※2024年1月6日訪問※
二本松城の西の防備を担っていた【新城舘跡】までやって来ました![音譜](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/038.gif)
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二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。
慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。
平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていた事が分かりました。
また、平場の南端には直径約4㍍、深さ約2㍍の大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240126/21/date-kyo0625/1f/de/j/o1080081015394000251.jpg?caw=800)
◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城) 二本松少年隊顕彰碑/国指定史跡◆に続く