◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城) 新城館跡/国指定史跡◆ | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2024年1月6日訪問※


二本松城の西の防備を担っていた【新城舘跡】までやって来ました音譜


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二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。

慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。 

平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認され、中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていた事が分かりました。

また、平場の南端には直径約4㍍、深さ約2㍍の大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。


出土遺物から、茅葺き屋根で土壁の木造建築物が火災にあい、この残骸を整理した穴とみられました。

古い記録に天正14年(1586)の畠山・伊達両氏の二本松城攻防戦の末、畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入場した伊達成実がその後始末したとあり、この穴がその痕跡である可能性が高いと判断されました。

これらのことから、新城館は天正期には本城的機能を果たしていた重要な施設であることが判明し、記録の少ない中世二本松城の姿の一端がが明らかになりました。

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曲輪の南側には【新城館】の標柱が建てられていますね✨


畠山氏の時代にはこの新城舘が城の主要部であった可能性も有るということで、中世から幕末まで機能した二本松城の《歴史の長さ》を実感しました✨


◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城) 二本松少年隊顕彰碑/国指定史跡◆に続く