《君が代》の歌詞の中に出てくるさざれ石ですね✨


▲出羽国・建勲神社(山形県天童市) 本殿▲②に続く