※2022年1月14日訪問※
宮城県大崎市古川の【宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城)】を訪れました
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平安時代、藤原秀郷が拠った所と云われ、その頃から要害として堡が築かれたと云われている。
平安時代末期には長岡郡の郡司平資幹の居城となり、その後大崎氏の家臣葛岡太郎左衛門が拠り、その後、宮沢遠江あるいは岩崎讃岐義久が居城にしたと云われる。
天正十八年(1590年)大崎一揆の際には大崎方の拠点となり、周辺の河川を堰き止めて城の周囲に水を引き入れ、伊達軍の攻撃を阻止した。
天正十九年(1591年)大崎一揆敗北の後、後藤康之が一時居城とし、次いで上郡山氏が居城とした。
しかし、12代千賀之助が領地替えとなり、延享四年(1747年)長沼氏がこの地に移り、明治維新までの124年間居館とした。
宮沢城本丸の規模は、東西30間、南北15間で、城内には守護神として鹿島神社、八幡神社を祀っていました。
本丸の東に二ノ丸が構え、西に西館と称する郭があり、光岳寺付近に出城がありました。
現在の宮沢城跡は宅地や耕地になっていますが、当時の城下町の道路などが多く残っており近年まで利用されていました。
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◆陸奥国・宮沢要害(宮沢城・鵜ヶ城) 馬場丁・裏馬田丁 家中屋敷跡◆に続く