※2012年5月5日訪問※
※2019年4月20日再訪問※
反りの立派な詰之門跡の石垣を見ながら、現在は涌谷神社への参道となっているかつての登城路を登って行きます
石垣の下からも見えていましたが、ここに、二層の小さな櫓が据えられています
これが、【太鼓堂】です
近くに案内板が有ったので、こちらから抜粋させて頂きました
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町指定文化財 太鼓堂(隅櫓)
天保4年(1833)の再建といわれ、屋根には仙台藩一門の象徴として鯱があげられている。
極めて素朴な建築で、仙台藩内における楼閣建築として、大変貴重な遺構である。
また、この太鼓堂の下の詰之門石垣とともに涌谷館内における藩政期を偲ばせる唯一の建造物である。
平成14年3月
涌谷町教育委員会
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確かに、屋根には鯱が乗っていますね
そして、非常にシンプルな外観です
破風や狭間なども見当たらず、一見すると、明治~大正期の和洋折衷の建造物にも
見えそうですよね
案内板にも有った通り、
宮城県内【唯一】の城郭建築の遺構
ひいては、
【仙台藩要害の唯一の建築遺構】でもあるんですね
さて、この太鼓堂ですが、誰がどう見ても、
【堂】
では無く、
【櫓】
ですよね
これには、ある理由が
徳川幕府が定めた、
《一国一城令》
これは、
『大名は居城のみを残し、領内の他の城については、ことごとく破却すべし』
という内容で、この内容からすると、仙台藩では本拠地である、
【仙台城】
のみが認められる事になります
しかし、政宗は、
片倉家の【白石城】も【城】として認めさせてしまっただけではなく、領内の城郭を【要害】と称して、なんとそのまま存続させたのです
恐るべし政宗公ですよね
これにより、涌谷城もそのまま存続され、表面上は《涌谷要害》として、そのまま砦としての機能を果たす事になりました(笑)
ただし、幕府の手前、
【城】ではなく【要害】としている為、
誰が見ても、【櫓】に見える【太鼓櫓】を【太鼓堂】という形で呼ぶようになったのでしょうね
いずれにせよ貴重な建築遺構
これからも、大切に保存されていく事を願っております
陸奥国・涌谷要害 涌谷町立史料館/涌谷町指定史跡◆①に続く