太平洋戦争は、列強により資源の輸入が封鎖された上での暴発だった。

開戦してすぐ資源国の占領は終わり資源の輸送が始まった。


しかし日本海軍は潜水艦の脅威を過小評価していた。

「潜水艦が軍艦ならば、潜望鏡に花が咲く」と言われていた。

開戦当初こそ米軍の魚雷は不発が多かったが直ちに改良された。


日本の占領地域海域内に米軍潜水艦が放たれた。

軍令部の人数は戦争開始前と後でも人数は変わらず、多くの職を兼任又は名前だけ貸していた。

取り残されたのは商船の護衛である。


せっかくの資源も、武器弾薬、食料も潜水艦の餌食になった。

ようやく駆潜艇を造るも潜水艦と砲撃して負けるという有様だった。


やがて前線への補給は駆逐艦に任された、所謂トーキョーエクスプレスの始まりである。

しかし既に制空権を失っていた地域では米軍の餌食になり、ついには輸送潜水艦を作り上げた。


資源輸送もようやく護送船団方式を取ったが時既に遅く制海権、制空権もなく

出航前に「どうせやられるから」と無線機を取り外された。


海軍軍人の戦死者より徴用された商船乗組員の戦死者の方が多いのである。



日本海軍は敵に動きを悟られていないと思い込んでいた。

アメリカ軍機動部隊は打ちのめすため日本海軍の倍の偵察機を放った。


日本海軍の機動部隊がミッドウェー島への空襲を試みるが事前に暗号を解読していたので防空兵力を増強させていたので思うような効果を得られなかった。

日本側も万一に備えて対艦装備をさせておいた攻撃機を陸装にする指令を出した。

その時偵察機から「敵艦隊を発見、空母らしきものを見ゆ」と無電を受けた。


「空母らしきもの」に混乱をきたし確認を求めた。

空母と判明してさらに陸装から雷装にして空母の中は大混乱をきたした。


このとき空母飛龍に乗艦していた山口多聞は例え陸装であっても空母へ攻撃すべきと上申したが南雲は取り上げなかった。

マニュアルどおりの攻撃をしようとしたのである。


そこへ雷撃機が襲撃、ゼロ戦が迎撃したが真上がおろそかになった。

急降下爆撃機の攻撃を受け燃料爆弾が友爆し結果として日本側は空母4隻と優れたパイロット・整備士を失った。


山口多聞は飛流と運命を共にした。


日本の対空砲火で撃墜されたアメリカ軍のパイロットは日本の軍艦に引き上げられた。

リンチを受け、重りをつけて海に捨てられた。

1942年6月、日本海軍は新たな作戦を展開した。

ミッドウェー島の攻略である。

地図で見れば分かるように日付変更線の付近である。


連合艦隊司令長官山本五十六は「敵の痛いとこ、痛いとこを続け様に打つことが大事」

と説いた。

その言葉に軍令部も「山本がそこまで言うなら…」と作戦行動を承認した。


綿密に作戦は打ち合わせられた。

机上演習も行った。

しかし日本海軍は船舶を失っても、次の演習には再出現している有様だった。

成功ありきだった。


一方のアメリカ海軍。

真珠湾攻撃で船を失った乗組員達は日本軍の暗号解読の勉強していた。

破壊されなかった港湾施設で修理に3ヶ月掛かると言われた空母ヨークタウンを

3日で直した。

暗号を解読し日本の潜水艦が警戒する水域を避けて出港した。


この作戦には目的が2つあった。

ミッドウェー島の攻略と

攻め出てきたアメリ機動部隊の殲滅である。


この2つの目的が明暗を分ける。