■三沢光晴 | 乱丸の不思議?

乱丸の不思議?

☣不思議な事件
☣凶悪事件
☣都市伝説
☣偉人伝
☣UMA



メモ三沢光晴


三沢 光晴は、日本のプロレスラー。


1981年に全日本プロレスにてデビュー。


同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。


レスラー兼社長として同団体を牽引した。


2009年6月13日、試合中リング禍により死去した。


46歳没。



メモ少年時代


三沢は子供のころから体が大きく、小学校時代に越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝するなど、運動神経が良かった。


中学校では器械体操部に入部。


三沢曰く、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きているという。


中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。


三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にアマチュアレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。


三沢は3年の時に国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってアマチュアレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。



メモ全日本プロレス入門


高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。


同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。


入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。


当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。



メモタイガーマスク(2代目)として活躍


1984年春、三沢は越中詩郎とともにメキシコへ遠征に出た。


数か月が経ったある日、三沢は馬場に国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ帰国するよう命じられた。


帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。


三沢は佐山聡の初代タイガーマスクの二番煎じであったことに抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクのデビュー戦のスケジュールは組まれていた。


三沢は8月26日、ラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。


はじめは小林邦昭を破って NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得するなどジュニアヘビー級で活躍したが、1985年10月にヘビー級に転向した。



メモ超世代軍とプロレス四天王の中心として活躍


1990年春、天龍源一郎が全日本プロレスを退団しSWSへ移籍、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。


この騒動により、全日本プロレスは天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになった。


騒動の最中の5月14日、三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。


三沢は川田利明、小橋健太らとともに超世代軍を結成。


ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。


超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。


三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。


超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え(正式に解散したのは1998年)、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。


三沢自身は小橋健太との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。



メモプロレスリング・ノア設立 - 最期


2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。


これをもって三沢は全日本プロレスを退団することになった。


三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて新団体設立を宣言した。


三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。


7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われた。


ノア旗揚げ後の三沢の体調は常に悪く、思うように練習ができない日々が続いた。


しかし三沢はノアの社長として試合に出続け、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。


休養をとるよう勧める声もあったが、それに対し三沢は次のように反論し、ノア旗揚げ後のすべての興行に出場した。


三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場。


試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。


リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。


三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「動けない」と応じたのが最後の言葉となった。



メモ主な得意技


■エルボー


■フェイスロック


■エメラルド・フロウジョン


■タイガードライバー


■タイガードライバー'91


■タイガー・スープレックス'84


■タイガー・スープレックス'85



メモ主な獲得タイトル


■三冠ヘビー級王座 : 5回(第10・14・17・20・23代)


■世界タッグ王座 : 6回(第17・20・24・25・29・39代)


■チャンピオン・カーニバル : 優勝2回(1995年・1998年)


■世界最強タッグ決定リーグ戦 : 優勝4回(1992年・1993年・1994年・1995年)


■GHCヘビー級王座 : 3回(初代・第5・11代)


■GHCタッグ王座 : 2回(第2・8代)



テレビ GHCヘビー級タイトルマッチ「三沢VS小橋」

右矢印https://www.youtube.com/watch?v=47WYNcKZuFg



乱丸のコメントひらめき電球


プロレス界の偉人は力道山やジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さんなど、他にもいますが全盛期をあまり知らないので今回は、私が大ファンだった三沢選手を選びました。


本当にプロレス界にとって偉大な人でした。


受身の天才と呼ばれていた三沢さんがまさかの技を受けての事故死しょぼん


私はこの人の人柄も好きでした。


お酒が大好きだったみたいですね。


年末特番などでお酒を飲み、下ネタばっかり言っていた三沢さんはおもしろかったです。


上に挙げた動画は私が思う三沢選手のベストバウトだと思います。


三沢さんが全日本を退団したおかげで今まで実現不可能と言われた試合も数多く実現しましたねクラッカー


三沢さん、本当に素晴らしいプロレスラーでした合格



ブログランキング・にほんブログ村へ
《送料無料》三沢光晴 DVD-BOX~緑の方舟(DVD)

《送料無料》三沢光晴 DVD-BOX~緑の方舟(DVD)
価格:16,386円(税込、送料込)