みなさんこんにちは
酒井根走遊会です。
今回はトレーニング情報ではなく、日本で活躍したAUS選手の記事を要約し紹介したいと思います。
昨年まで資生堂ランニングクラブに所属していたMelissa Duncan選手ですが1月より、活動拠点をオーストラリア・メルボルンに戻しでトレーニングを行っています。
2021年4月1日に行われたボックスヒル・クラシックでは、ペースメーカーによるリーディングをうまく利用し自己ベストを一秒更新したLinden Hall 選手が3分59秒のオーストラリア記録(オセアニア記録・オーストラリア人初めてのサブ4)を記録しました。
その同じ組3着の4分10秒でMelissa 選手も調子を上げてきています。これからの活躍を楽しみするとともに、更なる挑戦を応援しています。
引用元記事:Japan Runnning News "Letting go of Preconceived ideas - Australian Melissa Duncan on her time in the corporate Leagues"
”思い込み・既成概念を捨てる - オーストラリアのメリッサ・ダンカン選手が日本の実業団システムで過ごした時間より”
2019年オセアニア選手権5000mチャンピオンであるオーストラリア人のメリッサ・ダンカン選手は、2019年初旬から2021年初旬まで日本のランニング実業団、資生堂チームに所属した初めての非アフリカ系選手です。
資生堂チームでは女子駅伝の国内最高大会であるクイーンズ駅伝の国際区間での活躍を期待されていました。現在は母国のオーストラリアに戻って活動していますが、彼女の日本での良かった経験とどん底にあった経験を振り返ります。
資生堂ランニングクラブでの最初のミーティングを私は忘れることはないでしょう。
チームスタッフは次の日の練習を私たちに伝えました。
“朝練習は…、午前11時からの練習は…、午後練習は…” 私は何を言っているの!?と思いました。明日は3回も練習をするの? 私はそれがオーバートレーニングになると思いましたが、私たちの練習は週間スケジュールは週6日練習で1日の休養日を想定していないことに驚かされました。私たちはどれだけ走らなければならないの?と。
2019年に私は資生堂ランニングクラブに入部しました。チームメイトは13人の女性選手で彼女たちの共通する目標は毎年行われる42.195㎞を6人のメンバーで走るクイーンズ駅伝でした。所属するメンバーはフルタイムの競技活動という契約で、ランニング中心の生活をし、最高の状態でクイーンズ駅伝に望める体制です。
クイーンズ駅伝は各区間で距離が異なり、選手の得意種目によって適切な距離の区間を選択することができます。距離は最も長い区間で10.9㎞、短い区間で3.4㎞、そしてチームの中で一人だけ外国籍の選手が駅伝を走ることができます。私は非アフリカ系選手として大会の国際区間を走るための選手として雇われました。
日本で2年間実業団チームに所属する生活の中で、私はそこでの今までにはない経験を振り返り自分自身に活かそうと思います。それは私の日本の生活を観察したものだけではなく、私自身がアスリートとして私自身と向き合い、何が私にとって良いことなのか必要なことなのか、そして最善の方法なのかということです。
私はこれまで多くの国と地域をランニング活動のために回ってきました。様々なトレーニンググループを多くの国で観てきましたが、日本のシステムのように勤務時間のフルタイムをトレーニングのために使う、更にはアスリートのためにすべてが準備された環境というものは見たことがありません。
フルタイムアスリートである彼らの仕事は一日2回のトレーニングをプロ選手のようにするだけにとどまらず、空き時間には腹筋をしたり、ドリルをしたり、パーソナルトレーニングを受けたり、更には酸素カプセルや治療を週に3~5日は受けています。
私のチームメイトは、私が“週の走行距離はどのくらいなの?”と聞いたときに驚いているようでした。というのも彼女たちは、走行距離について考えたことはなかったからです。
彼女たちは単純にコーチの言ったことをそのまま行っていて、ワークアウトの目的やそこから得られる能力を考えず、練習に関して特に疑問もなく繰り返していました。
彼女たちの先週の週間走行距離を考えたときに、私はそれがおよそ200㎞に達していると分かりました。これは今までに私が行ってきたトレーニング期の走行距離を大幅に上回る距離でした。
違う文化に入れば、簡単に今までのアプローチとは相反することがあるとそこで思いました。そこには正解や誤りはなく、ただ違う経験や積み重ねがあって、私たちはその違った経験から構築された様々なアプローチをとっています。一度、これまでの既成概念や先入観を抜きにすることは、その環境におけるトレーニングに素早く適合することに繋がるでしょう。
隔離された合宿の環境は私にとって衝撃的な経験でした。快適とはとてもいいがたい日本の小さなビジネスホテルの部屋に数か月滞在し、練習のためにだけ外出を許可される環境です。特に駅伝に向けてその閉塞環境は強まっていきました。
これらの合宿では、他のライバルチームも同じホテルに宿泊していました。私が練習のためにホテルのロビーに下りた時には、他のチームのメンバーが集まり6時開始の練習の準備をしている様子を見ることができました。いくつかのチームは同じ掛け声のもとに数を数え、同じ動きを行いながら、同じ日本式ストレッチのウォーミングアップを行っていました。
これは私にとって、とても独特で素晴らしい光景でした。日の出頃の薄暗い光の中、私の目はまだ寝ぼけていたことと、みんな似たような髪型をしていることもあり、私は多くの選手たちの中でチームメイトをすぐに見つけることができませんでした。私は目を凝らして彼女たちの動きを観察することを楽しむとともに、丁寧に会釈をして、“おはようございます“とあいさつを交わしました。
もう一つの衝撃的な経験は、実業団チームには専属のシェフがいることです。私たちはチームの全員で一緒に食事をし、私は毎日シェフの準備する素晴らしい食事を楽しみにしていました。私が日本に行く以前の、典型的な練習前の食事は、ヨーグルトを1カップとジャムとバナナを乗せたトーストでした。そのため、ここで出される魚や野菜、ごはんそしてポテトは調整して食べていました。しかし最終的には、コーヒーよりも味噌汁によって朝の目覚めを実感できるようになりました。
美味しい食事でしたが、私は摂取するものに対してやや難しい適応をしなければなりませんでした。日本での初日の夕食は、とても日本らしい“おまかせ“レストランへ行きました。ここはシェフが私たちに出すものを決めるというスタイルの店でした。私は私自身を様々なことに躊躇なく挑戦する人間だと思っています。これまで一度も新しいことを試すのにためらったことはありませんでした。
しかし、私はそこでウニと生エビを食べた直後、私ののどは腫れあがり、気道は狭くなり、すぐさま呼吸困難に陥りました。私たちは即座にアドレナリンを注射するために病院に向かわなければならなくなりました。その経験は私が強い甲殻類アレルギーということを示していました。そのとても恐ろしい経験は、英語圏でない場所で新しい経験をする場合は挑戦をし過ぎない方がいいという教訓になりました。
これまで私は、自分自身の血液内の赤血球と鉄分量が大きく赤身肉に依存していたことに気が付いていませんでした。赤身肉を摂取しないで過ごした数か月後、私は無気力な状態が続き、ワークアウトができる状態ではなく、さらにはJogですら気持ちよく行えない状態になっていました。そして血液検査を受けてようやく貧血になっていることが判明しました。その原因としては硬い道路の上を常に走っていることも食事の変化と共に影響しているということでした。過去には低鉄分状態という経験はありましたが、貧血という経験は今までありませんでした。貧血時は慢性疲労症候群のような状態だったため、私は食事を元に戻し赤身肉をよく食べ、鉄分のサプリメントも摂るようにもなりました。
そして私たちのシェフは本当に素晴らしかったと思います。彼女は私が貧血であるということを知り、私によく食べることを勧めてくれました。さらにオーストラリアカンガルーの料理をふるまってくれました。
私の最も大きな挑戦の一つは、違ったトレーニングアプローチと向き合わなければならないことでした。非常に多い週間走行距離をゆっくりのペースで走ることを私は好むようになってしまったことも変化の一つですが、トレーニング中にもし私が楽しそうな笑顔でしゃべりながら走っているとコーチは険しい顔で私を見ることも分かりました。趣味を持ったり、友人と交流したりするようなランニングは推奨されません、それは100%トレーニングに集中できていないとみなされているためです。私は以前、毎週日曜日のロングランがトレーニングルーティンにありましたが、それはあきらめなければならなくなりました。というのも、周りのチームメイトと行うトレーニング計画はとてもハードでしたが、そこで自分のベストを出すために環境になれることは最も重要だと私は信じていたからです。
ロングランはチームトレーニングの内の一つとして計画されていました、毎週ではなく数週間に一度だけで、たったの16㎞、しかもきちんと決められたペースを追う形で行われていました。私たちはグループで走っていますが、一人ひとりが練習を集中して行うことを要求されて、話すことも笑顔で走ることも禁止されて黙々と走っていました。コーチは自転車か車で私たちを追ってきて設定された1キロ4分というペースをすべてのラップで記録していることが普通です。私はいつも“ロングラン”がロングランでない短さに驚いていました。しかし、あなたは6時の朝練習、数時間後の次の練習、そしてさらに練習をしなければならない…、当然私はそんなに多くの距離は一回で走りたくない!と思うようになりました。
最も大きなカルチャーショックの一つは、男性は女性の私を見下して話すことです。彼らのコーチングスタイルは、協力して共に歩むコーチングというよりもむしろ独裁的なものでした。そして彼らの持つトレーニング方法論はとても偏っていて“良い”と考えるトレーニング、今まで成功したトレーニング方法に関してとても頑固で柔軟性はありません。私は走行距離の多い練習計画と、それを追うことをとても困難に感じ弱気にもなっていました。しかし彼らは、それは私が“弱いから”といい、ただ私に押し付けるだけでした。様々な選手は様々な身体的違いがあり、それによるピークパフォーマンスの作り方、違った方法での能力の適応があること、彼らはこれらを全く理解していないように私には見えました。
それらは彼らにとってどうでもいいことで、“もっと走れば今より良くなる”ということは常に変わることはありません。
チームのコーチの内の一人はオーストラリアで“ニック・ビドー”のコーチングを学んでいました。
ニックはコーチとして多くの素晴らしい選手たちを育ててきた実績があります。しかしそのコーチはニックのアプローチを取り入れないことを決めて、それが明らかになるように日本に戻ってからのトレーニングは日本の典型的な練習方法を継続するだけでした。
最も私にとって厳しかった状況は、昨年4月にコロナウイルスの第3波が日本で起こった時のことでした。私は日本の南の方の人里離れた場所に2か月ほどいましたが、そこでは感染症や制限は特に発生していませんでした。この時は私は、日本という国を知りました。
日本は日本の市民権を持つ人を除く入国を全面的に禁止しました。私は入国制限にかかる外国人です。そのため私は帰国せずに11月の終わりにあるクイーンズ駅伝を終えるまで日本に滞在しなければならず、私の計画していた帰国を認められることはありませんでした。
その現実によって、私は私の母がとても心配になりました。私の母はちょうど化学療法を受け終わったところでした。私の姉妹は妊娠中で、祖母を無くした時でもありました。何もできない私は無力感に襲われていました。オリンピックは1年延期されたこともあり、私の外部コーチのトレーニング計画はないかのように、日本のチームトレーニングを強制されることになりました。それは個人の目標はないものとし、いまはただ駅伝のために走らなければいけないという現実でした。
そうした日々と走行距離の多いトレーニングは私に故障を誘発させました。私は何度もハムストリングスの付着部の痛みをコーチに訴えましたが、コーチはその原因は私が太りすぎているからだと言いました。それは私と私の体にとても大きなプレッシャーをかける言葉です。ハムストリングスの痛みを改善するためのたった一つの方法は“体重を軽くすること”と言われました。それから私は体重を減らすために、食事でたった150グラムのご飯を食べることさえ監視されました。
わかり切っていたことではありますが、これでハムストリングスの問題が解決することはありませんでした。そして別の問題があるという考えがようやく上がりました。
そしてついにMRI検査を受けることを認められて、診察を受けたところ大腿骨の疲労骨折があることがわかりました。それでもまだそのコーチは私に引き続きトラックセッションを続けるように言いました。なぜなら、彼の意見では腱は特に問題なく、骨はまだ完全に折れている状態ではない。ということが理由でした。彼は私がなぜトラックセッションを行いたくないのかを全く理解することはできませんでした。
私は交渉の末、トレーニング計画に戻るために3日間の休養を得ることができましたが、それは明らかに回復するために十分な時間ではなく、常に痛みを感じ、最終的に回復するための休暇が必要な状態でした。
私の頭の中は、今まで2年間日本で学んだことを整理しきれていません。それは新しい言語(日本語)で言及することも含めてです。
ここでは私が直面し挑戦してきたことに関して広く書き出しました。これらは私の人生の中で非常に貴重で、最も驚くべき経験となりました。
日本の文化に染まることによって、私は自分自身に対して我慢強くそして思いやりを持てるようになりました。私はここで他の人の話をよく聞くということを学びました。そして相手の言うことを最後まで話させることです。彼らは私の意見や今までの習慣を必要としていません。自己批判をし、楽な道を選んではいけない。
シェフの食事にはとても感謝しています。
人にやさしく、そしてシンプルに生きること。
特に新しいことでも複雑なことでもないけれど、ときどき私たちは、自分自身を見つめなおすために他の文化に入ってそこで何かしてみる経験もとても重要で必要なことだと思います。
私はオーストラリアに戻って約2か月を過ごしましたが、現在、私は自分の人生をとても楽しく過ごしています。そしてランニングも以前にもまして熱意をもって取り組んでいます。
私の日本での経験は、私にすべてのことに対して感謝させるだけでなく、私をランナーとしてそして一人の人間として強くしてくれました。